名前
ペンは剣よりも強し。
レナが掲げる「中立の器」論に、議場は静まり返った。
長老たちは無機質な瞳で僕とエシュを見定め、革新派の代表者たちは口々にどよめく。
彼女の論理は完璧だ。双方がエシュの所有権を欲し、敵勢力に渡ることを何よりも恐れているなら、第三者による管理は痛み分け、「次善の策」として機能する。
人間が「感情」という非合理なものを持ち合わせてさえいなければ。
「……理屈は分かる」
円卓の向こうの長老が重々しく頷いた。その濁った瞳が冷徹な光を帯びる。
「然れど、子供に御せるのか? 『神降ろし』は国の大事。子供の遊び相手させておく余裕などあらぬぞ」
長老の視線が、革新派の席に座る武闘派の男へ向けられる。先程とは別の男が怒声を上げた。
「詭弁だ!」
ローブのようなものを纏った学者風の男だ。
「認めんぞ! そのガキも執事も、どうせ貴様が用意した傀儡だろう!?」
そう言って、男は早口で詠唱を始めた。
あの文言を僕は知っている。かつて僕がエシュに向けて行使したのと同じ、対象者の罪の重さに応じた幻痛を与える『煉獄の炎』。
僕は思わず腰を浮かせた。レナに視線を送るが、彼女は羽根扇で口元を隠して冷ややかな目で男を眺め、敢えてなのか僕を見ない。議場へ入る前の発言が脳裏を過ぎる。
僅かな希望を託して革新派の席を見たが、蛮勇を諌める者はなく、僕は彼の身に起こり得る顛末を受け入れて目を閉ざす。詠唱が終わり、青白い炎の渦が放たれた。
誰もが沈黙する中、冷気が僕の身体をすり抜け、その背後で弾かれた炎は、火の粉を散らしながら術者へ舞い戻る。
「な、なんだと……!?」
炎に包まれた術者が悲痛な叫び声を上げた。背筋が寒くなったところへ、氷が割れるような冷徹な音が響く。
「――静粛に」
炎ごと術者を斬り伏せたのは、灰銀色の髪を持つ長身の男だった。
青い炎は絶ち消え、術者はその場に崩折れた。
その一瞬後、円卓に座す長老の真横へ歩み出たのは、灰銀色の髪をきっちりと中心で分け、左右対称の儀式服を着た男だ。淡い青色の瞳孔が僕たちを見下ろす。
議場全体の空気が凍りつき、長老たちでさえ敬意を払うように居住まいを正した。
「セデル様。……その権能で、真贋を見極めくだされ」
長老が呼びかけると、男は抑揚のない声で短く応じる。次の瞬間、彼の姿がブレた。
僕の目には、その初度さえ認識できなかった。距離という概念さえ断ち切るような神速の踏み込み。横薙ぎに振られた銀色の閃光が、僕の喉元へ迫る。命の危機を理解できているのに、指の一本さえ動かない。
もはや現象とでも呼ぶべき斬撃。
鋭い金属音が響き、衝撃波が僕の前髪を揺らす。
目を開けると、黒い背中があった。僕の前でエシュが長剣を受け止めている。
「……ほう。我が断罪の刃を筆ごときで防ぐか」
セデルと呼ばれた男は表情を変えずに呟いた。エシュは何も答えず、そこを動かない。
筆ごとき?
僕は胸ポケットを確認した。レナから預かっていた鉄筆がない。
「……まさに御業じゃ」
「セデル様の剣を防ぐとは」
長老たちが口々に感嘆と称賛を送り、過激派の連中は口を開けたまま静まり返った。
興味を失ったように視線を外し、剣を鞘に納めた。エシュの異質さを見極めた瞳が、今度は僕を見据える。
その瞳は、顔を見てなどいなかった。僕が今までに犯した罪、小さな盗みや嘘、抱いた悪意、魂の履歴までも見透かすように絶対的な「断罪」の気配。どこまでも鋭く冷徹な視線。
「罪の臭いがせぬ」
彼は直立し、厳かに告げた。
「記録は見えるが、既に焼き浄められておる。取り乱す様子も無し。他に適任も居るまい。枠も楔もなく彷徨わせておくよりは良い」
周囲を見渡し、鼻持ちならないとばかりに顔を顰める。長老たちの顔色が変わった。
保守派が絶対的な信頼を置く「処刑人」であるらしい彼が、エシュの持つ技量を公衆に見せつけて、僕の潔白を認めたのだ。
「……ジヴよ、お前はどう見る?」
静まり返る議場。そこへ今度は革新派側の席から、鈴を転がすような声が漏れた。
「ね? 言ったでしょ?」
商人たちの隙間から現れたのは、ケープに身を包む小柄な人影だった。
「ジヴちゃん、お静かに! 危険です」
商人が諌めるも、その人物は明るい円卓の横を通り過ぎ、僕の前に歩み寄った。薄茶と金の混ざった髪が揺れ、緑色の瞳孔を煌めかせながら、穏やかな声で問いかけてくる。
「この子がいいんじゃないかな? 『現在』を捕まえておくなんて、誰にでもできることではないからね」
その子は僕を見つめて、小首を傾げた。
「ねえ、お名前は?」
まるで迷子の子供に尋ねるような気軽さだ。
名前を知らないはずがない。それでも尋ねるのは、僕の口から聞くことが、了承の証と考えるからだろうか。
「ロエル……あ、いや。クローヴェルです」
気づいた時には親から与えられた名を答えていた。
「クローヴェル。いい名前だね。愛称はエルかな?」
そう言って嬉しそうに微笑んだ。名前を呼ばれただけなのに不思議な親近感が湧く。まるで旧友に話しかけられたような温かさ。
いや、あり得ない。その瞳に見つめられ、左右で色が違って見える瞳孔を観察する間、拒絶という選択肢が頭から消え失せていた。
警戒心を強制的に解除させられたような。
「エルの未来には、無数の分岐が見える。破滅も、繁栄も、静寂も。……だけどね」
今度は、その瞳でエシュを見つめた。
「一緒なら最悪の結末は回避できるかもね? もう縁は結ばれているもの」
革新派の席に向き直り、元いた場所へ駆け上がって行く。
「乱暴はダメだよ。縁が途切れちゃう」
無神論者の集まりであるはずの革新派が、神託を受けた信者のように重く受け止め、項垂れた。血気盛んな改革派の過激派までもが、苦悶の表情で口を閉ざす。
白髪と黒肌、紅い瞳孔を持つ同族だけが入室を許可される議場へ、唐突に現れた二人。
どちらも異様な存在感を放っているが、ジヴは肌の色が淡く、頬や指先に赤みが見える。間近で見たセデルは、初老と呼ばれる年齢の異種族に見受けられるシワを顔に刻んでいた。
静まり返った議場で、レナが勝ち誇ったように羽根扇を広げた。
「……ふふ。どうやら、両派の『切り札』たちも、私の見解を支持してくれたようですわね。過去を見透かす『断罪者』が器の素質を認め、未来を視る『導き手』が共存を支持した。これ以上の証明が必要ですか?」
勝利を確信した笑みで、呆然とする大人たちを見渡す。
「……セデル様の仰せとあらば疑いようもない」
重い沈黙の後、長老が石柱のような指をカツンと打ち鳴らし、告げた。
「ラヴァンケスの娘が連れて来た『依代』の管理は、ラヴァンケス家に一任する。ただし、定期的な報告と監視の受け入れを欠かさぬこと。良いな?」
「異議なし」
革新派の代表も、ジヴに袖を引かれるようにして頷いた。
情報量に眩暈を覚えながら、背後の執事に視線を送る。エシュは鉄筆を僕の胸ポケットに戻し、何事もなかったように佇んでいた。
銀色に輝く鉄筆の軸には、斬撃を受け止めた痕跡らしきものが何も残っていない。
耳飾りの長老がこちらへ振り返り、一対の濁った眼球が不気味に光る。
「『神意』を継ぐ者よ。清く正しく修行に励み、精進せよ」
僕は震える膝を抑え、頭を下げた。
こうして僕たちは最大の危機を乗り越え、神がかり的な綱渡りで勝利を得たのだった。
毒杯のような勝利。首の皮一枚で繋がった現状維持。命を繋いだのは僕ではない。この国だ。
僕を守ろうとするな。
あれは、いつまで有効なのだろうか?




