空と海
璃央は俺にプレゼントをくれた。
それは大きくて温かくて動く……俺が一番欲しいもの。
「伊予……重い」
伊予柑こと伊予はいつの間にかでかくなっていた。具体的には月葉がくれた時の2倍くらいの大きさに。
白い毛はふさふさで気持ちよく、枕にするといいが、
でかいには重いがつきもので、
やっぱり、でかくなられると邪魔だ。
ぐるぐると喉を鳴らした伊予は俺の腹に乗せていた前肢を退かした。そして、片目を開け、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
欠伸をした伊予の獰猛な牙がチラチラと見え隠れして恐ろしい。
よく寝てたのに起こしてごめん。
顎を掻いてやることで打ち消しとしてもらう。
さて、今、俺は海にいる。海は海でも春の海だ。
単純に寒い。
「へくしっ……ずず…」
くしゃみをし、鼻を啜り、パーカーの袖を引き伸ばして拳を隠して体育座りで縮こまっている俺。絵になるだろう?……冗談だ。ま、横にオオカミ犬のごとき犬型オオカミが体を横たえているだけユーモアはある。
湿った潮風が髪を少々ベタベタにし、てか、ベタベタだ。舐めたら塩味な気がする。
なんで海なのだろう。
海はあまり好きじゃない。
何故なら、海は神様の住まう場所だからだ。
神聖で侵してはならない場所。
だから、怖い。
近づけば祟られ、喰われる。あまりにも広く深い青に呆気なく全てを奪われる。
『私はここから生まれたの』
「―……!?」
すると、突然強い力によって押されて横転し、視界が揺れて何だか分からぬ間に固い砂に体を打ち付けた。頭を庇おうとして、開いていた口に砂が入る。
早く起きないと。
しかし、足を挫いてしまったようで、上手く体を起こせなかった。
心臓が苦しいぐらいばくばくと強く打っている。
大丈夫。焦らずに手を突いて起き上がるんだ。
しかし、手はどこだ?
頭は?
鼓動が煩い。
俺は何から逃げようとしているのだろうか。
「っあ!!!!」
パニックに陥っていた時だった。砂が口の中でぶつかり合う気持ち悪さと塩味が口に広がる。
反射的に目を瞑り、息を止めていた。
これは波だ。
波で海だ。
そして、体が引き摺られていた。
なんで?
俺、そんなに軽い?
もう訳が分からない。
なんで海?
なんで海にいたわけ?
ラジオのようなノイズに交じる獣の唸り声。伊予か?
だけど無理だ。
俺、泳げない。
―……き!洸祈!
誰かが呼んで…………。
べちんっ。
「い…っ……たっ」
寝起きから頬が超痛い。
「苦しいのか!?人工呼吸か!?」
え?は?何?
と、思った矢先に顎が引かれてぶちゅーだ。いや、マジでぶちゅーなんですけど。
「!!!?」
よくわかんないけど、二酸化炭素が押し込まれてきているようだ。つまり、人工呼吸のはずのぶちゅーのせいで苦しい。
「洸祈!洸祈っ!!」
呼ぶ前に二酸化炭素をどうにかしろよ。
「死ぬな!なぁ!!」
誰かの指が俺の胸を叩く。
だから、痛いんですけど。
バシッバシッと。
ヤバい。死ぬ。
「洸祈!死ぬなぁああ!!!!」
「煩いんだよ!痛くて死ぬわ、ぼけぇえ!!」
…………………。
ついツッコミを入れてしまった。
「洸祈!」
瞼がどうにか上がり、開けた視界にはあれだ。助け方が酷い常識はずれの阿呆。髪をびちょびちょに濡らして、ポタポタと俺の顔に水滴が落ちてくる。それを手で防げば、陽季は俺を抱き起こした。
湿って冷えきった服がぴたりと肌にへばりついて心臓が萎縮する。
「俺は……」
どうしたんだっけ?
「何で俺が自販機に飲み物買いに行くだけで溺れてんだよ!」
「へあ?」
「ドジっ子にも限度あるぞ!」
ぎゅうぎゅうと圧縮するように強く体を密着させてきて、陽季の驚きが背中を通して振動で伝わってきた。
「うぅぅ」
ぼーっとしてたら足が縺れたんだ。俺、泳げなくって、本当に突然で……。
ごめん。
言いたいけど、言葉が出なくて唸ることしか出来なかった。
「泣くなよ。怒ってないし。ちょっとびっくりしただけ」
ありがとう、陽季。
「ぐしゅん…ずずずず」
可愛いとかなしで、男らしくくしゃみする洸祈。プルプルと体を震わせていて、暖房を3ほど上げる。
コンビニに入り、びしょ濡れの格好でこそこそと買ったワイシャツにトイレで着替えた。そして、ズボンが売っていなかったから、買ったタオルで髪を拭いてからビジネスホテルに入った。ロビーで男同士で厭そうな目付きをされたが、こっちは暖を取りたいだけなのだ。それっぽく見せる為に舞団の一行であることにしといた。
ズボンを脱いで椅子に掛けて干し、順にシャワーを使った。狭いから二人一緒はお預けだ。
「テレビ見るのはいいけど、布団に入りながら見て。風邪引く」
「ううう」
赤い頬に虚ろな目。ダルそうにベッドの上に体を横たえている。
これはもう風邪になったかもしれない。
洸祈の湿った髪をかき揚げてでこに手を当てると、案の定、熱い。まずは動きそうにない洸祈に分厚く布団を盛る。
「うう…あつ……いぃ」
と、ねだられても出すわけにはいかない。
「水な?」
「ちが……う」
ずずずず…ずびっ。
盛大な鼻音。
どこからともなく現れた伊予柑とやらのオオカミにしがみつく洸祈が顔をその柔らかいだろう毛に押し付ける。
「ティッシュな?」
「うう……それでいい…よ」
箱からティッシュを出して渡そうとすれば箱ごと奪われた。すぐさま、ずーずーとかむ洸祈には申し訳なさしかない。
意味不明に溺れる洸祈も悪いけど、足も挫いてるし…目を離した俺も悪い。
まだ洸祈は不安定だ。新幹線に乗ったら、眠るのはいいが、悪夢を見たようで叫び暴れた。係員に謝ってデッキに出て落ち着くまで背中を擦った。吐きたいと言って何も出てこないというのに吐こうとしていた。
やつれ細くなった体。離れる度に洸祈は崩れ、壊れていく。
だけど、俺が付きっきりになるわけにはいかない。俺にも仕事がある。洸祈が家族を養う為に体を張るように、俺も世話になった施設の子供達が十分な教育を受けられるように稼いでいる。もう殴られて泣き、孤独に叫ぶ子供がいないように。
俺達は助け合っても凭れ合いはしない。だから、離れたくなくても仕事の為には離れなきゃいけない。惰性でぐだぐだした恋愛は洸祈にも俺にも受け入れられない。
だけど……―
「洸祈、俺にはお前しかいない。他なんてない。だから……」
俺にお前を縛らせないでくれ。
美しく空を舞う自由の鳥でいてくれ。
「だから逃げるなよ」
だから、俺はお前に痕を付けるよ。
「んっ…………はる…」
唇に首に肩に胸に手に足に。
どんなに遠くへ飛んでも、必ず俺のもとへ帰ってくるように。
「海に行こう!」
「だから、何で海?」
「俺が好きだから」
「俺はあんまり……」
「海は嫌いか?」
「…………………ちょっと怖いだけ。…………呑み込まれる気がして」
「……ぷ。洸祈にも怖いものがあるんだ。ははは」
「むぅ。もともと山の人間だし!」
そうだよ、洸祈。
『海』は怖くていいんだ。
その内には何も通用しない闇しかないのだから。