犬猿の友(3)
「洸祈!」
んっ……………………………。
「な、ななな何してんのや!!」
短い黒髪の女はリビングに入った洸祈の唇を奪った。由宇麻は目を見開くと、洸祈の袖を強く引く。
「空穏、やめろよ」
洸祈は声音を低くして付いた口紅を手の甲で拭った。
「ふんっ。逃げる貴方が悪いのよ!」
「婚約者なんて知るかよ」
会って早々に険悪なムード。
「なんか…なぁ」
そんな中で由宇麻は腕を組む空穏に憎悪ではない違和感を感じていたのだった。
「で、それがお前の彼女だと」
憲はじーっと由宇麻を眺める。由宇麻は身動ぎすると、洸祈の後ろにすっと隠れた。
「ちっこいな」
「叔父さん、梨々は気にしてんだから言うなよ。一応、毎日牛乳飲んでるらしいから。な?梨々」
ニコッと自然な笑みで洸祈は由宇麻を見下ろす。
梨々。と呼び捨てに苛立ちを感じながらも、由宇麻ははにかんで返した。やっぱり、洸祈の悪戯な笑みでも意地悪な笑みでもない笑みが見れて嬉しい。
「う…うん」
と、
「ちっこいってのは―」
憲の手が…―
「こっち」
もふっと。
……………もふもふ…。
「叔父さん!!!!!!」
由宇麻のない胸を憲は触れた。とても大胆に。
布越しにまさぐるその手を洸祈は捻り、憲をソファーに突き飛ばして由宇麻を振り返る。
「しっ…梨々!!」
梨々こと由宇麻は胸元を腕に隠して肩を震わした。
「…ふぇっ…はぅ…っくぅ…」
そして、涙を溜めてぎりぎりの由宇麻。確かに男だから小さいが、小さいけど、小さいからって、揉まれたら由宇麻の脆いお心は粉々だ。
由宇麻が泣き出したら梨々が泣いてしまう。と、洸祈は慌てて、彼女の『梨々』ではなく由宇麻のフォローに入った。
「梨々、泣いたら化粧流れちまうぞ」
元々パッチリとした目だったし、肌も艶々だったが、薄い化粧でも涙の跡はかなり目立つ。
「だって…だってぇ…」
しかし、彼氏の慰めは効かずに由宇麻はぐずりだした。瞼から堪えきれずに滴が流れるのも時間の問題だ。その時、繊細な女心を持った由宇麻への対応に白旗を挙げた洸祈の横を空穏が通った。
「梨々ちゃん?この馬鹿親父は私が後でぎったんぎったんにするから。ね?女の子なら涙は好きな人だけに見せるものよ。私の親父なんかに見せちゃ駄目」
空穏はハンカチをその目尻にそっと当てる。
「ふぇ……う…ん」
こくりと頷いてやっとこさ治まった由宇麻は、その後は洸祈の後ろを定位置としていた。
「何よっ」
ぼんやりと由宇麻をあやすのを見ていた洸祈をむすっとした空穏が睨む。すると、しばしば考える素振りを見せた彼は艶かしく味わうように唇を舌で濡らした。
「変わったな、空穏。最初のキスは変わってないけど」
「なっ!!…あんただって変わったわね!」
真っ赤になった空穏はのびている父親の隣に座ると言い返した。
「そうか?」
ぽけっと洸祈は首を傾げると、食卓用テーブルの椅子に座る。
「そうよ。こんないい子の彼女がいるんだもの」
「まぁな。てわけで婚約は解消な、空穏」
「……私に言わないでよ…」
空穏はどこか表情に影。
憲から離れて洸祈の隣に座る由宇麻はいつの間にか自然と洸祈の袖を引いていた。
「……梨々?」
「崇弥…ホントのこと言うてあげたら?陽季君ええ子やし、空穏ちゃんなら分かってくれ…―」
「お前は黙ってろよ。空穏は俺のことが嫌いだ。俺だって嫌いだ。空穏が出来ないなら叔父さんに解消させればいいんだ」
「…ホントにそう思うんか?崇弥」
由宇麻の瞳が洸祈を捉えた。眼鏡のない素の瞳は黙った彼を惑わせる。
「思う」
しかし、洸祈は由宇麻の意見を聞き入れなかった。
「崇弥!!」
女装に『梨々』に色々重なった由宇麻は多分、気が立っていた。そして、怒鳴り声に驚く空穏を置いて、由宇麻はキレる。
「嘘吐くん!?そんな奴なん!?分かってるんやろ!空穏ちゃんが崇弥のことを―」
「梨々、今すぐ出てけ」
これが最後の警告だったのだろう。唖然とする空穏の前で洸祈の瞳が輝いた。由宇麻が椅子を倒しておずおずと立つ。この状況、すがり付く余地は由宇麻にはなかった。
「ちょっと洸祈…突然何?」
蚊帳の外に無理矢理追い出された空穏は怯える少女を他人事に思えなかった。
「お前には関係ない」
「っ!!な、何よ!だったらその顔止めなさいよ!私には構わないけど、その顔、最低な顔よ!!」
空穏は性質上以前に人として洸祈を批判する。洸祈の益々のイライラを感じた由宇麻は彼女を止めようとして、短気な洸祈が先に行動した。
「ちょっ!?」
パシッ…―
乾いた音がした。
「叔父さん」
憲の手のひらが洸祈の悪意持った拳を空穏の眼前で止めていた。一触即発の彼らの手が振動しているのは、洸祈が本気で殴ろうとした証拠だ。
「俺の娘に手ぇ出されちゃあなぁ」
鋭い眼光は昨日は効いても今日は更に洸祈の緋を気味悪くさせるだけだった。
「ああ、そうだよ。暴力振るう奴なんか娘の夫にしたくないだろ?」
「武術をたしなんでいながら素人に本気で手を出すなんて失望したさ。慎もな」
慎の名が出たところで洸祈がピクリと反応し、娘をいざこざから逃がした憲の押し返す力が勝って彼が腕を下ろす。そして、俯いた赤髪に触れられる前に洸祈が由宇麻の腕を掴んでリビングから引き摺り出した。
「崇弥!」
「司野、帰ってくれ。こっちの勝手なのも分かってる。約束は守るし、この失礼の埋め合わせは後でするから」
曖昧な表情…ではない。由宇麻はじっと身勝手な彼を見上げ、しかし、まだ苛立ちを隠せていない顔に引き下がることは出来なかった。
崇弥は誤魔化している。
「結局、嘘つきなんやな。崇弥は」
「……司野、俺は後で非礼は詫びると言った。これは俺個人の問題だ。だから、お前の説教はいくら食らったっていいが、お前はここで退場しろ」
そう言って、閉まりかかったドアを由宇麻は慌ててがっちりと掴んだ。洸祈の冷めた瞳が由宇麻に向く。しかし、このまま逃げさせるわけにはいかない。
「ホントは崇弥は空穏ちゃんの気持ち分かってんやろ?せやゆうのに、崇弥は好きな人がおること隠して、俺って偽者作って空穏ちゃんに何一つ真実を伝えずにおるん?」
不意に閉める力が強くなり、それを由宇麻は全身と持てる最大の力でどうにか阻止する。
「離さないと手を挟むぞ」
「崇弥は傷付けられへん」
今だって、全力の由宇麻に対して洸祈は片手だ。洸祈は手加減している。
「そうだな。俺は司野を好きだから」
「俺も崇弥が好きや。だから、嘘は駄目や。陽季君かて、隠されてたら悲しいやろ?」
もうすぐ落ちる。
由宇麻が洸祈の優しさを信じたその瞬間だった。
「俺も司野には悲しいよ」
「え?」
「伊予、司野を連れていけ」
白い獣がそこにいた。牙を剥く狼は、前回由宇麻が首根を咬まれたまま病院まで文字通り飛んだ時よりも小さかった。しかし、その雰囲気はより恐ろしくなっていた。
「たか…や」
「司野は俺の太陽だよ。温かい。けど、太陽は夜には帰らなきゃ。夜までいられたら、月に迷惑だよ」
比喩に比喩を重ねる洸祈は静かに怒っていた。憲に慎の名前を使われたことで『手っ取り早い方法』を失った洸祈が冷静でいられる限界は近いようだ。
「俺がいたら…邪魔か?」
違う。
そう答えてくれると由宇麻は信じていた。洸祈は由宇麻が好きだから、突き放すことはしないと。
「邪魔だよ。物凄く」
「嘘…やろ?」
「嘘だと思いたいなら嘘だと思えば?俺は嘘つきなんだろう?」
「言葉のあやや!なぁ、崇弥、嘘やろ?なぁ!」
その必死さに口を半開きで息を吸った洸祈は胸ぐらを掴んでくる由宇麻をおもむろに力を込めて退かせた。
「崇弥ぁ!」
……チッ。
誰かの舌打ち。
「司野は無責任なんだよ……伊予、後は頼んだ」
グルルッ……―
カリカリと前肢の爪が床を引っ掻き、唸り声は低く由宇麻を脅す。そこには一切の躊躇もない。洸祈の発散されない怒りを全面に表現したかのような。
「司野はやっぱり俺から離れるべきだ。司野はいい子過ぎる。合わない」
ドアは冷たく閉まった。