心の壁(3)
「蓮!おい、蓮!」
「蓮!しっかりしぃ!」
蓮は固い体を起こした。
「った…頭…痛い」
「水やけぇ。ゆっくりぃや」
白衣の袖が長過ぎて、手が隠れている少年は、水の入ったコップを蓮に渡す。蓮は目を瞑ると、ゆっくりと水を口に含んだ。
「ありがとう…せっちゃん」
「お前の魔力で雪癒、苦しんでたしな」
と、白衣姿のもう一人。
青年は蓮の白い肌に付く吸盤を外しながら言う。
「神影ぇ!秘密や、言うたやろぉ!」
雪癒はぴょんぴょん跳ねて、神影の背中を叩いた。神影は気持ち良さそうにしながら言い返す。
「うっせぇ。お前、吐いたんだから蓮にちゃんと言わねぇと」
「それも秘密やて!!」
「せっちゃん!」
コップを脇のテーブルに置くと、蓮は雪癒を抱き締めた。雪癒は瞳を幾らか開閉すると、蓮の胸に顔を埋める。
「蓮の方が辛いんやけぇ。気ぃしいな」
「作りものだから、あんまりコントロール出来なくてごめん」
「思い出したけぇ?」
作りものだから。と言う蓮に雪癒は複雑な顔をした。
「ちょっと整理させて」
「泣いてる蓮は言わんでええ」
蓮は首を傾げると目尻を流れていたそれに驚く。
「泣いてる…僕…泣いてる」
「ほら、ハンカチ」
「花柄じゃないね。うそうそ。ありがとう」
蓮の嫌味に神影は、慣れているからこそ、本気か分かるので、言い返しはしなかった。水色の綺麗にアイロンのかかったハンカチを渡すと、彼は蓮のシャツのボタンをかける。
「どうなったの?」
目尻にハンカチをあてた蓮は訊いた。
「意識不明」
「君が?君、よく過呼吸起こすよね。疲労にストレス溜まりすぎ。3食ちゃんと摂ってないでしょ?睡眠時間は3時間ちょっとでしょ?」
「冗談はよせ。お前がだ」
くすんだ蓮の金髪をぐしゃぐしゃと掻き回した神影は溜め息を吐き、部屋の隅にある白のグランドピアノの椅子に腰掛ける。そして、蓮をじっと見詰めると、白衣を大理石の床に脱ぎ捨てた。
「今日はもう俺、眠るから。勝手にどこへでも行け」
「終電、行っちゃったよ?」
「あーもう!お前、俺のベッド使え。雪癒と一緒に寝ろ。俺はソファーで寝る」
そしてそのまま、神影は蓮達に背を向けて、ソファーに寝転ぶ。
「神影はかわええのぉ」
「本当に」
あまり力の入らない足で立ち上がった蓮は壁伝いにピアノ椅子まで来ると、座り、蓋を開けた。
「蓮も弾けるんやけぇ?」
「うん。専属家庭教師付きのお坊ちゃまという設定の巫蓮はね」
ぽーん。
ピアノが鳴った。
「ピアノに関しては毎日3時間練習していたよ」
設定では…―
蓮が言う。
「聴いてくれる?」
「我も神影も聴いちょる。蓮、よろしゅうや」
「うん」
蓮は半音が白の黒い鍵盤に指を乗せた。
ぽーん…―
「8月1日生まれ。成り上がりの巫家の末っ子」
指先と鍵盤を見詰めながら、蓮は言う。
「巫って…大層なお坊ちゃまだな。早く気付けよ」
神影は雪癒に半分場所を空け、肘掛けに肘を立てて返した。
「だってこれは、僕が記憶喪失で失われた記憶って設定なんだから。炎に拾われたって設定の所からしか確実な記憶がないんだ」
「そうか…」
「身代金目当てで誘拐されて、誰も僕にお金なんて用意してくれなくて、散々遊ばれてから、結局、死にかけの僕を捨てたという設定。そんな僕を炎が拾ったという設定」
指先は軽やかなステップを利かせているのに、言葉が重たい。
「でも、記憶喪失も記憶喪失で失った記憶もつくられたものだった。僕はね、作り物ばかりでできてた。父親も母親も作り物。僕自身でさえ作り物」
笑えるね。そう言った蓮だけが空笑いをした。
「神影が相手とは珍しぃのぉ」
雪癒は細い喉を鳴らした。
「別に珍しくないだろ。半月前ぐらいに一度、相手したしな」
神影も喉を鳴らして言う。
「神影にも我の感覚が移ってもうたか。そんなだから、軟弱なままなんやけぇ?」
ブルーのライトだけの薄暗いその部屋で、彼らは酒を酌み交わしていた。
ここは神影の寝室だ。
「軟弱だろうと、俺はこの生活に慣れてる」
神影のベッドで眠る蓮の髪を弄る雪癒の向こう、30センチ水槽を泳ぐ小海老を見ながら神影はもう一杯、酒を仰いだ。
「気付いた時には、神影はじっちゃんやけぇ?一度、東京の早い空気でも吸うて、時間調整するんやのぉ」
「ひ弱な俺が死ぬ……ひっく」
「甘酒で酔うたか?」
椅子から立ち上がると、ベッドで眠る蓮の頭上に座り、脇の棚から風邪薬の瓶を取り出す神影。
雪癒を無視した彼は、蓮の頭を自らの膝に乗せ、薬と水を準備すると、そっと片腕で頭を上げた。
「蓮」
「ん…せっ…ちゃん?」
「飲め…特製だからお前にも効くから…」
溜め息を吐いた雪癒はただ、二人を見る。蓮は神影に促されて薬を口に含むと、神影が傾けたコップの水を飲んだ。
「休めよ。明日には迎えが来るからな」
「むか…え…?」
「眠れ…蓮」
蓮が素直に眠ったのを確認すると、神影は仏頂面で、蓮の額を撫でて髪をかき揚げる。蓮の手が、ベッドに突いた神影の手を握った。
「ダメダメやのぉ、神影ぇ」
雪癒は黒髪を揺らして神影の横顔を見詰める。
「…」
「マッドサイエンティストの自称が廃るけぇ?」
日本酒の瓶を掴んだ彼はワイングラスに覚束なく注ぎ、口に傾け言った。
「分かってる。すまなかった。俺のせいだ」
神影は凝ったらしい首を回して返す。
「加減を間違えた。もっと辛い記憶を思い出させた。こいつの願いは記憶喪失で失った記憶を取り戻すことなのにな」
思い出させ過ぎた。
失敗だ。
「限界ギリギリや。これ以上は、我の許せんとこへ行くところやったけぇ」
「これ以上?雪癒、まだ、消えた記憶があるのか?」
「神影ぇ、我にも記憶がある。長い長い年月の。他の奴等よりのぉ。我は傍観者。傍観者だからこそ、残された記憶がある。分かるけぇ?マッドサイエンティスト」
一定のペースを崩さず、傍観者は酒を飲む。
飲まなくては、ありすぎる記憶に潰されてしまう。
「言えないんだろ」
「だけどまぁ、蓮の根本は守った。いや、守られておる」
「?」
「蓮は誰の生命なのだろうよのぉ」
「出身…か」
生まれだけは戻らなかった。
守られた記憶だけは。
僕自身でさえ作り物…―
「…思いまで作り物だったら悲しいな」
「蓮も考えたやろなぁ。我らが変わらないことが支えや。のぉ、神影?」
「あぁ」