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虚白の観察日誌2  作者: 荒屋朔市
9日目

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25/30

理由

脱走癖アリ、究極の軟体類。


「僕では不適任と判断しました。議会は名家の人間だけが入れる聖域でしょう? 僕は中層の家出人ですよ。肌の色だって……」

「また逃げるのね。ロエル」


 氷のように冷徹な声が刺さった。先程までの柔和な笑みが消え、真剣な表情で僕を見据えている。


「肌の色は問題にならないわ。この国において、神職者は例外なく肌が白いの。その資格を得ただけで、知識を持たない今の貴方でも、保守派は『神の意志』を無視できない」


 初めて耳にする情報だが、構わず反論を続ける。


「僕には演技なんてできません。政治的な交渉やハッタリが必要なら、先生こそ適任でしょう」


 素人が同席すれば、その数だけ危険が増す。レナなら、エシュを制御しながらでも上手く立ち回れるだろう。それが最も合理的だ。


「それも一つの正解だわ。でも、私には実現させたいことがあり過ぎるのよ。国民の窮状を救いたい。派閥を抑え込みたい。破滅へ向かう未来を変えたい。そんな欲望と目的で溢れている」


 そう言いながらテーブルに広げられた地図を一瞥した。


「強い願望に当てられた彼は、どんな変貌を遂げるかしら?」


 自嘲気味に笑う彼女が僕の胸元に手を当てる。心臓の鼓動を確かめるように強く。


「でも、貴方は希望も絶望も通り越して、あるがままに理解しようとする」


 彼女の瞳が、奥底まで見透かすように僕を射抜く。


「特別な能力を独占したいという『欲』がないのでしょう? だから、『独り善がりな破滅にも救済にも傾倒しない者』として顕現した。……彼が貴方の前に現れた理由も、そこにあるはずだわ」


 僕も決して無欲などではない。

 あの時は不幸が重なり、心の底から絶望して何も信じられなくなっていた。願望や意欲を芽生えさせ、自覚するのに必要な一切を摩耗させていただけだ。失うことを恐れ、すべてを手放そうとした時、嘲笑うかのように現れた圧倒的な力。


 だからこそ、引き寄せ合うように出会い、エシュは恐怖と絶望を振り撒く破壊装置となり果てずに済んだ?


 彼女が想像していそうな美しい出会いではない。自暴自棄になった僕は、運命を呪い、国の滅亡さえ望んでいたではないか。


 彼女は執務机を回り込み、僕の正面に立った。


「ロエル。貴方がいてくれたことは、奇跡と呼んでも良いほどの幸運だったと思うわ」


 どんなに理路整然とした説得よりも、そのたった一言で反論する意思が掻き消えていくのを感じた。

 肯定された気がしたのだ。この世界に存在することを許されたような。


「妹を……一人にしないと約束しました」

「屋敷は信頼できる者に警護させるわ」

「人前で喋れません」

「主役は私。ロエルは照明係。私を見ていてくれるだけで良いの」


 大勢の視線が集まる。想像するだけで足が震えそうだ。それでも、僕がやるしかないのなら。

 大きく息を吸い、静かに吐き出す。


「……分かりました」


 ようやくレナは、いつもの華やかな笑みを浮かべた。


「ええ、その意気よ。明日は忙しくなるわ」


 作戦の擦り合わせは完了した。あとは、この決定を妹に伝えておく必要がある。



 書斎を出て自室に戻ると、毛布にくるまった妹が寝息を立てていた。壁際で腕を組んで佇み、寝顔を見守っていたエシュが、視線を僕に寄越す。

 僕の知る「無愛想な大男」に戻っている。そのことに安堵しつつ、妹の肩を揺すった。


「ユラ」


 呼びかけながら肩を優しく揺さぶる。


「……エル?」


 妹は重い瞼を擦りながら上体を起こした。僕の表情を見て察したのか、眠気を我慢して居住まいを正す。


「大事な話がある」


 僕は妹の目を真っ直ぐに見た。


「明日、国の偉い人が集まって話し合うんだ。レナ先生も参加する。それで、僕とエシュにも来てほしいって」

「エルが行くなら私も行く!」


 僕の腕にしがみつき、話を遮った。不安に揺れる瞳が僕を繋ぎ止めようとする。僕は妹の手に触れ、諭すように言った。


「ユラは行けない。議会にはエシュを快く思わない人がたくさんいる。嫌な目で睨んできたり、怒鳴ったり、ヤジを飛ばす大人もいると思う」

「嫌! お屋敷にだって怖い人たちが来た! ここも安全じゃない!」


 妹の言う通りだ。要塞のような屋敷でさえ安全とは言い切れない。それでも陰湿な欲望や悪意に晒されるよりは、ずっとマシだ。

 屋敷には少しずつ打ち解けてきた給仕もいる。レナも警護させると言っていた。


「エルと一緒がいい。置いていかないで!」


 その目から大粒の涙が溢れ、妹は声を上げて泣いた。

 また置き去りにされると思ったのだろう。前例がある以上、どんな言葉も言い訳にしかならない。僕は何も言えず、ただ震える背中を撫で続けた。


 しばらくして妹の嗚咽が止んだ。袖で涙を拭うと、真っ赤になった目で僕を見る。


「……待ってる。エルが毎日書いていた日誌、あれを提出しに行くんでしょ? 名前を書いた紙も。そしたら、この屋敷の皆んなと家族になるのよね?」


 問いを受けて僕は頷く。


「僕らは正式な養子として、この屋敷で暮らせる」

「エシュも一緒?」

「……そうなると思う」


 僕の後ろに隠れてばかりいた妹が、仕事をすると言い出した時も驚かされたけど、知らない間に妹も成長していたのか。


「約束して。夕食の支度をして待ってるから、必ず帰って来て」

「夕食?」

「そう! 明日の夜はロエルの好物、豆のスープを作るの。私も手伝うから温かいうちに帰ってね」


 僕は妹の手を取って、強く握り返した。


「わかった。約束する」


 妹の言葉が胸の奥深くに響いた。帰るべき場所がある。待っていてくれる人がいる。その大切さが少しだけ理解できた気がした。


 壁際に立つエシュが、無言のまま瞼を閉ざす。



 あの時、エシュに出会った頃は、既存の規則に疑問と嫌悪感を抱いていた。だから、どんな既成概念さえも跳ね除け、何色にも染まり得ないと思わせる姿でエシュは現れた。


 どうすれば本来の姿を見ることが叶う?

 目新しい情報や技術の習得に意欲的な素振りさえ、僕の認識や願望が与えた役割なら、本当のエシュは何を望んでるのだろうか?


 


ご主人様の命令を何でも聞く便利道具になり果て、自我は失われる。そんな展開が起こり得るのなら、今の状況にはなっていないが、サンプルは欲しい。

失うものが何もないならば。

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