湿原の声2
あの下宿を飛び出したものの、私に行く宛などあるはずもなく、結局は駅前の漫喫で三泊もしてしまった。
こういう情けない生活に慣れきってしまっている自分が、つくづく嫌になる。だが、嫌になるだけで改善する気概もないから始末が悪い。
湿原の声は、下宿を離れても耳の奥で続いていた。
聞こえたり、聞こえなくなったり、まるで私の怠惰な生活リズムに合わせているようだった。
「……まだ、こないの……?」
深夜、漫喫の仕切り壁に頭をもたれさせてうとうとすると、女の声が、耳の穴の中から直接囁いてくる。
私はビクつきながらも、結局は寝不足のまま朝を迎え、だらしなく店を出る。そのくり返し。
四日目の朝、財布を見ると、千円札が一枚しかなかった。
いつのまに飲み物だの菓子パンだの買い食いしていたのか、自分でも記憶が曖昧だ。
いや、曖昧であること自体、いつものことだ。
手っ取り早く古本屋の店主に泣きつこうとしたが、その前に、昨夜の声の続きを思い出した。
「……本を返して……」
本?
失くした文庫本のことだろうか。
だが、あれは元々どこから来たのかさえ分からない代物だ。返せるわけがない。
私は気が滅入りつつも、再びあの下宿に向かった。
もちろん戻る気などない。ただ、あの声の正体が、もし部屋に何か痕跡を残しているのなら確かめておきたかったのだ。
その割に、歩きながら缶チューハイを買ってすぐ飲み干すあたり、緊張感がまるでない。
下宿に着くと、大家の老婆が縁側で干物を焼いていた。
私の顔を見るなり、険しい目つきで言った。
「……戻るんかい?」
「いや、ちょっと荷物……まだ取り忘れてて」
嘘だ。荷物など大してない。むしろ私自身のほうが不要な荷物みたいなものだ。
部屋に入ると、中は思いのほか静かだった。
当然だ。誰もいないのだから。
と思った矢先、突然、足元がじっとり冷たくなった。
見下ろすと、床板の隙間から水がじわりと染み出している。
まるで湿原が、部屋そのものに広がり始めているかのようだった。
その水面に、声が乗った。
「……返して……返して……私の本……」
私は後ずさりしながら、頭を抱えた。
「返すも何も、もう無いんだよ……! 勝手に消えたんだ!」
叫んだ瞬間、床の水がぴたりと止まった。
代わりに、部屋の四隅から、ねっとりとした風が吹きはじめる。
湿った風に、腐った草の匂いが混じる。
「……なら……あなたが来て……」
いやだ。
だが、逃げだす気力もない。
金もなく、行く場所もなく、誰からも必要とされていない男にとって、「来て」と求められることは、奇妙な救いのようにも思えた。
情けない話だが、私はその声に、ほんの少しだけ――胸が温かくなった。
「……行けば、声は……消えるのか?」
問うと、
「……ええ……ずっと一緒に……」
湿った風が、優しく頬を撫でた。
ただの錯覚だと分かっていながらも、その触れ方は、これまでの人生で誰からも与えられたことのない、奇妙なぬくもりを含んでいた。
私はふらふらと玄関に向かった。
どこへ向かうべきか、もう分かっていた。
――湿原。
その名を頭に浮かべた瞬間、耳奥で声が甘く囁く。
「……えらいね……やっと来てくれるのね……」
私は笑った。
情けなくも、すがるような笑みだった。
このどうしようもない人生から逃れることができるのなら、湿原でも幽霊でも、もう何でもよかった。
そして私は、夕暮れの街をふらつきながら、北に続く道を歩き出した――。




