君を好きだったことを、どうして忘れていたんだろう。
※間違って削除してしまったので再掲です。
朝、目を覚まして、スーツに袖を通す。
電車に揺られて、会社に行って仕事をする。
夜、ただ眠るためだけにアパートに戻ってくる。
そして朝が来れば、また出社する。
俺——藤元正樹は、気がつけば、ただそれを繰り返す日々を過ごしていた。
同期の中には、順調に出世して管理職になった奴もいる。会議で前に立って、若い連中に指示を飛ばして、それが板についている。
後輩にも、とっくに追い抜かれた。去年まで俺に頭を下げて仕事を教わっていた男が、今では俺の上に立っている。
悔しいという気持ちは、確かにあった。
……あったはずなんだ。
胸の奥が焦げ付くような、あの感覚。眠れない夜、天井を睨みつけ、こんなはずじゃなかったと歯を食いしばった、あの熱が。
俺の中にあったはずなのに——なくなっていた。
「正樹、お前ならまだやれるって。大丈夫だ。俺らはちゃんと知ってるから。……な?」
そう言って肩を叩いてくれる同期がいた。
飲みに誘ってくれて、夜中まで俺の愚痴に付き合ってくれて。
明日からだ、明日から変わればいいって、本気で背中を押してくれた。
俺はあいつらに頷いていたはずなのに。
彼らは一人、また一人と、俺のそばから離れていった。
責められるべきは、彼らじゃない。
彼らは正しい。頷くだけで、何も変わろうとしない、いや、変えようとしない奴に付き合っている道理はない。俺だってそうする。間違いなくそうする。
……いったいいつからだろう。こんな自分に、なってしまったのは。
こんなはずじゃなかったのに。俺にもとても大事な何かがあったはずなのに。
今の俺には、それが何だったのかさえも、もう思い出せなかった。
……ああ、疲れたな。
深い溜息とともに、アパートのベッドに倒れ込んで、
——ちょっと、お兄ちゃん! と。
甲高い、聞き覚えのある声が鼓膜を震わせた。
「いつまで寝てんのよ、遅刻するわよ!」
重い瞼をこじ開けると視界に飛び込んできたのは、見覚えのある、しかしもう何年も見ていない天井がそこにあった。
木目のシール。日に焼けたカーテン。机の上には半分だけ解かれた問題集。
ドアの向こうから、味噌汁の匂いが漂ってくる。
階下から聞こえてくるのは、朝のテレビのニュースの占いだ。いや、それだけじゃない。母の足音。父が新聞をめくる、あの乾いた音もする。
そして最後に仁王立ちした、随分と幼い姿をした、口うるさい妹の姿。
最後に顔を合わせたのはいつだったか。盆の帰省でさえ、もう何年も顔を見せてないから——。
「お兄ちゃんが本気で遅刻するつもりなら、もう知らないんだからね!」
妹はわかりやすく頬を膨らませて、部屋から出ていった。怒っているはずなのに、ドアを締める時は丁寧になるのは昔から変わってない。
俺はそのことに苦笑しつつ、布団から体を起こした。
体が軽かった。それだけじゃない。肩や腰の痛みもない。
俺は階段を降りて、洗面所に入り、鏡を見た。
知らない俺——ではなかった。
誰よりもよく知っている、あの頃の俺が、そこにいた。
にきびの跡があって、寝癖があって、無精髭がない。
……ああ、そうか。これは夢だ。
くたびれた中年が見る、都合のいい夢に違いない。
眠っている間だけ過去に帰る、ありふれた、とても安っぽい現実逃避。
そうに違いない。
味噌汁の匂いも。朝の冷たい空気も。遠くで誰かが鳴らす自転車のベルも。電柱のカラスの鳴き声も。
そのすべてがあまりにも鮮やかだったとしても、これは全部夢なのだ。
朝食の席につけば、父が新聞を見ながらちらりと俺に視線を向けて、
「おい、正樹、ちゃんと食え」
と言って。
母が白髪を気にしながら、
「まーくん、忘れ物ないわね?」
と言って。
妹が、
「外で会っても声かけないでね。なんか恥ずいから」
と言った。
夢だから、全部、昔のままだった。
俺が笑えば、妹が、
「……お兄ちゃんが笑ってる。なんかキモい」
と言いながらそっぽを向く。
構わない。
俺は笑ったまま飯を口に運んだ。炊きたての飯がこんなに甘かったことを、すっかり忘れていた。
喉の奥が勝手に熱くなり、夢なら覚めるなと、そう思った。
「……さっきまで笑ってたお兄ちゃんがなんか泣きそうになってる。マジでキモい」
そう言いながらも、妹はティッシュの箱を俺に差し出してくれた。
制服に着替えて、家を出た。
通学路の桜並木を、見覚えのある連中が歩いていく。名前は出てこないのに、懐かしさだけが、確かに胸を締めつける。
全部、夢だ。
だが、いいじゃないか、夢でも。
いつか覚めるんだ、なら、その瞬間まで浸っていよう。
俺は軽い足取りで学校に向かった。学校というものが、何をするべき場所なのか、すっかり忘れて。
そうして俺は途方に暮れることになった。
なぜか? 授業がまったくわからなかったのだ。
黒板に並ぶ数式、教師が語る説明、何ひとつとして頭に入ってこないのだ。
当たり前だ。社会に出てから、ずいぶん経った。三角関数なんて、とうの昔に俺の中から抜け落ちている。
何より最悪だったのが、教科書を忘れてきたことだ。
どうしたものかと思っていた時だった。
横から、開かれた教科書が差し出された。
二人で覗き込めるよう、机の真ん中に、そっと寄せて。
「……珍しいな。藤元君が忘れ物するだなんて」
声がした。低く、涼やかな、少しだけ大人びた声が。
俺はその声の主を見た。
隣の席。
眼鏡をかけた女子——坂城玲だった。
黒い髪を耳にかけ、レンズの奥の瞳が俺を見たが、彼女の視線はすぐに前へ、黒板へ戻った。
その澄んだ横顔を見た瞬間。
俺は思い出した。
くたびれた中年になって、すっかり忘れてしまった、人生で最も大切なものを。
俺の世界の中心を。
ああ、そうだ。俺は——。
授業中、ノートを取るふりをして、ずっと君の横顔を盗み見ていた。
考えごとをする時、ペンの尻を唇に当てる癖が好きだった。難しい問題に眉を寄せて、そして解けた時、ほんの少しだけ口の端を上げる、あの瞬間が好きだった。
君のすべてが本当に好きだったから、どんな表情もずっと見ていたくて。誰にも見せたくなくて。
だから俺は、君の隣の席を、ずっと死守してきたんだ。
運よく君の隣になれた時はよかった。けど、別の奴になった時はジュースでもなんでも奢るからと、必死に頼み込んで代わってもらった。
どうしてと聞かれても、理由なんて言えるはずがなかった。恥ずかしくて。
そうやって世界中でたった一つの特等席を守り続けていたのに。
どうして俺は、こんなにも大事なものを忘れてしまっていたのだろう。
——忘れてしまうことが、できていたのだろう。
思い出した今、信じられない思いだった。
「坂城」
「……うん? 何だい?」
授業中ということもあって、彼女は小声だった。
だが、俺は知っている。これが夢だということを。
だから、そんな小声などではなく、はっきりと言った。
「俺、君が好きだ」
彼女のペンが止まった。
次の瞬間、彼女は、ガタンッ! と椅子を蹴立てて立ち上がった。
俺を見る眼鏡の奥の目をこれ以上ないほど見開き、顔を、耳を、首筋を、白い肌を一瞬で真っ赤に染め上げた。
「なぁっ……!?」
普段、あれだけ冷静な彼女の声が裏返っていた。かわいいなあ。こういうところも本当に好きだ。
「ふ、藤元君!? き、君は今っ……自分が何を口走っているか、わかっているのか!?」
「もちろん。何度だって言うよ。俺は君が、坂城玲が大好きだ」
彼女は池の鯉が餌を求めるように口をパクパクさせてから、震える指でズレてもいない眼鏡のズレを治す仕草をしてから、それから絞り出すように言った。
「そ、それは……」
ごくり、と彼女の喉が鳴る。
「……私と、交際したい、ということ、だろうか?」
「そうだ」
俺は、迷わず頷いた。
「そういう、大好きだ」
夢だから——現実の俺ではないから、言えるのだ。こんなにはっきりと。
彼女は、しばらく俯いていた。
真っ赤な顔のまま、服の裾をギュッと握りしめ、何か必死に考え込むように、唇を引き結ぶ。
やがて、意を決したように顔を上げると、
「……そ、そうか。なるほど」
妙に、力強く頷いた。
「よし。いいだろう」
いいだろう、と来た。
「しかし、あれだぞ!」
彼女は、びしっと俺を指さした。まるで重大な契約条件を突きつけるみたいに、声を張った。
「私と付き合うというのは、生半可な気持ちでは困るのだ! つまり、どういうことかと言うと、だな」
「うん」
「け、結婚を前提にした真剣なものになるが、そ、それでもかまわない、ということかな……っ!?」
真面目で、不器用で、どこまでも一途な彼女らしい言葉だった。
夢はいつか必ず覚めるから。せめてその瞬間が来るまでは、最高に幸せな未来を君と過ごしていたかった。
俺は椅子から立ち上がり、彼女の瞳を真っ直ぐに見た。
「坂城玲さん。俺はあなたが大好きです。結婚を前提に、俺と付き合ってください!」
夢だから、できる告白だ。
けど、もし、あの時に戻ることができたとしたら、きっと同じように本気の告白をするだろう。
彼女は、ぐっと唇を噛んだ。そして、潤んだ目で俺を睨むようにして、それから消え入りそうな声で言った。
「……こ、こちらこそ。よろしく、頼む。藤元君」
真っ赤になった君がこんなにかわいいなんて、知らなかった。
眼鏡が少しずれているのも、握りしめた拳が震えているのも、ぜんぶ、たまらなくいとおしかった。
俺は、この一瞬を永遠に焼きつけたいと思った。たとえ覚めても、この光景だけは忘れないように。
でも、同時に、夢だからこそ、こう続けた。
「結婚するんだから、そんな苗字なんかじゃなくて、名前で呼んでよ」
「き、君はいつからそんな破廉恥なことを言うような人物になったのだね!?」
破廉恥と来たか。
「駄目かな? ね、玲」
「くっ、だ、駄目じゃ——ない、ぞ。ま、ま、ま」
「次は『さ』で、その次は『き』だ」
「そ、それぐらい知っている! どれだけ君のことを見てきたと思って——」
「え? 俺のことを見てきた……?」
もしかして彼女も俺のことを……?
「…………そ、そうだっ、悪いかっ。ずっと、ずっと隣りにいた君のことが、気になって仕方なかったんだっ!」
ああ、もう絶対に覚めないで欲しい。
「ま、正樹、私も君のことが、……す、好きだ」
気がついた時、彼女は俺の腕の中にいた。つまり、抱きしめていたのだ。
そして俺たちは、大事なことをすっかり忘れていたことに気がついた。
今は授業中だった。
黒板の前で、教師はチョークを握ったまま固まっていた。
クラスメイトたちは息を殺し、固唾をのんで、
「今の……見てた、よな?」
俺が問えば、クラスメイト全員が一斉に頷いた。
そして、
「おめでとう……!!」
歓声が爆発した。
男子たちが机を叩いて指笛を鳴らし、女子たちが黄色い悲鳴を上げ、全員が立ち上がって拍手をする。
「いつ言うか、いつ言うか思ってたら、まさかの授業中!」
「坂城の隣の席を藤元があれだけ死守しようとしてたら、気づかない方がおかしいんだよなあ」
騒ぎ始めたクラスメイトたちを、教師が注意しようとしたのだが、
「こら、お前たち! 静かに——いや、まあ……うん。おめでとう」
最後は降参したように苦笑した。
俺の腕の中で玲が、ボッ! と音がしそうな勢いでまた真っ赤になった。そしてそれを隠すように、俺の胸にその顔を埋めてきた。
「かわいいな、玲は」
俺がその耳元で言えば、
「……ばかっ」
怒られたが、全然怖くはなかった。
俺は本当は、こんな学生時代を過ごしたかったのだ。
電車の窓に映る、くたびれた自分を見ながら。会社のLED灯の下で、時間をすり減らしながら。本当はずっとこういう、まぶしくて、馬鹿みたいで、心臓がうるさいくらいに鳴る毎日を生きてみたかったのだ。
俺は玲を抱きしめた。
夢にしてはあんまりにもあたたかく、そして、
「ああ、いい匂いだ」
彼女の頭を顔を埋める。
「ま、正樹、君はもしかして、へ、変態、なのかっ!?」
「玲限定で」
「私限定!? ……な、なら、いい、のか……? ……もっと、嗅ぐか……?」
むしろ積極的に俺に髪を押し付けてくる彼女が愛おしくてたまらない。
それにしても、この最高に都合が良くて、最高に愛おしい夢……一体いつになったら覚めるのだろうか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
もし少しでも面白いと思っていただけましたら、
ブックマークと評価して応援いただけると執筆の励みになります。




