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【闇堕ち直前】主人公の色なし観察日誌2  作者: 荒屋朔市


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3/12

「エシュ取扱説明書」

その1、スマイルを絶やしてはならない。


 給仕の案内で通された個室の扉を開ける。そこは掃除が行き届いた簡素な部屋だった。文机と椅子に寝台、最低限の家具が揃えられ、清潔な布団まで用意されている。文机には紙束と筆記具の一式。

 給仕は文机の左横の壁に発光菌ランプを掛け、一礼して部屋を出て行った。壁には絵本の挿し絵で見たような絵画が掛けられている。地上の風景画だろうか?

 僕は椅子を引いて腰掛けた。長い一息が溢れる。十日分にしては多過ぎる紙束から一枚を引き抜き、インク壷は肘から遠い場所に置く。脇に置かれたキノコ茶の湯気を眺めた。


 思い返せば、始めから終わりまで仕組まれていたのではと疑いたくなるほど、速やかに事が運んだ。

 まるで彼女に踊らされているような気分だが、事実なら、エシュは知りながら策に乗ったのだろう。エシュの目的と関係しているに違いない。


 風景画を眺めながら、遠き日に思いを馳せていた。


 ◇


 運搬用の荷台に身を隠し、錆びた鉄の車輪が軋む音を聞きながら、一度だけ地下を抜け出したことがある。


 少しの雑草や苔で賄える小型の家畜と、野菜やハーブが生産される竪穴洞窟。国土の一部と認められていながら、地上の光が差し込む場所。

 そこは別世界だった。


 透明な光が差し込む洞窟の岩壁には、緑の苔がびっしりと貼り付いている。畑には見たこともない植物が並んでいた。


 空気は湿っていて、土の匂いに家畜の臭いと香草の香りが混じり合っていた。僕は妹の手を握って荷台から離れた。


「わぁ……」


 小さく感嘆の声を漏らす妹が僕の袖を引っ張る。その瞳は驚きと好奇心で輝き、僕も言葉を失っていた。書物でしか知らなかった地上が、目の前に広がっている。


 大人たちに見つからないよう作物の陰に隠れた妹がクスクスと笑う。その笑い声を追いかけ、岩壁の方へ走った。空気の震えに合わせてツタの葉がざわめく。家畜たちの微かな鳴き声が聞こえてくる。


 ふと顔を上げると洞窟の天井は、ずっと遠くにあった。

 青く高く澄んだ色。眩しすぎて目を開けていられないほどの光が降り注ぐ。薄ぼんやりした形の白い湯気が、ゆっくりと流れて行く。

 二人して立ち止まり、その光景に魅入っていた。


「ねえ。あれは、……そら?」


 妹の問いに、僕は言葉を返すことができなかった。その光景を脳裏に焼き付けるような気持ちで、黙って見つめた。僕らが生きる世界に、行ったことのない場所に、美しい色がまだたくさんある。


 束の間の「青い夢」は、収穫の積み荷作業が終わるまでの期限付き。刻一刻と変色していく空との別れを惜しみながら、僕らは荷台に乗り込んだ。


 冷めない感動と興奮を噛み締める僕の隣で、まだ幼かった妹は目を擦っていた。泥と土の臭いをまとわせた小さな手には、奇妙な形の小石が一つだけ。


 あの日に見た景色は、今でも心に灯る微かな希望であり絶望だ。


 ◇


 手に持っていたペン先が机を叩く音で、僕は現実に引き戻された。

 茶菓子を噛じる音が聞こえる。了承も得ず他人の寝床に上がり込んだエシュが、そこで茶菓子を貪っているのだ。


「散らかさないように。散らかしたら自分で片付けてくれ」


 背後へ向けて声をかけたが、了解の返事からは程遠い咀嚼音が響いただけだった。

 外出許可が降りないから「古泉」に戻れず、退屈しているのだろう。屋敷内を自由に徘徊させては何をやらかすか予測できず、迷惑をかけそうで怖い。その年齢不詳感は出会った頃のままだ。

 それにしても、当時では想像もできなかった生活環境だ。夢を見ているのではないだろうか。不意に目を覚ましてしまいそうで不安になる。


 この現状は、乗り込む前の僕が望んだ未来へ近づけているだろうか。そんな憂いも明日、妹に会えば晴れるはずだ。彼女は約束してくれた。エシュも黙って聞いていた。


 机に広げた真っ白な紙を眺め、深く息を吐く。傍から見れば、観察日誌を書くことは家主から課せられた義務だが、それだけではない。エシュが存在している証を残す行為であり、僕がここに残る理由だ。

 誰が読むかなどは関係ないし、興味もない。


 僕はインク壺からペン先に液体を吸わせる。再生紙とは違う質感の紙に、最初の言葉を記した。屋敷は静かで、ペン先が紙を擦る音や菓子を噛む音だけが響く。


『エシュ観察日誌、第一項目』。

 

 文字を見つめながら小さく息を吐いた。明日がどう転ぶかは分からない。今は、この一行が僕の生きる理由へ形を変えて行くような予感があるだけだ。


 ◇


 コンコンコンと三度ずつ、規則的に硬いものを叩く音が響く。煩わしさを感じながらも僕はペンを走らせ続けた。

 背後で何か軋む音が混じる。エシュが寝返りでも打ったのだろう。文句を言ってやるつもりでペンを置き、振り返った。


 エシュは寝台から立ち上がり、部屋の扉を開ける。そこに一人の給仕が立っていた。エシュを見るなり身震いして、椅子に座ったままの僕へ向けて一礼する。


「お客様、奥様がお呼びでございます。身元書類をご持参くださいますよう仰せつかっております」


 震える声で彼女は伝えてくれた。


「すぐに支度します」


 僕は机に向き直ってインク瓶の蓋を締め、書き途中の紙の端に置いて、紙が丸まらないように固定する。書類と筆記具を持って扉を出ると振り返った。


「君はどうする?」

 

 

▷ 何処まででもついて行く。

  トイレくらい1人で行けし。

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