試着
丸呑みは、お控えください。
9日目の朝、食堂には焼きたてのパンの香りと共に、張り詰めた緊張感が漂っていた。
全員が席に着いたのを見て、レナがカップを置く。
「今日の予定を確認するわ。まずは、衣装合わせ。その後、エシュは着替えて中庭に移動。動作確認を兼ねて着衣状態で模擬戦をしてもらうわ。その間、ロエルと私は最終的な確認をするから、そのつもりで」
エシュは我関せずといった様子で、行儀良くパンを丸呑みしている。
ここに来た当初は、食材の匂いや味を確かめたり、ナイフとフォークの使い方を興味深げに観察していた。でも、最初だけだ。
エシュ本人が食事を必要と感じていないなら、繰り返し付き合わされるテーブルマナー講習に飽きてしまうのも仕方がない。珍しい食材や新メニューが出た時以外、ぼんやりしていることが増えている。
いや、それは僕も同じか。だとすれば僕のせいか?
隣では妹がスープを飲んでいた。屋敷に連れてこられた時と比べれば顔色は悪くないものの、視線が落ち着かない。物音には過剰な反応をする。
食後、別室にて衣装合わせが行われた。
書斎の本棚に隠された衣装部屋で、絢爛豪華なドレスが並ぶ光景を見た妹が息を呑む。
「……すごい」
宝石箱をひっくり返したような色彩の洪水を前に、年相応の輝きが戻った。
「驚いた? 今すぐには用意できないけれど、ユラちゃんの分も後で一緒に選びましょうね」
妹は聞いているのかいないのか、ドレスを見るのに夢中になっていた。
その隙に用意されたのは、あの漆黒の執事服だ。首元を締めるタイ、手首まで覆う手袋、身体のラインに沿うよう仕立てられたベストと上着。結び目と留め具。
着替えを終えたエシュが、不快そうに襟元を引く。強固な厚手の布地と繊細な縫製による締め付け、結び目の過剰さが余計に拘束衣を想起させる。
少し前まで腰布一枚だった男に、着心地など聞くまでもない。
野性味が封じ込められ、冷徹で隙のない『執事』が完成した。服という物理的な枠が、背筋や所作までも矯正しているようだ。スープごとスプーンを丸呑みしていた奴と同一人物だとは到底信じ難い。
「とても素敵よ。衣装ではなく、『執事』という役割を着るの。その服を着ている間、貴方は影であり、剣でもある」
レナはエシュに声をかけた。そして、書記官の服に着替えた僕へ向き直る。
「ロエルはどう? 気に入ってくれたかしら?」
「エル、かっこいい」
小さな声で妹が呟く。
別人に変貌したエシュを見るのは新鮮で、感慨深くもあるが、この心境を他人に話す気にはなれなかった。
その後、当日用の服の上着は微調整のために、裁縫を得意とする給仕に託された。見覚えのない年配女性だったが、レナの古い馴染みなのだろう。
エシュは白シャツとベスト、スラックスという姿になった。
カッチリした服に身を包むと、腕と脚が異様に長く、均整が取れていることに気付かされる。
模擬戦の相手を務めるのはサハルだった。左腕を負傷して二日と経っていないのに、本人が希望したらしい。
「その後の経過は聞いてますか?」
テラスから中庭を見下ろすレナに尋ねた。妹は僕の後ろに隠れ、柵の隙間から覗き込んでいる。
「あの後、しばらく熱と痺れと痒みがあったみたい。でも、食欲はいつも以上ね。安静にするよう勧めたけれど、『鈍った身体を叩き起こすには丁度いい』って」
エシュを相手に準備運動とは……。
それはそれとして、エシュの治療を受けた後に食欲が増すのは、僕にも身に覚えがある。
「始め!」
木剣を握り、向かい合った二人に、使用人が号令をかけた。この声はクワの青年だ。中庭に立つ彼の目は、二人の動きに釘付けになっていた。
エシュは無表情のまま、サハルの先制攻撃と流れるような連撃を躱した。問題は、この後だ。
敵を掴んでは大きく振り上げて叩き付け、力任せに投げ飛ばす。そんな動きをすれば、高価な生地も背中や肩周りから張り裂けてしまう。
変な緊張感を抱えながら僕は黙って見守った。
観戦なんかしても僕には武術の経験がない。それでも、エシュがサハルの動きを真似て、急速に吸収していることは理解できた。
服の可動域限界と繰り返されるサハルのシゴキで、エシュの動きが変化していく。無駄な大振りが消え、最低限の振りで確実な一撃を狙う。
流れるような体捌きでサハルの懐に入り、急所を狙う動きを見せたかと思えば、いつどこで覚えたか知らない手刀をサハルの首筋へ振り下ろす。
寸止めだった。
下手をすれば意識のみならず、命まで刈り取りそうな速度だ。体格に恵まれているだけの素人が、見様見真似でやるのは控えてほしい。
レナは平気なのだろうか? 事故が起きても、元通りに治せると信じているのか?
激しい鼓動と息苦しさを感じているのは僕だけで、エシュは汗一つかいていない。
そもそも代謝機能が違うのだろう。その涼しい顔が、執事としての「完璧さ」をより際立たせていた。対するサハルは相変わらずの不機嫌顔だ。
出会った頃は巨人と呼ぶべき怪物に見えていたが、物理的に俯瞰すれば、平均的な身長のサハルよりも少し高いというだけ。恐怖による認識の歪みか、枠に囚われた影響か……。
「素晴らしいわ。野放図な暴力が洗練された武術になっている。これなら、誰の前に出しても恥ずかしくないわね」
隣でレナが感嘆の息を漏らした。
模擬戦が終わると、号令をかけていた青年がサハルに歩み寄った。
「あの……サハル様! 今の動き、俺にも覚えられますか?」
無謀すぎる。案の定、サハルは鼻を鳴らした。
「あれを一朝一夕で習得できると思うな。もっと筋肉を付けろ。話はそれからだ」
「は、はいっ!」
痩せ型で文学青年な外見をしていた彼は、嬉しそうに庭の掃除用具を取りに走った。その向上心といい、睨むような目つきを向けられても動じない胆力。逞しすぎる。
共通点を見つけて密かに仲間認定していたけど、気のせいでした。(心の壁が分厚く補強される音)




