黄色い道の先へ
彼はダルい体を起こした。
椅子に座り、書類に埋もれた机の端に窮屈に寝ていたから、背中がバキバキと不気味な音を発てる。頭の下に敷いていた腕は、まるでその形を神経にインプットしたようで、動かすのに苦労と痛みがした。
彼は暫く拳を作ったり開いたりすると、鉛のように重く感じる腕を上げて、本体から伸びるコードだけで宙に漂うマウスを掴んだ。そして、何枚かの紙類を床に落として作った机の肌の上で滑らせる。
黒の地の上を小さな点が青い軌道を残して滑るスクリーンセーバは消え、眠る直前まで見ていたウェブ画面を映し出す。
『駅のホームで40代男性の遺体を発見』
「また…死んだ」
更新されたニュースのトピックを見詰めた彼は、額を机に付けるようにして深い溜め息を吐いた。
「まただ」
目を瞑り、そのままの体勢で数秒間沈黙すると、顔を上げ、『再生』の文字にアイコンを近付けてクリックする。
『今日午前4時頃、○○川の河川敷で40代と見られる男の死体が…―』
「今月で8人目…一体どれだけ殺せば気が済むんだ」
乾いた唇を舐めた彼は前髪を上げ、無造作に転がっていた眼鏡を掛けた。
ガー…ガー…
規則的な機械音。
彼の背後から聞こえる。
彼はニュースの再生を止めると、ゆっくりとキャスター付きの椅子から立ち上がった。
「まだ終わってなかったか」
彼の目に写るのは、高い棚の上段に置かれたコピー機から際限なく流れ出てくる紙。
紙…紙…紙…紙…紙…。
そして、
『死』『死』『死』『死』『死』。
「“死ね”なのかい?“死ぬ”なのかい?…クロノスは妙に当ててくるから厭だな」
今も機械が吐き出す一枚一枚の紙には、大きく『死』の文字。パソコンで打たれた均整の取れた字だからこそ、手書きより迫力がある。
すると、どれもこれも同じ紙を纏めようとした彼の指が何か柔らかいものに触れた。
例えるなら、それは人の肌。
「う~ん」
死の紙に埋もれていたものが動き出す。
「起こした?」
「え?…はい?…」
彼が声を掛けると、白い頬を細い黒髪に隠して踞ったものは、簾の間から藍色の瞳を覗かせた。
ぱちぱちと瞼を開閉する彼の名前はその瞳の色と同じ。
「シアン、君、埋もれてるよ」
「えーっと…あ……はい」
もぞもぞと紙類を掻き分けた彼は寝癖の付いた髪を撫で付けて、ちょこんとその場に正座した。そして、今もガーガーと動くコピー機を見て、片手で隠していても見えるほどの大欠伸をする。
「まだ終わってないんですか」
「本当に。せめていつ本題をくれるのか分かれば、こんなに無駄紙は使わないで済むのに」
「ですよね」
明るい茶色のブレザーに真っ白なズボン。内にはワイシャツに白のカーディガンを着たシアンは一見、学生のようだが、彼は一応、成人している。この服装は彼が学生時代から着ている立派な制服で、趣味かと聞かれれば、学生の頃はSサイズでもでかかったが、今になってやっと丁度よい大きさになったから着ているとのこと。
右の肩に付けられたバッチの色は青色。
シアン曰く、彼の学校で最高学年であることを示すものであるらしい。それだけでなく、バッチには他の色々な役目があるとか。
そして、シアンは小柄で童顔。大きな瞳を瞬かせて丁寧語で喋る。
所謂、純情なショタ系だ。
彼は喉の奥から絞り出すような声をあげて伸びをすると、ふらふらと立ち上がった。
「蓮さん、もしかしてずっと起きてたんですか?」
「そんなわけないだろう?プログラム完成したらすぐに寝たよ」
「あ、僕だけぐーすかと…すみません。その、プログラムできたんですね」
謝りたいのと喜びたいのが混じり、笑顔が消えたり現れたりと、表現に困っているようだ。
「君は偉いよ。あの早さでパスワード解いてくれたし。流石、神影君の一番弟子だ」
「あ、ありがとうございます」
ぺこり。
頭を下げた彼の頭の上に黒々とした紙が落ちてきた。
黒々と言うのも、とても小さな字が、端から端までを埋め尽くしていたのだ。
それを見た蓮の疲れの残ったままの表情に微かに光が帯びる。
「もしかして…」
「ああ。やっと終わった」
その紙を吐き出して止まったコピー機は静かになり、パソコンとエアコンの起動音、蓮とシアンの呼吸音だけになった。
「やっぱり、解読プログラムないと読めないね」
英数字だけでなく、平仮名、カタカナ、漢字、記号までが一見法則性なく並べられていて全く読めない。
キャスターを転がして椅子を引き寄せた蓮はどかりと腰を下ろした。シアンも隅に置かれていた椅子を引き寄せて座る。そして、老眼鏡の奥の瞳で字を見詰める蓮を見詰めた。
「あ…………」
「?…シアン?どうかしたかい?」
「右下に…」
蓮は言われた右下を眺める。
そこには偶然なのか、“日本語”があった。
『頑張ったら時間掛かったよ☆オズ』
「あー、そーゆーこと」
蓮の気の抜けた声。
「え?」
シアンは思いっきり溜め息を吐く彼に首を傾げ、紙をじっと覗き込んだ。
「ただの暗号…―」
違う。
「あ!!」
「モザイクアートってとこか」
近くから見ると分かりにくいが、文字の形を利用して書かれたそれは、
「蓮華だね」
大輪の蓮華。
ハスだ。
「時間が掛かったって…」
「暗号文を崩さずにハスを描く。一体どれだけの労力を使ったのか…オズは相変わらずの馬鹿だ」
「でもこれは本当に凄いです。そのオズさんって」
「この世界じゃ年齢じゃなくて技術がものをいう。たとえ、僕らのトップに立つオズが17歳のお嬢様でもね」
蓮はぎしりと背凭れを鳴らすと、その紙をスキャナーに移す。
「17歳のお嬢様!?」
「あの時はまだ15の少女だったっけな。僕がオズ達の中に入れてもらったのは。どうにかコードネームだけ辿り着いたクロノスに頼み込んでさ、でっかなお屋敷の招待状が届いたんだ。その時点で僕は本名と住所がバレてると改めて凄さを実感したんだけどね。そこで声を掛けてきたのがオズ」
彼女は可愛らしく、しかし、内からただ者ではない雰囲気を滲ませた女の子だった。