谷の子供達(6)
叫び、千鶴にしがみついたのは…―
「水田どろぼー!!!!!」
「春君、駄目よ!」
夏にしがみつかれて動けない千鶴の制止も虚しい以前に意味なく、布団叩きを持参した春が“それ”に振り上げた。
バシッ。
「いてっ」と、それが唸る。そして、転んだ。
「水田泥棒は地獄に落ちればいいんです!!!!!」
春は口が悪い。
再び布団叩きを振り上げる常時穏健派の彼は、弱った生命に追い討ちをかける気だ。
「春君!その人は泥棒じゃなくて―」
バシイィ…―
カチッと丸い蛍光灯が光り、部屋が明るく照らしだされた。
「何してんの?」
眠たげな機嫌の悪そうな秋が立っていた。そして、無様な格好をして転がる人を見下ろして言う。
「兄貴」
「一応、我が家なのにな」
スーツ姿の彼は溜め息を吐き、粉雪の積もる頭を振った。
「いたたっ…春、痛い」
左頬を赤く腫らした琴原家長男、冬は、消毒液に顔をしかめた。
「兄貴、ごめん」
「それ、笑える」
大きな湿布を貼った冬に、春は心配顔だが、秋は腹を抱えて笑う。冬は別に羞恥もせずに彼の額を見て言い返した。
「お前もな、秋」
「ふんっ」
そこには大きな絆創膏。
その姿は不恰好で、普段、都会の格好の秋だからこそ、チャラチャラした外見には尚更目立つ。
この二人―秋の怪我の原因は冬だが―何故こうなったかというと…―
「開かない」
鍵で開けたはずなのに扉は開かない。
「何故だ?」
凍えた指を震わせながら、扉をスライドさせようとするが…
「開かない」
完全に閉め出し状態。
仕方なく、雪に降られながら庭に回る。
そこで懐かしくて…
「おー、クロ」
やはりいた。
野良犬のボーダーコリーが猫のように軒下にいた。エアコンの排熱がちょうどここに熱を運ぶのだ。
旧友に手を振れば、吼えられる。
「お前も俺を閉め出すのか」
よく見れば、小さな白黒の塊がコリーの腹の辺りで蠢いていた。
「もしや…」
繁殖したようだ。
賢く礼儀のある雌犬の機嫌が悪いのはそのせいらしい。
「分かったから、騒ぎ声と毛、糞尿はやめろよ」
頷いたように見えたコリーは子を抱え込んで顔を背けた。
微笑ましいが、それも一時。
「寒い」
朝には一面真っ白だろう。そんな時の谷はとても美しいのだ。
朝日に輝く雪。屋根から下がる氷柱。白くなった木々。点々と温かな雰囲気の家々。
そこに、凍死した人間の体。
いかん。
一気にどす黒い印象に変わってしまった。
「寒くて死ぬ」
ヒートアイランドの東京に合わせた格好の為、家族に会いたい思いで終電に乗って帰ってきたのに、閉め出されて死にそうだ。ここは本気で死体に…―
にゃあ…。
「シロ」
猫が擦り寄ってきた。
野良のシロは雪に溶けてしまいそうな体で冬の胸に飛び込む。
「…あったか」
温かい。
湯タンポだ。
食い物泥棒の猫を可愛がっていて良かったと今更、実感する。
「確かに帰郷を一日早めた。だがな、だからって、家に閉め出されることはないだろう?」
家族にちゃんとお土産を買ってきた。ボロくなってきた家の修理もするつもりだ。
「寂しいな」
にゃあ。
シロは呼応するように鳴いた。
そして、シロ―彼女―は冬の腕から逃れると、尻尾を揺らして縁側に降り立つ。
「お前もか?」
カリカリ…。
彼女は窓を掻く。
にゃあと一鳴きすると、赤い瞳を冬に向けた。
「なんだ?」
と、窓に触れれば…
「開いた…」
窓が開いた。
冬はシロを力強く抱きしめ、頬ずりした。
彼女はにゃあと嫌そうに鳴くが、冬はただただありがとうと感謝をする。
「あぁ…温かさが身に沁みる」
そして、先に入ったシロと共にいつもの調子で焼酎を喉に通そうと畳の上を歩き回っていた時だ。
ぎゃあという悲鳴と、
「水田どろぼー!!!!!」
と、我が家で泥棒と勘違いされて叩かれたのは…―。
その頃。
「な、なんだぁ!?」
人のものとは思えないような恐ろしい悲鳴。
秋はドアを開けて外を窺う。
「一体何が…」
一階からだ。
誰の悲鳴だろうと多分何かあったことは確かだ。
秋は下へと向かおとするが、
「待ってよ!」
修一郎だ。
「なんだよ」
「キス!忘れないでよっ!」
修一郎は必死に言う。
「はぁ?何言ってんだ!キス?するかよっ」
裾を握る彼を無視して秋は無理矢理階段を降りようとする。
「やだっ!ずっと待っていたのに!秋!あっちゃん!!」
「知るか!ズボン引っ張るな!」
念願のキスを前に、修一郎の目は血走っているかのような錯覚を思わせる。
簡潔に言うならば、必死すぎて逆に恐ろしい。
「秋!秋ってば!」
「放せよ!」
秋は階段を降りようと手すりに掴まり、修一郎はキスしようと秋を引っ張り、
どたっ…ごっ…ごちん。
修一郎諸共、秋を下敷きに落ちたのだ。
冬の為に用意した夜食を、卓を囲んでお腹の空いていない千鶴と修一郎を除いた皆で食ていた時だった。
「兄貴、マスコミで随分叩かれてますよね」
冬がビールを飲み干した所で春が言った。
「大丈夫ですか?」
「マスコミは嘘つきだ。嘘しか言わない。忘れろ。いや、ニュースは見るな」
ばっさり。
政治家がニュースを真っ向から否定した。
冬はうどんを一啜りする。
「冬さん、本当に大丈夫なんですか?」
ビールのお代わりを持ってきた千鶴は心配顔だ。
喩え、冬がどんなに否定してもマスコミの力は大きい。
「ありがとう。だが、嘘だからしょうがない」
「兄貴に大物女優の彼女!笑える」
そう言って笑うのは秋だ。写真のことを根に持っているのだろう。
マスコミに叩かれているとは、“やり手の若手政治家が某大物女優と付き合っている!?女関係もやり手!!!?”とのこと。
「で?実のところはどうなわけ?秋は分かってんじゃないの?」
4兄弟の中で、唯一辛いものがいける夏が、丼に一味を大量に振り掛けて、少々興奮気味に訊く。
「うわっ辛そっ。…兄貴の言う通り、女優と付き合っているなんて嘘っぱち」
“ってわけじゃないけど…”
ぼそりと付け足された言葉。
『!!?』
春は吐き出しそうになる口元を押さえ、夏は一味に噎せて水をがぶ飲みする。
千鶴の藁を編む手は止まり、修一郎は秋を驚愕の瞳で見詰めながら夏の背中を擦った。
そして、全員の視線がうどんを平然と啜る冬に集まる。
「な?兄貴」
秋はにやけた。
「嘘だって言っただろ。“付き合っている”じゃなくて“ストーカーされた”なら本当だがな」
これには一同唖然。
「あの大物女優が!?ストーカーですか!?」
と、春。
「冬兄ちゃん、スゲー」
と、夏。
「そーなんだ。皆、なんで兄貴なんかが!?なんて思わないんだ」
秋の思惑とは裏腹に、二人の弟達は兄を讃えた。
「で?どうしたんですか?」
春は楽しそうに笑って訊く。
「くだらん。俺はあの胸でか女より…―」
…?
冬の視線の先。
「冬さん?どうかしたの?」
「千鶴ちゃん…君は随分と綺麗になったね」
修一郎以外の琴原3兄弟は神妙な面持ちで冬を見た。千鶴は首を傾げる。
「ありがとうございます。冬さんこそ立派に」
「ビール…いや…シャンパン…軽い奴ないか?」
「あ、あるよ!」
夏が慌てて腰を上げると、シャンパンを取りに台所へと駆ける。
「夏?」
弟が妙に積極的なことに、思春期の子供は精神的にも成長が早いんだと一人納得した冬は、他の弟達も同じ様な少し慌てた表情に、こいつらも思春期なのか?と首を傾げた。
「千鶴姉さんはさ、再婚なんて考えないの?」
静まった4兄弟の中から、不意に秋が言い出した。
春と夏の間に不穏な空気が漂い、冬は無表情でシャンパンを煽りながら、然り気無く壁掛けの時計へと視線を逸らす。
「秋、失礼だよ」
修一郎だけは秋の無神経さに怒った。しかし、秋は一切の動きを止めた千鶴を真面目な顔で見る。
「千鶴姉さん、綺麗だよ。半都会人の俺からしても、すっごい美人。けばけばしい胸でか女のあの女優と違って清楚で可憐。ここはもうじじばばばっかだし、殆んどが御家同士で婚約者作ってるからあんまし解んないだろうけど、外出たらマジでモテるよ」
「秋っ!―」
「再婚はしないよ」
修一郎が怒ったその時、千鶴ははっきりと答えた。
膝に乗るシロの背中を撫でた彼女は儚い笑みを溢す。それに、その場の時間の流れが止まったかのように感じられた。
「―…どうして?」
冬は抑揚のない調子で訊く。
「柚里が好きだから」
誰かが息を呑んだ音がした。もしかしたら隙間風の音だったかもしれない。
「一生独身を貫くのか?」
「貫くんじゃないわ。好きだから、愛してるから、私は再婚しないの。だって、それって、再婚した人に悪いから」
二人は同時に愛せない。
千鶴は純粋な思いで冬に答える。
彼は少し赤くした頬で、千鶴のシロに乗せられた手を取った。
「冬さん?」
「千鶴ちゃん、眠くなければ、俺の飲みに付き合ってくれないか?」
「いいですよ」
千鶴は再び答えた。