シナリオ通りに動けない! 震える膝と高笑いの練習
「……無理。絶対に無理」
鏡の中に映る美貌の令嬢が、私と同じタイミングで絶望に染まった唇を震わせた。
燃えるような赤毛の縦ロール。勝気そうに吊り上がった紫水晶の瞳。雪のように白い肌と、高圧的なまでの気品を纏った立ち姿。
どこからどう見ても、乙女ゲーム『聖なる乙女の恋物語』の誇り高き悪役令嬢、エルゼ・フォン・シュタインその人だった。
私が前世の記憶を取り戻したのは、つい三日前のこと。
そして、この世界がゲームの世界であり、私が「ヒロインを虐めた末に、国を追われるか処刑されるか」の二択しかない詰みキャラであることを理解した。
通常、転生者なら「運命を変えてやるわ!」と意気込むところだろう。だが、私の目の前には、薄桃色の半透明なウィンドウが浮かび上がっている。
【警告:悪役令嬢強制執行システム】
[現在の悪役ポイント:0]
[本日中にメインシナリオ『学園の洗礼』を完遂してください。未達成の場合、即座に心臓麻痺によるバッドエンドが確定します]
「システムさん、これ、パワハラだって知ってます……?」
無機質な文字列が網膜を焼く。
そう、このシステムこそが私の呪縛だ。私はシナリオ通りに「悪逆非道な振る舞い」をして、ヒロインを輝かせる踏み台にならなければ、その場で寿命が尽きるらしい。
でも、聞いてほしい。
前世の私は、道に迷ったお年寄りを無視できず、捨て猫を三匹も拾い、同僚のミスを黙ってフォローして回るような、自他共に認める「お人よし」だったのだ。
そんな私が、あのか弱いヒロインに嫌がらせ? 無理。心が死ぬ。
「……行かなきゃ、死ぬ。でも、やったら心が死ぬ。どっちがマシなのよ……っ!」
私は震える足で、登校用の馬車に乗り込んだ。
聖マリアーヌ王立学園。
大理石の床が眩しいサロンには、貴族の令息令嬢たちが優雅に談笑していた。
その中心に、彼女はいた。
ヒロイン、クロエ。ふわふわの亜麻色の髪を揺らし、慣れない学園生活に戸惑う「男心をくすぐる」愛らしい少女。
私の視界に、システムメッセージが赤く点滅する。
【ミッション:ヒロインの服に紅茶をぶっかけ、身分の差を説教しろ】
[残り時間:15分]
……鬼か。
あんなに健気に笑っている子に、熱い紅茶を? 私の手がガタガタと音を立てる。
私は給仕のテーブルから、並々と注がれたアールグレイのカップを手に取った。
「お、お、おーっほっほっほ……っ!」
まずは高笑いだ。悪役令嬢の基本。
しかし、私の喉から出たのは、引き攣った鳥の断末魔のような掠れた音だった。
サロン中の視線が集まる。
あ、みんな見てる。怖い。逃げたい。今すぐこの紅茶を自分で飲み干して、「美味しかったです!」と言って去りたい。
「……あ、あの、エルゼ様?」
クロエが私に気づき、不安そうに首を傾げた。
なんて可愛いの。守ってあげたい。でも、ここで何もしなければ私の心臓が止まる。
私は覚悟を決めた。
(ごめんねクロエちゃん! でも死にたくないの! あとで一番高いクリーニング代出すから! 宝石付きのドレス買い直してあげるから!)
私は全力で「悪役らしい顔」を作った。実際は、泣き出しそうなのを必死で堪えた般若のような形相だったに違いない。
私は、クロエに向かって一歩踏み出した。
「おだまりなさい! あなたのような平民上がりが、この聖なる学び舎に相応しいと思っていまりて……あっ!?」
台詞を噛んだ。
しかも、緊張しすぎてカップを持つ手が震え、ターゲットの服に届く前に、自分のドレスの裾に紅茶が半分かかった。
「ひゃっ!?」
自分の太ももにかかった熱い感触に、私は短い悲鳴を上げる。
だが、システムは容赦ない。【未達成:残り5分】という文字が目の前で激しく明滅する。
(やるしかない……! 物理的にぶっかけるんだ!)
私は残りの紅茶を「えいっ!」という掛け声と共に、クロエの足元に……。
……いや、彼女の足元にいた、小さな子犬(学園の飼い犬)にかかりそうになったのを見て、私は反射的に身を乗り出した。
「危ないっ!」
バシャッ。
紅茶はクロエの靴の先にほんの少しだけかかり、残りの大部分は、私が彼女を庇うようにして床にぶちまけた。
「……っ、ふ、ふふん! 見なさい、これがあなたの運命よ! 汚れた水がお似合いですわ!」
必死で捻り出した悪態。
実際は、クロエを庇って自分が盛大に転びそうになり、必死で踏ん張ったポーズである。
静まり返るサロン。
ヒロインのクロエは、目を丸くして私を見上げている。
周りの生徒たちは困惑していた。
「今、エルゼ様はクロエを庇ったのか……?」
「いや、あんなにひどい顔で睨んでいたし、汚れた水とか言ってたぞ」
ピコンッ!
【ミッション:一部達成と判定。悪役強度が極めて低いですが、周囲が『悪意』と認識したため継続。心臓停止は免れました】
(た、助かった……!)
私は内心で涙を流した。
だが、安堵したのも束の間。クロエがうるうると瞳を潤ませて、私の手を取ったのだ。
「エルゼ様……! 私なんかのために、ご自身のドレスを汚してまで……! あの、熱くなかったですか? 大丈夫ですか?」
「な、ななな……っ、何を言っていますの! 汚い手で触らないで! 私はただ、あなたが床を汚すのが許せなかっただけですわ! おーっほっほっほ!」
私はクロエの手を振り払い、マントを翻して逃げるようにサロンを後にした。
背後でクロエが「なんて不器用で優しい方なの……!」と呟いた気がしたが、聞こえないふりをした。
自室に戻った瞬間、私はベッドに倒れ込んだ。
「……死ぬ。心臓が止まる前に、羞恥心で死んじゃうわ」
悪役令嬢を演じる。
それは、私の善良な精神と、理不尽なシステムとの命懸けの戦いだ。
バッドエンドを回避するために、私はこれからも「良い人」を隠して「悪」を演じ続けなければならない。
……でも、今のクロエちゃんのキラキラした目。
あれ、完全に「尊敬の眼差し」だったよね?
悪役ポイント、本当に貯まるの? これで大丈夫なの!?
私の前途は、多難どころではなかった。




