我々は思ったより、カジュアルに死にたがるという話
YouTubeのおすすめショート動画に、掲示板のいわゆる「レスバトル」風の自動音声読み上げが流れてくると、私はそれらを底なしにくだらないと知っていながらついつい見てしまう。
そして、その内容の底なしのくだらなさと、奇っ怪な近畿風のなんちゃって方言が、なんとも言えず好きなのだ。
ちゃんとしてない私自身を、なんとなく肯定してくれる気がして。あるいは、コメント欄を眺めながら自分よりも下はいると、下卑た安心感を覚えている。
その動画群の中に、「10年前の自分に五文字だけアドバイスを送れ」というのがあった。
なかなか好きな題材だ。私なら……と下品極まりない五文字がいくつか、チラチラと脳裏をかすめる。
『死んでおけ』
不意に、自動音声と心の中の声が重なって、ギクリとする。咎められたわけでもないのに、ヒビの入った瓶から漏れ出すような罪悪感が心を染めていく。
決して真剣な話などではなく、笑い話の1つとして一分に満たない動画は終わった。
そう、10年前、あの時自身命を諦めていれば……と。愚かな考えで、歪んだ自己愛の発露と知りながら、私はそう、思ってしまっていた。
10年前、私はまだ介護の何たるかを知らなかった。そして折り合いの悪い母とも、落としどころを見つけてひとまず家族として過ごせると思っていた。
その介護の、その終わりなき長い長い下り坂の実態に早々に絶望し、母とは本当にどうしようもなく合わないのだと現実を突きつけられ、無益極まる精神の格闘の果てに、母は心を病んでしまった。
さらに追い打ちをかけるように、悩みを共有していたネット上の集まりは、四駆さんの急逝をきっかけに瓦解し、仲間たちは次々とこの世に見切りをつけていった。
10年前のあの時ならまだ、私は比較的幸福に死を選択できただろう。いつだったか、「楽しいままで終わりたい」と言葉を遺した中学生のように。
だいたい30歳を迎えれば、その先の人生の大まかな筋書きは見通すことができる。ネット社会が発達してから、中年期以降の人生は「ネタバレ」が激しくなった。
まこと残念なことにそのネタバレの中に面白おかしい幸福なものは少ない。老いは来る。格差で友と引き離される。嫌いな人とのかかわりを持つことを余儀なくされるし、若くない人間の犯す過ちは自身にも周囲にも深く爪痕を残してたちまち膿み腐る。
いっそ他人に向かうべき幸福すらも強引に奪い取り、自分の周りに得を抱え込んで憚らないのでもなければ、マイナスが少しずつ積み上がるだけの人生だ。
その実感を持ったときにはすでに、勝手に自死してしまえるほど我々は幼くないし、勝手に死んではいけない責任を背負ってしまっていることもある。
だから、ありもしないもしもの中に、希望的選択として「あのとき死んでおくこと」が出てくる。
幼稚だと言われればなるほどそのとおりだ。そうして幼稚であることを知りながら、やはり心の中から締め出すことができないのは、死んでおいたほうが良かったというひとつの解を、どうしようもなく否定し得ないからではないだろうか。
そして我々は、その死にたさの真剣味をはぐらかすかのように、カジュアルに死を求める。だって長い下り坂を見据えても歩みを止めない立派な人はいつの時代もいるのだから。
そういう人がいる世の中で、自死の正当性を声を張り上げて述べ立てることは、無様な行いだ。誰かが耐えられた試練を私は耐えられないと口にする時、そこにあるのは自身が劣等であることの動かぬ証拠だけだ。
だから我々は声を張り上げて生きることの無残さを訴えることはせず、むしろ自身を道化のように扱いながら、ピエロがバナナの皮で滑って転ぶように死にたがる。真剣味を欠いた、コミカルな死に憧れる。
そこにまじめな「生きるべき論」の介入を許したくないからだ。正論で得られるのは人生という長すぎる下り坂の続きだけ。生きろと叫ぶ人たちはしかし、私たち一人一人の苦痛を緩和するだけの労力は決して彼ら自身から捻出しようとしない。
真剣に扱われなかったのだから……。
その思いはほとんど八つ当たりだが、だからこそ強力に我々をカジュアルな死にいざなう。
旅行先で美味い料理に舌鼓を打ち、旅館をチェックアウトしたあとそのまま山へ行って首を吊るとか。
性風俗店でお金と引き換えに、はじめてちゃんとした人間として扱ってもらう経験を得たあと、アパートの一室で練炭を焚くとか。
はたまたはサウナでひと汗流してから、乾いた喉に冷えたアルコールを流し込んで動脈を一閃……とか。
どれもカジュアルだ。
誰も大切にしてくれなかったでしょ?という八つ当たりを、うまいこと自己表現に昇華している。
我々は究極的にはそこから逃れられない。血の気のない一般論由来の倫理を無力化させるのに、そういうカジュアルな刹那的なものから逃れられない。
一種の文学的あるいは哲学的な問い……のように見せかけて、自身の命で最期に遊んでみせる。その姿は復讐と言うには余りにも幼すぎる。当てつけというのが一番しっくり来るだろう。
いのちの真剣味にくたびれて、漫然と死と遊ぶ。
その瞬間、冒涜される側とする側は立場が入れ替わり、人は決して自分だけのものでなかった人生を最後の瞬間にすっかり自分のものにできるのだ。
アノミーなどという言葉を持ち出すのも恥ずかしいくらいのものだが、突き詰めるならやはり自死は自己愛であるし、(その人の主観において)大切にされなかった人生の当てつけなのだ。
その幼さを認めながらも。私はそれを責められないな、と思う。
私だって自分のことで精いっぱい、だれかを大切にした経験など片手で数えられる程度のものだ。死んで欲しくないと仲間にのたまいながら結局何の手助けもしなかった。
私だけではない。自死した人間の周りには死んで欲しくないという言葉と、その言葉に反して何もしなかった人間の怠惰の記録が容赦なく残っている。
これからもカジュアルな自死はずっとずっと未来まで現れ続けるだろう。そうしてそのあり方に惹かれながらも、一般論の内側に引きこもった我々はそれを頭ごなしに非難するのだ。他人に労力を割くことを惜しむがゆえに。
カジュアルな自死、という言葉が正確なのかもわからないが、追い詰められた果ての……というのとはまた違う、未来と現在を丁寧に見通した結果、損切りに近い感覚で死を選ぶ、という行いを何度か目にしてきた。
昔はうまく言えなかったが、ようやくこの歳になってあれが何だったのか言葉に出来るようになってきたと思う。
作中でも書いたが、そういう人をほとんど助けもしなかった。だから責める権利は本当はないのだと思う。
願わくば、その選択をした人が一瞬でも、自身の人生を自分で抱きしめることができたことを祈るばかりだ。




