生きる代償(9)
知ってる。
ここは母さんの故郷。
母さんが生まれ育ったところ。
俺は小さな駅にある高台から谷を見下ろした。
東京から向かう途中で、新幹線の窓から見えた粉雪に感動したかと思うと、谷に着く頃には旅人を労る気などさらさらないほど雪が深く積もっていた。そして、両側を高い崖に遮られているが、東西に長いため、西陽が谷全体をオレンジに染め、雪がまるで星のように瞬いていた。
「った!」
声変わりがまだの高い声。
俺は柵から乗り出していた体の向きを変えた。振り返れば、薄手の少年が、階段に蹴躓いたのか、積もった雪に突っ伏していた。上げた顔は赤く痛々しかったが、階段から落ちることも、固いコンクリートに額を割ることもなかったのだし、良かったと思うしかない。
見上げてくる少年の目は怒ったように細くなり、結んだ口元が震え、そして…―
「痛いんだよぉ!!!!!!」
助けてよぉ!!!!!!
とも、怒られ、彼は泣き出した。
俺はどうすればいいのか分からなくて、顔面の雪を払い、抱っこしてあげる。
寒いので駅に戻ろうとしている間に少年は泣き止み、無言で俺の首に抱き着いていた。
鼻の頭を赤くした彼は……可愛い。
「おや、咲也君じゃないか」
白髪の混じった穏和な顔の年輩駅員が静まりかえった駅で、再び戻ってきた俺に笑顔を向け、抱き着いていた少年を見た。
「さっき階段で転んで、泣いたから…」
「またか。咲也君は相変わらずおっちょこちょいだな」
「雪に…滑っただけ…」
少年、咲也は俺から降りると、俺の手を強く握る。その感触は柔らかく、酷く冷たかった。
つい、手を離して彼の小さな手を見れば、真っ赤だ。
「君…霜焼けになってる」
咲也ははっとした顔をすると、赤く痛々しい手をポケットに突っ込んでそっぽを向く。
「咲也君、お母さんにちゃんと手袋欲しいって言った?」
駅員のおじさんが一度奥に入ると、白い大福を俺と咲也の手に置いた。
「……言ったよ」
咲也は大福を両手に挟んで小さく掠れた声で囁く。
「早く買ってもらいなさい。咲也君、手が真っ赤じゃないか。上着だけでも。おじさんのお古でもいいなら…。ただでさえ、君は体が弱いんだから」
駅員は大福を包み込む紅葉のような手を優しく上から包み込んだ。
「咲也君はいい子だよ。少しぐらい我が儘言っていいんだ」
おじさんに頭を撫でられた少年は顔を赤らめると、肩を竦める。俺はそんな咲也の笑顔に何だか嬉しくなった。おじさんの話を聞く限り、あまり家族間がうまくいってないのだろう。そんな子の手を握ったのは運命かもしれない。
「おじさん、ありがとう。でも、母さんには…ちゃんと言ったから」
おじさんは寒そうにする咲也に困り顔だ。昔からこうなのだろう。おじさんはそれ以上は言わない。ただ、咲也が美味しそうに大福を食べる姿を見守る。
「咲也君は私が見ますから、ありがとうございます」
おじさんは俺に頭を下げた。
俺は別に急いでもいなかったので、ふと思い付いたことを訊いた。
「墓参りに来たのですが、地図でも見せてもらえると嬉しいのですが…」
「お墓参り?」
おじさんは驚いた顔をする。
「ここらはここら近辺で結婚する人が殆どですから、外から珍しくて」
少子化と地方の過疎化が進む日本では本当に珍しいことだ。おじさんは奥から地図を持ってきてくれた。見るからに細長い地形だ。
「あそこは一番高いですから、高台からも見えたはずだと思います」
あの一ヶ所だけ飛び出ていた場所だろうか。それなら案外、駅の近くだ。
「でも、そこまで行くのは階段の一本道で、それが見付けにくいんですよ」
何だか手に持った大福が引っ張られると思ったら、咲也が大福を奪おうとしていた。俺だって少しは食べたかったから、半分に分けてあげた。俺を見上げた咲也は半分だけに不満があるようだが、もらえただけ嬉しいらしい。幸せそうな笑みを浮かべ、口を一杯にして大福を頬張る。俺はそんな咲也の笑顔が嬉しい。
「ここは家と水田ばかりですから、それといった目印もなく…」
俺は難問を問い掛けてしまったらしい。
その時、俺が持っていた残り半分の大福を俺の手を引き付けてそのまま口にした咲也が言った。
「僕が案内する」
おじさんが目をぱちくりさせている。
前の墓参りの時よりも驚いているようだ。
「行こう」
放してしまった咲也の歯形付きの大福を掴んだ彼は、薄い長袖の帽子を揺らして歩きだした。
赤い両手を揺らして。
「あの子は大人も知らない場所を知っているぐらいですから、大丈夫です」
それとこれを…
おじさんが俺にマフラーを渡してきた。
「あれだけじゃ寒い。あなたはこんなに早く咲也君が近付いていいと思える人になった。私は咲也君と仲良くなるにはすごい時間が掛かりました。だから、あなたから渡してくれたら、使ってくれると思います」
「あなたは?」
「私は重ね着してますから、大丈夫です。ちょっと肩が凝ってきたぐらいです」
マフラー一本では肩凝りには関係がない気がする。だがしかし、おじさんの優しさは分かる。
「ありがとうございます」
「私にお礼しないでください。咲也君の案内に。咲也君、ぶっきらぼうですが、誤解しないでください。根は本当に優しい子です。同年代の友達がいないのが少し心配ですが」
俺は何だか温かく感じるマフラーを胸に抱えて、咲也を追った。
「もうバテた?」
咲也はゴールから見下ろしている。昼寝をしなかった兎に呆れられている亀の気分だ。
その首にはマフラー。
拾ったと無難ないいわけをしたが、すぐに駅員のおじさんに渡されたものだとバレ、しかし、咲也は素直に受け取ってくれた。それほどに本当は寒かったのだろう。『おじさん、ありがとう…』と、彼はマフラーを大事そうに抱き締めた。
「もう、ちょっと…待って」
「それ、4回目」
咲也はあからさまな溜め息を吐く。ぶっきらぼうで収まるの?おじさん。と、言いたくなった。咲也は足元に注意して降りてくると、俺の隣にきた。
「?」
「フラフラしてる。昔、ここから落ちて大怪我した人がいるから、僕が握っとく」
咲也の差し出された手を俺は暖めるように握る。
「どうしてあそこにいたの?」
思えば、咲也が高台に来ようとした理由が分からない。
「巡回」
「巡回?何の?」
その時、彼の耳が更に赤くなったのが見えた。
「困った人がいないか見るため……荷物重くしてる人とか…道に迷ってる人とか…」
ああ、そうか。
根は本当に本当に優しい子だ。
「着いた」
咲也と話をしていた為か、あっという間にゴールに着いていた。
「誰に会いたい?」
「え?あ…えっと、崇弥林」
「琴原林さん?」
旧姓まで知っているんだ。これには驚くしかない。
「うん」
彼はゆっくりと、迷わずに道を選んでいく。
「全員の名前覚えてるの?凄いね」
「覚えてないよ。前に一度、案内したことがあるから」
前に一度?父さん?
「旧姓しか知らなかったみたいで、見付からないって泣いてたから、一緒に探したんだ」
なら父さんじゃない。父さんなら旧姓しか知らないというのはおかしい。
「ほら、崇弥林さんはここ」
「ありがとう」
母さんの墓の前に腰を下ろした俺に遠慮してか、咲也は背を向けて、柵の間から崖に向かって足を出して座った。落ちないか心配だが、彼なりの配慮だから、背後の気配に集中しつつ、母さんの墓に向かう。
「母さん、さっきも会ったね。もう泣かないから安心して。多分、もうすぐ迎えが来る。だからその前に、まだ言ってないことがあるんだ」
咲也はじっとしてくれている。
「俺と葵の19歳の誕生日、12月28日、父、崇弥慎は亡くなりました。母さんはこの意味分かるよね。俺達、二人ぼっちになった」
その時、咲也が振り返った気配がした。
「でもね」
「でも?」
隣には少年が座っていた。
「二人だから大丈夫?なら、一人の人間は?父さんにも母さんにも愛してもらえない人間は?」
巻いたマフラーに顔を埋めた彼の表情は分からない。
「父さんも母さんも自分勝手だ。嫌いなら、どうして僕ができたの?僕を作ったくせに、嫌いなんて言わないでよ。僕は聞きたくない。もう、うんざりだ」
だから一人で遊ぶの?
だから人助けをするの?
その正義の全ては居場所を作るため?
咲也は赤い手で顔を覆い隠した。
「でもね、二人ぼっちだと思ってた俺達に沢山笑顔をくれる人がいる。家族だって言ってくれる人がいる。愛をくれる人がいる」
「…………僕には…」
「その人達は近所の人だったり、昔、ちょっと手伝いをした人だったり。ホントに簡単な関係の人達だったんだ。だけど、あの時はありがとうって、笑顔くれて。家族なんだから当たり前だろって、俺の頭叩いて。いつまでも一緒にって、愛をくれる。気付かない内に、俺達の周りには沢山の人がいてくれてたんだ」
咲也もそうなんだよ。
駅員のおじさんだって、君が大好きだ。
勿論、俺も。
俺もさりげなく手を握ってくれる君が大好きなんだ。
「母さん、俺、やっぱり幸せだ。気付けたから幸せだ」
気付いて、咲也。
それに気付いたら、君は幸せなんだよ。
「だから残りは、俺が皆に幸せをあげるんだ」
君にもあげたいんだ。
なんか、咲也を見ていたら吹っ切れた。咲也は小さい分、必死に背伸びをしている。それを見ていると、小さい原因をねちねち考えている俺は随分なアホとしか思えない。
すると、咲也の隠された口から嗚咽が零れた。
「東の端に住んでるお婆さん、僕に沢山お礼言って、飴玉くれて、頭撫でてくれた。駄菓子屋の娘さん、お兄ちゃんが大好きって、言ってくれた。秋が一緒に探してくれてありがとうって、笑ってくれた」
マフラー、あったかい…。
咲也は袖を引っ張り、そこに目尻を圧し当てて息を殺して泣いていた。
俺はそんな彼の茶色い髪をそっと撫でていた。
「今夜も雪だよ。泊まる場所あるの?」
駅員のおじさんの横で、咲也は俺の服を掴んだ。
「うん」
空はどんよりとし、空気は一気に冷えた。大雪の予感だ。
「本当に?」
咲也は再度訊ねてくる。
まぁ、見るからに行く宛のなさそうな人間だと自分でも思う。何故なら、自らの体と纏う服しかないのだから。
「うん」
頼りなく見えるだろうが、行く場所はある。
あそこにいれば、家族が見付けてくれる。そして、俺は大切な人達のところに帰る。
「道案内、ありがとう」
「道案内以外でも、困ったことがあればいつでも言って」
陽が落ちた後の冬は暗い、駅の淡い照明の下でも互いの顔がはっきりしない。
今、いいことを思い付いた。
「俺、お礼あげてないね」
「ありがとうだけでいいよ。そうでしょ?」
「だけど、余るほどあるから貰って」
想像するは火の鳥。
手のひら温かい感触。
「魔法…?」
チチチ…―
紅い小鳥が咲也の頭に留まる。生み出されたもう一匹が駅員のおじさんの肩に留まった。
「夜道を照らしてくれるし、温かい。俺の魔法」
「いいの?」
「半日しかもたないけど」
「ありがとう!」
「ありがとうございます」
物凄く感謝された。
葵、俺は魔法が好きだ。
俺は咲也達に手を振って、背を向けた。
「洸祈!」
「葵」
俺の知る魔力に反応するようにして飛ばした小鳥が、葵の肩で一鳴きして消えた。
懐かしい葵の顔。
そして、後ろから続く二之宮と呉。
「悪い。迷惑かけ―」
「心配したっ!」
葵が傍にやってくるなり、俺に抱き付いた。弟は小さく震えている。俺は赤子をあやすようにその背中を撫でていた。
「洸兄ちゃん!」
呉がその上からぴたりとくっ付く。
そして、
「崇弥、旅に出るなら前以て伝えてくれ。喩え、過去に旅行でも」
二之宮が地面に膝を突いて笑った。そのまま伸びた手で俺をよしよしと撫でる。なんか、最初に会った時の炎みたい。
「ありがとう」
「どういたしまして。でも、ここまでの案内は葵君のお陰だよ」
葵の体はこの雪空の中でも熱く…………?
「葵、熱い」
顔を上げさせれば、真っ赤だ。厚着をし、額には冷却シート。
ちゃんと体を温め、額を冷してて良いのか、外に出てきて悪いのか分からない。
重装備の病人が外出って…。
「二之宮」
名前を呼べば、薬剤師兼医者の二之宮が溜め息を吐いた。
「しょうがないだろう?君に似て強情だし、置いて行ったら、葵君が迷子になりそうだし、何より…」
「何より?」
「君に今すぐにでも会いたいって言うからだよ」
葵は火照った体を俺に凭れさせている。目も虚ろで、頭が完全に動きを提止したようだ。しかし、瞬きを繰り返して俺の背中に手を回している。
起きていようという意志だけはあるのだろう。
「葵、寝ていい。俺がおぶるから」
「…………いい……」
「無理するな。母さんも見てる」
葵が俺達の目印となった母さんの墓をじっと見た。
「……葵の花?……洸祈が?」
「違う。俺より先に来てたみたいなんだ」
綺麗に包装された花束は、夜遅くまで付き合わせないようにと咲也と一度駅で別れ、それから墓場に戻ってきたら置かれていた。
葵の花が。
「…母さんの…兄弟?」
「多分、これは……なぁ、二之宮」
「ん?何?」
「今日っていつ?」
葵を片手で抱き締め、墓に積もる雪を払った。
多分、今日は…―
「10年前の11月10日だけど?」
「11月10日、葵なら分かるか?」
あの人の大切な日。
葵の瞳が細められ、赤くなった唇から微かな笑いを溢した。
「分かるよ」
崇弥林に報告しにくるんだ。
「千里の誕生日だ」
『千里がまた1歳成長したのよ、林』
櫻千鶴が、友に会いに来る日。
「千鶴さんに…言いたかったな」
「何とですか?」
俺の腕に掴まり、囁く葵に呉が訊ねる。葵は今にも手放してしまいそうな意識を墓に刻まれた崇弥林の名前に向かせた。
「千里は…笑えるよって…」
葵の四肢から力が抜け、目を閉じた。
「笑える?千兄ちゃんはいつも笑顔です」
呉が葵の額に手を当てる。
「そうだよ、ちぃはいつも笑顔だよ」
俺は呉の黒髪を撫でてから、神妙な顔をする二之宮を尻目に葵をおんぶした。
弟は案外軽く、俺は少しドキリとした。一瞬、葵が消えてしまわないかと思った。
「呉の魔法なんだよな?」
時制空間移転魔法なら過去にも別の場所にもいける。
「葵はそのため?」
多分、俺の目が険しかったのだと思う。二之宮がムッとした表情をした。
「それは違う。葵君が強情でついてきた」
八つ当たりになったのかもしれない。これでは、咲也の隣でした誓いの意味がない。何より、葵の肩に掛かる上着は二之宮のだ。
「悪い…ちょっと…気がたった」
「かわまないよ。君が無事なら。ここは寒い。置いてきた遊杏達も心配だ。だから…―」
二之宮の脚が力をなくしたかと思うと、母さんの墓の前で突っ伏した。最初、二之宮が倒れたかと思った。
しかし、二之宮は母さんの墓石に口付けをしていた。
「二之宮?」
「僕は蓮です。帰らなきゃいけないから、手短に」
呉の魔法陣が築かれる中で、二之宮は口を開けた。
何を言うんだろう?
「――」
呉と手を繋いだところから魔力が一気に取られていく感覚と共に、白くなった頭では二之宮の言葉は理解できなかった。立ち上がった二之宮が呉の手を取り、俺の方に微笑して唇を触れさせたのは分かった。
だけど、二之宮の口の動きは“ごめんなさい”のようにも“さようなら”のようにも見えた。
「二之宮…?」
「帰ろう、皆のとこに」
そう俺の耳に囁いた彼の手は血の気を失ったように白く、冷たかった。
眠いよ…………氷羽。
もう一度、俺の手を握って。
強く握った手は俺の手から水のように滑り落ちた。
……―林さん、僕は洸祈を愛しています。一生、守ると誓いました―……
でも、僕にはもう“一生”を守る時間がない。