お兄さん
ヒトは複雑だ。
複雑な思考が習慣や衝動、ありとあらゆるものを更に複雑にする。
それはまるで壁のようだ。
虫が繭を作るようにヒトは壁を作る。
ここは“自分”。
誰にも干渉されたくない“自分”。
だけど、あの時の彼にはなかった。
壁も何もない。
あるのは“自分”だけ。
しかし、晒された“自分”は綺麗だけど…―
真っ赤。
血の色に染まっていた。
無理矢理開かれた壁の奥。
突き立てられた爪に傷付いた“自分”。
真っ赤なそれを晒して彼は小さく踞っていた。
彼にとっての最初、彼の体に『売り』を教えたのは僕だ。
「厭がっちゃ駄目。客が付け上がる。気持ちいって顔しなきゃ」
「やっ…だ」
昔の僕もそうだった。だけど、無意味だって知った。寧ろ、自分の不利になるだけだ。僕は身を持って知れなんて厭だ。君には何となく、そんな思いをして欲しくない。
「じゃあ、好きなこと思い浮かべて。何でもいいから。ヤってる時はそれだけ考える。客の質問には「はい」。それだけでいいんだ」
ただの処世術。分かってよ。たったそれだけでいいんだ。そうしたら自然と慣れる。喘ぐことも純情ぶるのも何もかも慣れる。
全てを習慣にするんだ。
あって当たり前と自分を騙せ。僕は客に買われた飼われ犬だ。ワンと鳴いてみろ。可愛く尻尾を振ってみろ。僕はできるさ。ワンでもキャンでも鳴ける。尻尾だってご飯のゴミの前でも振れる。
だって、本当の“自分”を壁に閉じ込めていれば汚れないんだから。
だから、厭がる彼を押さえ付けて無理矢理イカせた。何度も何度も。気持ちいって言ってって何度も言った。喘いでって何度も指示した。
最初、彼の剥き出しの“自分”を傷付けたのは僕なんだ。
ごめんなさいって謝って泣いて、彼は気絶するその最後まで僕を拒んだ。
ごめんなさいも泣きたいのも僕だ。君じゃない。なのに君はいつだって謝る。君は全然悪くない。悪いのは僕だ。君には壁を作れないと言うのに。もう君には誰も恨むことも憎むこともできないというのに。
君にはもう誰も愛することはできないのというに。
恨まれることも憎んでもらうこともできないのに、愛されることを期待した僕は最低だ。
彼にその時の記憶はない。
少しばかり症状を偽って記憶障害が起こる確率が一番高いものを手に入れ、口移しで飲ませた。僕の思惑通り、彼は忘れた。折角忘れてくれたのだから、僕は彼を変えることを諦めた。その代わり、事務員に体を売って、彼を僕と同室にした。そして、僕は優しい“お兄さん”になった。僕はいつでも彼を護るナイト。沢山泣いて沢山痛め付けられた体を隅から隅まで綺麗にするのは僕の仕事。調教好きの変態に溜めさせるだけ溜めさせた熱を出してあげるのは僕の仕事。
僕は彼の体の全てを知っている。
だけど、時々見せるあの氷った瞳は知らない。
闇に謝る君は知らない。
自らの火で戒めのように体を焦がす君は知らない。
直ぐに治るのにそれを繰り返す。肉の焼ける匂いを漂わせて火を押し付ける。そして、赤く腫れたそこに爪を立てる。やがて、爪と指の間が赤く染まり、体を流れていく。また火を押し付ける。肉が焦げる。血が流れる。何もかもを血に染めて、ふらふらと風呂場に入る。そして、風呂から出てきた彼は爪の付けた傷の一つ一つに治癒を掛けていく。そして、何事もなかったように僕の腕に入る。
嗚呼…
僕は君の心を知ることができない。
だからこそ、
僕は彼の心を僕自身の手で創ることにした。
だから……僕はまず、知らない彼の心を踏みにじった。
すやすや眠る彼の視界を持ってきた布で塞ぐ。
起きて…起きてよ。
…なぁに?
紅い鮮やかな光を灯すマッチの先を僕は震える指で彼の開いた手に押し付けた。
っ!!!?
彼の反射的に握られた手が炎を消し去る。
熱いよ!何!?見えないよ!
彼は完全に目を覚ました。なら、これからだ。
僕は二本目を擦った。音で分かったようだ。
マッチだよね!誰!やめてよ!
もっと焦って。いいこだから焦って。
僕は彼の着物を掴み、前を広げた。露になる無数のキスマーク。今日の彼の相手は2人。午前中に若いお姉さん。午後たっぷりを中年のおじさんと。そのおじさんは彼がお気に入りだ。1週間に1度は彼を指名する。抱けるだけ抱く少年愛の最も最低なパターンだ。
僕は表情に変化がないから客が少ない。あの時も僕は廊下に響く彼の泣き声を聞いていた。今日はどこを痛めているだろうから優しく扱わなきゃとか準備していた。僕は彼のお兄さんだから。たった一人の家族だから。
だから、僕は君の全てを知ってなきゃね。
体も心も僕は知ってなきゃ。
分かんないことなんてあっちゃいけない。
紅く輝く炎。
君の綺麗な瞳の色。
血に染まった色。
君の色。
僕は燃えるマッチを肩口に押し付けた。あがる悲鳴。それが僕にはジャズのように聞こえる。心地好い。
皆紅く染めなきゃ。
君の色に染めなきゃ。
そして、僕を呼ぶんだ。
助けて、助けてって。
君は僕がいなきゃ生きていられなくなるんだ。
僕に依存して僕を求めて。
僕に君を見せて…―
指先が視界を隠す布に引っ掛かった。
僕と彼の目線が重なる。
光の写らない紅。
「だ、大丈夫?」
もう慣れた僕の演技は完璧だ。
僕は君の“お兄さん”だよ。
君は“お兄さん”に助けを乞うんだ。
助けて…助けて…
狼。
さぁ、狼を呼んで。
「……助けて…氷羽」
無茶苦茶に振り回した手で傷付けた目尻から流れる血と涙が混ざり、紅い雫が流れた。
まるで血の涙…―
「氷羽…助けて…痛いよ…怖いよ…氷羽…氷羽…氷羽…」
氷羽。
「な…何言ってるの?僕だよ?狼だよ?」
ねぇ、君が言うべき名は“ひわ”じゃない。
狼だよ!
「氷羽…助けてっ…氷羽っ…」
やめてよ。
僕は狼だよ。
呼んでよ。
ねぇ、呼んで!
呼んでよ、清!!!!!!
僕はマッチを擦る。
譫言のように氷羽を繰り返す彼の顔に近付けた。
「氷羽ぁ…」
どうしたら君は僕の名前を呼んでくれるの?
ううん。
呼んでくれなくていい。
だだ…―
それは言わないで。
僕ヲ見テクレナイソノ目ハ
イラナイ。
「氷羽…俺をヒトリにしないで…―」
僕はマッチの先を彼の左目に突き立てた。
「―!!!!!!!?」
視界が溢れ出る何かで歪んだ気がした。
悲鳴が聞こえる。
誰かの絶叫。
僕は隅に踞って両耳を両手で塞いだため、溢れるそれを止められなかった。
嗚呼
…―誰か僕を呼んで―…
嗚呼
…―誰か僕を求めて―…
痛いよ…心が痛いよ。
大切だった。
なにを捨てたっていい、そう思えるぐらい大切だった。
ねぇ、氷羽。
俺、好きだった。
お前が好きだった。
俺、氷羽のことを愛してたんだ。
ねぇ、氷羽。
俺、お前に酷いことした。
謝ったって赦してくれないことぐらい分かってる。
何度ごめんって言ったって、俺が赦せないのは分かる。
ねぇ、氷羽。
これは俺が卑怯だから、
赦してくれないなら、
俺もお前と同じ代償を払うから。
お前を殺した俺を殺して、
殺して赦して…―
氷羽。
「起きた?」
訊ねると、今の今まで唸り声をあげていた彼の唇が微かに動いた。
「………狼?」
そうだよ。“狼”だよ。
「ミキさんが、それが外せるようになるのは2週間後ぐらいだって」
「“それ”?」
もう慣れたのかな?
「目の包帯だよ」
「包帯?………あれ?」
目に巻かれた包帯に触れた彼は首を傾げる。それを見たとき、僕は痛みを感じていない彼に安心したというより、何も覚えていない彼に安心した。
あの後、炎に怒られた。商売道具に傷つけたことより、彼を傷つけたことに怒られた。不思議だった。炎はそういう人だとは思わなかった。彼を大事そうに抱き締める姿はまるで別人だった。そして、その姿をただ見る僕はまるで機械人形だと、僕自身思った。
「どうして?」
「まぁ、ちょっとね。僕がいなかったら…」
僕は何を言いたいんだろう。
本当は分かっている。
「狼?」
僕って単純だよね。
彼に好いてもらうために僕が今しようとしていることは…―
「僕がいなかったら清の目、見えなくなっちゃうところだったんだよ」
取り返しのつかない嘘を吐くこと。
「だから、僕の傍にいるんだよ、清」
これが君に吐く最初で最後の嘘になると誓うよ。
「僕が君を護ってあげる」
だから、
「じゃあ、狼、ずっと一緒だよ」
「うん。ずっと一緒。僕たちは離れない。何があっても…―」
君に吐いた嘘を赦して。