休憩
蓮が貸した客室の一室で、一度熱に浮かされ、やっと落ち着いた琉雨の額を洸祈は撫でていた。
「……………ほぇ?」
「ちょっと熱あるからな、辛いなら薬飲むか?」
汗に濡れた額にタオルを触れさせ、彼女の頭を腕に抱えると乱れた髪を直す。
「苦いのは…嫌…です」
それよりも…―
「ん?」
「ルーは…抱き締められると…いいな」
紅葉のような小さな手のひら。
彼女は太陽の光のように柔らかく温かい笑みを溢して視線の定まらない彼の後ろ首に触れて軽く引いた。
「旦那様、ルーを見て?」
少女の頬を伝う一筋の涙。
気付いた琉雨は洸祈が指の腹で拭う前にそれを手の甲で擦り消してから主の頬をつねる。
「琉雨?」
「今は…旦那様に…抱き締められたい……ずっと会えなくて……寂しかったです」
洸祈は彼女を優しく抱き締めた。眠気が来たのか目をしばたかせた琉雨は安心して彼の温かい首筋に冷えた鼻先を擦り付ける。
「ねぇ、旦那様……」
「なんだ?」
琉雨は痛むのか、頭を軽く押さえて踞った。洸祈は慌てて琉雨を自らから離して額に触れる。
「上がってる……痛いか?」
「いえ……ルーは…ルーが眠るまで旦那様に……抱き締められたい…です」
琉雨が求めた。
洸祈は頷くと、自分もキングサイズのベッドに乗り、並んで寝て少女を抱き寄せる。そして、小さな鼓動を聞きながら琉雨の肩まで毛布を上げた。
「おやすみ…なさい」
「おやすみ、琉雨」
「にー?」
遊杏はそっと扉を開けた。
―蓮はおやすみ中―
漆黒の体に紅い瞳。
セイが遊杏が紫水と契約する際に反対した彼を結界に閉じ込めたため、不機嫌そうに彼女の頭上を飛ぶ。
―蓮の足、もう動かない―
セイが鳴く。
―遊杏が生きているから―
セイが鳴く。
―遊杏は悪い子。蓮を泣かす―
セイが泣く。
―遊杏は意地悪。蓮は遊杏が好きだから―
セイが泣く。
―羨ましい。羨ましいよ―
セイが泣いた。
「煩いよ!」
蓮の部屋に入った遊杏は威嚇するように瞳を波色に輝かせる。
「セイだって、スイだって、ボクチャンとおんなじだ!」
―同じなのに蓮は僕らを抱き締めない。だって、僕らは彼らの代わりだったから―
セイが叫ぶ。
―遊杏の代わりはもういない!僕らの代わりはいる!―
セイが叫ぶ。
―僕らは……代用品だ―
セイが絞り出すように囁いた。
少年の声は、部屋の角に置かれた机の上方に掛けられた籠へと遠ざかる。そして、薄く赤の滲んできた闇の中でそれは小さく鳴き、丸くなる。しかし、遊杏は言い返すこともせずにレースの中へと姿を消した。
結び目がほどけ、ベッドから垂れていた包帯を手に取ると、シーツの上で眠ってしまっている蓮の足に巻き直す。素肌は冷たく、死んでしまっていないかとヒヤリとするが、蓮は体を縮めた。紫水のもとで全てを知ってしまったようだが、蓮は至ってどうともない。寧ろ、表情が柔らかくなった。
「にーは……ボクチャン達を…………捨てないよね」
遊杏は跳ねる髪を蓮の体の上に滑らせ、背中を曲げた彼の胸元に頭を押し付けて目を瞑る。
「にー……にーを本当に愛せるのはボクチャン達だけ……だよ」
蓮の手が遊杏を引き寄せた。
「にー…?」
「僕の痛みが…分かるのは……君達だけだよ」
「うん」
この体の痛みを分かち合えるのは同じ体の者のみだ。
彼女は蓮の匂いを大きく吸って眠りに就いた。
「それにしても、君は大変だったね」
紫水は研究所内で唯一気の許せる友を見上げる。
「ええ。正直、話の理解できないお子様とはもう関わりたくないです」
笹原は普段はぴっちりと着こなすスーツを崩し、袖をたくし上げて見せた腕にギプスを嵌めていた。彼は寝室ではなく、滅多に誰も使わない談話室のソファーに身を沈めて雑誌を捲る紫水を見下ろす。
「正直過ぎるよ。まぁ、僕もだけど」
紫水は一度だけ笹原を確認してからは外国の科学雑誌につまらなそうに視線を落としていた。
「でも、あなたの重荷が少しでも降ろせたのなら」
「重荷じゃないよ。思い出だ。そう教えてもらった」
軽く溜め池を吐き、ぱたんと雑誌を閉じるとテーブルに置いてソファーに白衣姿のまま寝転ぶ。そして、独白のように述べて四肢の力を抜いた。
「では、滄架様からのハスはどうしますか?」
滄架に連絡を取ろうとすれば、彼女は出てはくれず、代わりに速達で要常温水とマーカーで丁寧に書かれた箱にハスが根ごと届いた。消印を見る限り、新潟の辺りにいるようだ。
「僕の部屋の水槽に入れておいて。今は何もいないから」
足先でだらしなく寝室の方面を指しても笹原は何も言わない。
「分かりました。失礼します」
しかし、行動では意思を示し、皮の手袋をした動く手でそっと足を下ろさせた。そして、無駄に広く無駄に豪華なカーペットにアンティークの木のテーブル、ふかふかのソファーが点在する談話室に背を向けて出ようとする。
と、紫水が彼を留めた。
「いや、あとでいいよ。今日はもう遅い。睡眠は何でもに効くよい薬だ。ゆっくりおやすみ。明日は朝寝坊を許すから」
きゅぽん。
そのままの通りの擬音。
友の気遣いに従いかけて、彼は懐に隠していたらしいワインの栓を宙に飛ばした紫水を振り返った。そして、紫水はワインをただ瓶から飲み始める。その可哀想なワインの銘柄を見た笹原はいつもの行動だと思いつつも眉をぴくりと動かした。
「紫水様、あなたはそのワインの価値が?」
「え?知らないよ。寝酒になるかなと」
それを聞いた笹原は、がぶ飲みに入ろうとする紫水を抑えると、静かに隣に腰を下ろして、穏やかに強引に赤ワインの満ちるそれを奪った。
「笹原、なんだい?」
「いいですか?」
「?」
紫水が首を傾げた時には遅く、片腕ギプスの彼は語る。
「2006年の第1級、シャトー・ラフィット・ローシルト。とても繊細で優美。理想の赤ワインです」
「ふーん。なんか凄いと言いたいのは分かるよ」
舌に流すものが失せ、付き合うのが面倒くさくなる紫水。だが、友はこういう時に限って馬の耳に念仏以上に質が悪くなる。
「いや、分かっていないです」
話を聞かず、話を聞かせるようになる。
「じゃあ、それで?」
ここは適当に相槌を打つだけだ……ったが、
「これの相場は5万から10万以上。…………超お高いワインです」
紫水は素早く耳を塞いだが、既に重要なことは聞こえてしまっている。
瓶1本は約750ml。紫水が飲んだ1口ちょっとを10mlとすると、最低額5万で計算し、
「あんな少しで670円以上も……?」
ケチな研究所の共同倉庫に何故?政府の上はお金の使い方が間違っている。もしかしたら、会計がわざと経費で落として、後で飲もうとしていた隠し酒かもしれない。
「あーあ、こんなのが40本はあれば、前に崇弥洸祈が壊したのも新調できるのに」
「こんなのとは…いいですか?このワインはシャトーの王様、5大シャトーでも最も美味と言われる…―」
「あーもう。君のうんちくはもういい。君ってワインマニア?」
「いいえ。付け焼き刃なただの知識です」
「付け焼き刃って……もしかして、僕がそのなんとかを持ってること知ってた?」
「2006年物のシャトー・ラフィット・ローシルト。昔、あなたが初めてワインを口になされると聞いた時に調べた知識に偶々あっただけです」
偶々。それも、紫水が初めてワインをたしなむだけで、笹原は銘柄まで逐一、付け焼き刃として調べていたようだ。
「君は随分と恐ろしい奴のようだな」
「そうです。だから、そんなに飲みたいなら、やけ酒にはもっと安くて軽いものを。というわけで、お休みまでお供します」
と、ちゃっかり、何故かある懐の缶ビールとワインを交換する笹原は紫水の友であり、信頼できる部下であり、侮れない男だ。
「君は常にビールをスーツに忍ばせているのか」
「今日は何となく、あなたがお酒が欲しくてぼーっとしているだろうと思いまして」
「なんか、日常生活だけは君に管理されて気がする」
「管理できないからです。あなたは自分に無頓着だから」
笹原はクスリと笑みを溢したが、これはとても珍しく、はっきり言って、明日は大雪になると紫水は思った。
決して、嫌がらせの意味ではなく。
「おかえり」
土日の休みに実家に帰ってきていた璃央は自部屋のベランダで澄み冷えた空気を吸い込んだ。
『璃央』
久々のヒトの姿。
璃央の護鳥の琉歌が璃央が凭れる柵に腰掛ける。柵は大の男の重みに軋むこともなかった。
「琉雨は洸祈といることを選んだか」
『ああ』
「残念か?」
崇弥の実家を二人は無意識に首を回転させていた。
『いや。あの子が選んだんだ。嬉しい限りだ』
「そうか?何だか不服そうな顔だ」
『私をからかってもいいことはないが?』
紅い瞳が璃央の黒髪を見詰め、深緑の目を見下ろす。璃央は視線に気付くと苦笑いし、真剣な表情に変わった。
「それじゃあ、何か言いたいことが?」
『………………』
「まず聞いておこう。琉雨か?洸祈か?」
『洸祈だ』
「それで?」
『疲れているようだった。ものすごく』
琉歌は姿勢正しく空を見上げる。
洸祈の呼吸の一息一息が重たく、ダルさが滲み出ていた。
「お前が言うのだから、相当なのか」
『洸祈の頭の中は寒い。あの頃とは……正反対だ』
「……………」
璃央の無言。
『後悔しているのか?』
「私達大人の責任だ」
『璃央は悪くないと思うが』
「氷羽の存在を知りながら、私は洸祈の前には現れないだろうと考えていた。いや、考えたことすらなかった。千里のことはどうしようもないと……氷羽は兵器として縛られるのだと……氷羽が洸祈を好きなるなんて考えられなかった」
璃央の溜め息。
『それが普通だ』
琉歌は慰めない。
「だが、少なからず私にも責任がある。だと言うのに、慎を奪った軍の下で働き、責任からは逃げている。それこそ、私の責任だ」
璃央の嘆き。
『璃央、お前は何故あそこで教師をしているのか忘れたのか?』
琉歌は肩を下ろすと、徐々に光り、輝きが強くなる。
「私は……正しいことを教えたい」
『皆に夢を与えるのだろう?』
白鳥の姿になった琉歌は璃央の頬に柔らかい毛の生える頭を擦り付けた。璃央はその紅をじっと見返して微笑を洩らす。そして、「そうだね」と鳥の額を撫でた。
「別に軍人になる必要なんてない。私は彼らに夢を持ってほしいんだ。魔法使いを出したらお恵みなんて間違っている。魔法使いは道具じゃない。ただの人間なんだ」
『私はお前のその考えが好きだ』
「私はこの社会の仕組みを変えたい」
『慎もそれを望んでいる』
いつの間にか姿を消し、璃央の鎖には今にも飛び立とうとするシルバーの鳥が掛かっていた。
「ありがとう」
璃央はそれに囁く。
『私は眠る。お前も早く眠れ。おやすみ、璃央』
「おやすみ、琉歌」
シルバーの輝きが微かに鈍った。
もうすぐ夜明けがくる……―