未完成品(4)
『僕を捨てるの?』
『うん。捨てる』
『出来の悪い子だから?』
『うん。出来の悪い子だから』
『僕が待っていたら?』
『いくら待っていたって拾いにはいかないよ』
『じゃあ、僕はこれから一人で生きていくんだ』
『違うよ』
『違う?』
『お前は死んだんだ。だから、お前は喪服を着ているんだよ』
『僕が死んだ?』
『お前はこの世にいない。だから、お前は一生喪に臥していなくてはいけない』
『?』
『自分の弔いをしてやるんだ』
『僕は僕を弔う?』
『何もかもを忘れ、誰でもないお前は昔のお前とお前が生きるために使われた命を弔い続ける。いつまでもいつまでも。そして、僕とあの人のことも』
『あの人?』
『お前は知らなくていいよ。ほら、これを飲んで』
『お薬?』
『そうだよ。飲んで忘れなさい』
『忘れる?何を?』
『全てを』
『紫水も?』
『僕も蓮も。皆忘れなさい。洸祈も忘れるんだ。もう、あれとお前の関係はないのだから』
…―洸祈って誰?―…
…―いいんだよ。おやすみ、蓮―…
お前を愛しているよ。
長い夢を見ていた気がする。
耳を澄ませば静かだ。ここはどこだろう。
しかし、いくら待っても手掛かりとなる音が聞こえないので、重たい瞼を薄く上げてみる。
一面の夜空。
いつか清と見た星空のようだ。腕に納まっていたのは細っこい体だけど、温かくって、空を見上げながら二人で綺麗だねって言い合っていた。
それだけが……凄く幸せだった。
そうだ。
あの“いつか”が僕が求めていた普通。あの頃に帰りたい。何でもないあの頃に帰りたい。
ただただ僕は好きな人と一緒に星空を見上げられればよかったんだ。
「―…まぁ、それくらいは仕方がない。寧ろ、腕一本でどうにかなったことに感謝だよ」
実験室を出た照明の切れている廊下で彼は携帯片手に窓から空を見ていた。山を隔てて遠くに都心の灯りがある。しかし、風が木々を揺らす音以外が聞こえないここからは、それらが異世界のものであるかのように見える。ここに研究棟を置いたのもこの為だ。都心の熱気から離れ、静かに生き、静かに死にたかったから。どうせ使われて死ぬのなら死ぬ場所だけは自分で決めたかった。
「そんなことはしなくていい。彼だって分かっている。ただ、両手足を空けておきたいだけだよ。一応、軍人の教育をされているから。……うん。そこで待たせといて」
今夜は星が綺麗だ。
あの人は星が好きだった。
遠くて掴めない。それは式場で微笑む花嫁のように。
僕はあの人の夢を奪ってしまった。あの人のたった1つの夢を。
アルバムに写る母の花嫁姿。彼女のように真っ白のドレスを纏い、大切な人と愛を誓いたい。
それがあの人の夢。
だけど、もうあの人はその夢を叶えることはできない。
今、あの人は山奥の家で世間と離れて暮らしている。ゆっくりと時が過ぎて、星の下で死ぬことを待っている。
星を見上げて。
夢を見上げて。
ごめんなさい、お姉ちゃん。
「多分、もうすぐ蓮が起きると思うんだ。だから、様子を見てからそっちに行くよ」
紫水は電話を切り、一息吐くと背後を振り返った。そこには頭を押さえ、開いたドアの枠に凭れる影。
「起きていたんだね」
「ここはどこ?」
「かっこよく言えば僕の死に場所。君にも理解できるように言うなら政府管轄下の研究所の南端だよ…―」
―……蓮。
ここまで巨大な研究所にしたのには理由がある。2つの内の1つ、特に人付き合いの悪い紫水自身を含めた研究者達が専門分野に集中できるようにだ。ここの一応の責任者は紫水だが、名前は分かっていても顔は分からない。もう1つは単に独りが好きだから。よく考えれば後者があって前者が後付けされたのだ。最初はこの研究所に研究者は紫水の一人だけだった。そこに政府が早く結果を出そうと各分野の専門家を集めた。軍との広がってきた差に焦るように。
「そう…。ねぇ、どうせ僕は洸祈の囮だろう?洸祈に手荒なことしてないよね」
互いに一定の距離を空けて立つ。そして、互いに目線を逸らす。
「部屋に隔離させてもらってるけど、それ以外は手を出してないよ。一応、お茶も用意させてあるし」
「ならいい。分かってると思うけど……洸祈は体調が悪い。だから、あまり刺激しないでほしい」
一度だけ蓮の目が紫水に向いた。しかし、長い廊下の奥を見詰める紫水はそれに気付かない。
この人は父親。
この子は息子。
分かっている。
なんやかんやで二人が会ったのは紫水が蓮を下町で捨てた時以来。
二人が互いを憎んで自身を憎んだ時以来。
もの凄く気まずい。
と、考える紫水はポケットに突っ込んだ手を握り締めては開く。
「……蓮」
「何ですか?」
「僕は紫水だ」
「だから?」
「僕は君の父親だ」
「だから?」
「………………」
「………………」
ふと、唐突に……。
紫水と蓮の視線が絡み合った。紫水はあくまでその緊急事態に無表情を装うと、これを機に起きれるまで回復した蓮を上下観察する。立たれて分かるのはいかに身長が伸びたか。
そして、いかに母親に面影が似たか。
「君にとって僕は君のなんだ?」
すっと鼻筋が通り、いくら汚れものを見てきても益々清んでゆく瞳。見えるのはただ一途に曲がらない意志。
蓮は美人な母親にそっくりだ。
その蓮の口が小さく開き、唇を舐めたかと思うと、紫水と同じ無表情で言葉を紡いだ。
「あなたは何でもありません」
はっきりと澄みきった響く声。その声は数メートル先の闇に溶け、紫水の鼓膜を震わす。そして、心臓を圧してくる。
「…………僕は君の父親だよ?蓮。君を捨てた僕を憎んでいるだろう?」
蓮。
憐れな子。
報われない子。
愛されない子。
なのにどうして僕を見てくれない。
どうして君は…―
「僕はあなたが嫌いだった。父親なら何故僕を愛してくれなかった?辛くて苦しかった。憎んでいた」
僕を…―
「でも、今のあなたを見て分かった。あなたは憐れだ。だから、もう僕の復讐は終わっている。だから、僕はあなたなんか知らない」
全てを思い出しておきながら憎まないんだ。
蓮は腕に刺さる針とコードを見、浅い呼吸を繰り返した。そして、徐々に光を持ち始める蓮の紺は、肩を上げ下げし、手を開いて閉じてを繰り返すと共に波色に輝いた。
「これでも僕は洸祈に嫉妬していました。あなたは洸祈ばかりを見て僕を見てくれなかった。あなたは出来のいい子のことばかり。親子だと言うのに出来が悪いからって見てくれない。何よりも……」
蓮が微かに体を震わせて針を乱暴に抜き取ると、自らの血を曲線に床に飛ばして進んだ。その先には当然、紫水。
「僕は死にました。あなたの蓮はもう死んでいる。僕は僕の幸せを探しに僕の足で進むだけだ」
白い指は紫水の体に一切触れずに彼の心臓を指し、蓮は紫水から目を背けた。ヒタヒタと裸足を鳴らしてはくたりと体を窓に凭れ、ただ進む。
幸せ探しに進む。
それはわざと与えなかったはずなのに…。
月明かりが蓮の頬を照らした時、紫水はその揺れる腕を掴んでいた。「え?」という蓮の間の抜けた発声がしたかと思えば揺らぐ四肢が紫水の腕に収まる。
「ちょっ!」
「だからといって僕は君を送り出せない。君自身が言っただろう?君は囮だって」
紫水は力が抜けているらしい蓮をずるずると実験室に引き摺った。そして、脂汗を額に浮かべて文句を言う蓮をベッドに拘束具で縛っていく。
「放せよ!紫水!」
「暴れないなら」
「だって変なもの腕に刺してただろう?」
「君が貧血気味だから」
「採血はないだろう!あなたのせいで僕は貧血なんだ」
その勢いはベッドを揺らすほどで、紫水が蓮を貼り付けた後には物音1つさせずに蓮を観察するので、彼は愚かさに口を閉じて大人しくなった。紫水は回転式の椅子に座って蓮をただ見る。蓮が暴れに暴れるので針は片付けられたが、紫水の観察は蓮が無言になった後も続けられていた。
「ねぇ…」
「何?」
「見ないでくれる?」
「どうして見るのか、とかじゃなくて直球だね」
「見ないでよ」
「確かに僕は蓮は死んだと言った。だから、蓮にそっくりの蓮には興味があるんだよ」
「レン、レンって、理解しにくい」
「わざとだよ」
紫水は椅子の背に腕を乗せてじっと覗き込む。蓮も負けじと睨み返すが、紫水の動じなさに負けて紫水の背後に興味がいった。
と…―
「それ……」
倒れたままの写真立てが机に乗っていた。紫水は答えを言わずに蓮は見せないようにして写真立てを立てる。
「その写真何?」
「気になる?」
「僕はそれに夕霧の匂いがついている理由が聞きたいだけ」
蓮の鋭い眼光。紫水は写真に鼻を近付けて匂いとやらを嗅ぐが、そもそも“夕霧の匂い”を知らない。無臭のように感じるが、それが“夕霧の匂い”かもしれない。それか、この実験室に置かれた薬品や日々の研究で使われる材料に紫水の鼻がバカになっているのかもしれない。
「蓮の鼻は犬並みかい?まぁ、当てたら見せてあげる」
紫水はやっとこさどうでもよい会話ができると写真の中の人物達を見た。これは一枚しかない悪夢の証明。それでも写真の中の彼女が儚い命にとても静かな落ち着いた笑みを見せている。
あれから二人で永遠にも近い旅をした。二人だけの自由を探して。その旅はこの子の誕生とともに終わり、写真が撮られたのは三人で眠りに就こうと決めたそのすぐ後。
しかし、激しい頭痛と共に起きてしまった自分は息も吐かずに彼女を全力で起こした。ひとりが厭だったから。
彼女は目を開け……二人は腕の弱い鼓動に罪の意識を覚えた。無力な被害者を更に踏み潰す自分達。自分達はその子の生にしがみつく力強さにどこまでも最低な人間だと叫ばれているようだった。
彼女は罪滅ぼしに隠居を選び、自分はその子を心だけでなく体を強くしてやることを選んだ。そこまで生きたいのなら、できる限界まで生きられるように。
しかし、ただあの子の為だったはずの研究は今では…―
「何だと思う?」
「写っているのはあなたの後ろめたい事実だろう?」
「曖昧だけど正解。でも見たい?これは昔死んでしまった蓮の写真だ」
蓮の明らかな動揺。しかし、彼は頷いた…―
「……………見たい」
―…と。
紫水は溜め息を1つ落とすとベッドに腰掛け、その写真を蓮に見せた。
背景に森林。開けたその場所に椅子が置かれており、そこには女性と青年。顔立ちの似る二人。そして、女性の膝には毛布にくるまれた赤子。
蓮の呼吸におかしな風音が混じった。口が顎を支える力を失ったように開く。
蓮の事態に紫水は苦笑すると、彼は天井を見上げた。
「これは僕の一人言だよ…―」
2月21日(金)
憐、紫水、滄架
愛すべき親友達に
From 幸哉
写真の隅にボールペンで書かれた字を写真立てのガラス越しに撫でた紫水は、あの日もこんな星空だったと語り始めた。