湿原の声3
――泥に沈む自分へ――**
湿原へ向かう道すがら、私は何度も立ち止まった。
別に湧き上がる理性が引き止めたわけではない。
単に、歩くのが億劫だったのだ。
足が重いとか、疲れたとか、そういった理由すら上等で、正直に言えば、私はこの期に及んでも「まあ、また今度でもいいか」と逃げ腰のままだった。
これまでの人生、そんなことの繰り返しだった。
やるべきこと、やらねばならないことを、考えただけで気が滅入り、最終的に全部後回しにしてきた。
その尻拭いを自分でしようとしたためしなど、一度もない。
だらしなさを積み重ねたまま歳だけとった。
だから今さら幽霊に呼ばれようが、湿原が口を開けていようが、大した違いはない。
ただ、あの声だけが、妙に耳に残る。
「……こっちよ。来て……」
湿っぽい、芯の抜けた甘ったるさがある声だと思った。
こういう優しげな呼びかけに弱いのは、私の昔からの悪癖である。
結局のところ、誰かに必要とされているという錯覚をくれるなら、相手が誰であれ構わなかった。
自尊心だってとうに摩耗し尽くし、下宿の床板みたいにところどころ抜け落ちている。
そんな男が、幽霊からの誘いを断れるはずもない。
湿原の入り口に立つ頃には、私の靴は泥に沈み、ズボンの裾まで湿りきっていた。
その状態が、妙にしっくりきて腹が立った。
人生の総決算が泥まみれとは、あまりに出来すぎている。
風が吹くたびに草むらがざわめき、そのたびに、耳奥で声が震えた。
「……ずっと待ってた……もう、いいのよ……」
“いい”ってなんだ。
何が“いい”のか。
そんな問いが脳裏をよぎるが、答えようとする気力もない。
そもそも、問いを深めるほどの頭の回転すら、もう残っていなかった。
私は湿原へ足を踏み入れた。
途端に、足元の泥が、私の体重以上の粘り気で絡みついてくる。
これがまた、自分の人生そのもののようで笑えてしまった。
漕ぎ出せば沈む。進めば足を取られる。
気力も実力も無い男は、ただ足踏みしながら徐々に沈むだけ――
そんな生涯の象徴が、この泥の感覚に凝縮されている。
しばらく進むと、月光を吸い込むような小さな水面が広がっていた。
中央に、あの女が立っている。
いや、“立っている”というのも正確ではない。
輪郭がゆらぎ、水気が滲むように体が揺れている。
まともな存在じゃないと、ひと目で分かる。
女は、静かに私を見た。
その目が、まるで私の全て――みっともない過去も、卑屈な現在も、薄っぺらい嘘も――全部見透かしたような気がして、胸がざらついた。
「来てくれたのね……あなたは、やっぱり……来ると思ってた……」
“やっぱり”。
その一言に、嫌でも自分の惨めさが浮き彫りになる。
私が断れなかった理由を、彼女は分かっていたのだ。
どれほど意志が弱く、誘惑に簡単に負け、逃げ場所を探してばかりの男なのか。
「……別に、来たかったわけじゃ……」
言い訳の途中で、女が首を傾げる。
その動作が妙に優しく、またしても胸がざわついた。
「いいの……あなたは、そういう人……
だから、ここに来られたの……」
湿原の草むらがざわりと揺れ、足元からひやりとした泥が這い上がってくる。
私は慌てて足を引き抜こうとしたが、泥はしつこく絡みつき、重りのように沈めてくる。
「や、やめろ……!」
もがけばもがくほど、泥はたちまち太腿、腰へと達する。
逃げようにも、私の腕力ではとても抗えない。
女が近づいてくる。
その足元は水に浸かっているはずなのに、沈まず、濁らず、ただ曖昧に揺れている。
「あなたはね……もう、どこにも戻れないの……
ここに来た時点で……あなたの居場所は、ここだけ……」
図星だった。
私は戻る場所を捨てたわけではない。
元々、戻る場所などどこにもなかった。
そう気づいた瞬間、喉の奥がひりつき、情けなく涙が滲んだ。
「俺は……別に、好きでこうなったわけじゃ……」
また言い訳だ。
ずっと、言い訳ばかりして生きてきた。
その言葉を吐くたびに、人生は少しずつ濁っていき、気づけばもう底の泥と見分けがつかない。
女は、そんな私を憐れむような目で見つめた。
「うん……分かってる……
だから、もういいの……
あなたはここで、私と沈めばいい……」
泥水が胸元にまで達し、呼吸が苦しくなった。
恐怖で体が震えるのに、同時に、奇妙な安堵があった。
――やっと終われる。
――やっと、言い訳しなくていい場所に辿り着けた。
女がそっと手を伸ばし、私の頬に触れた。
その指先は冷たく、しかしどこか懐かしい温度があった。
「もう、頑張らなくていいの……
誰にも、何も、期待されない……
ここなら……あなたは溶けて、混ざって……楽になれる……」
私は抵抗らしい抵抗もできぬまま、泥の底に引きずり込まれた。
肺に生温かい泥が流れ込む。
世界の音が遠のき、意識が薄れていく。
その最後の瞬間、耳奥で、いつもの声が囁いた。
「……おかえり……」
私は、自分の人生で初めて、その言葉を向けられた気がした。
そして、それを最後に――完全に沈んだ。




