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虚白の観察日誌2  作者: 荒屋朔市
エシュ視点2

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深夜徘徊2

この人、変なんです!

朝っぱらから深夜徘徊しているんです!


 ロエルの呼吸が深く緩やかになったのを確認して、エシュと名付けられた男は立ち上がった。


 彼にとって、閉ざされた静寂は心地良いと同時に《声》以外の情報が遮断された状態でもある。

 男は音を立てないよう扉の隙間から廊下へと滑り出す。其の際、衣擦れの音と共に抜け殻が部屋の内側へ落ちた。気にも留めず、中身だけが先へ進む。


 深夜から朝方にかけて屋敷は静寂に包まれているが、完全に眠ってはいない。活動を続ける人間の《声》と物音が伝わってくる。



 移動中、白髪混じりの男が全身を強張らせ、脇に抱えた本を落としそうになりながら立ち止まった。農具を構えて咆哮していた個体だ。

 彼は廊下に佇むそれを凝視していた。頭から爪先まで泥を被った立つ人影、或いは、輪郭が溶け出した蝋人形。顔にあるべきものさえ判然としない不定形のナニカ。

 怯える使用人に構わず、男は通り過ぎようと踏み出す。だが、面倒な問題が発生した。認識に捕らわれた足が、まるで泥沼に囚われたかのように重い。

 一方で、襲い掛かって来ないのが分かると、彼は人影の正体に思考を巡らせ始めた。ゆらりと動く様に身を引きつつ、足元に泥の痕跡がないことに気付いて首をひねる。

 敵ではない大柄な人物。彼の中に、数日前にロエルから聞いていた「赤髪の大男」という情報が浮かぶ。その認識が呼び水となった。


「もしかして、アナタがエシュ……さん?」


 其の一瞬、泥のように揺らぐ顔の中に、煌めく琥珀色の瞳孔が見出される。彼は慌てて仕事着をまさぐった。


「……失礼でなければ、これを!」


 彼がポケットから取り出し、広げたのは仕事用の前掛けであった。男は彼の《声》へ意識を寄せ、意図を探り当てる。

 全身泥だらけの男に、手ぬぐい代わりの道具を寄越そうと考えたようだ。少し事情は違うが、布を受け取った。


「失礼します!」


 腰の高さ辺りで前掛けの帯紐を撚り合わせていると、意図を理解した使用人が泥人形の太い指から、紐を奪い取った。素早く相手の腰に巻き付け、背後でギュッと結ぶ。

 次の瞬間、輪郭が繋ぎ止められるような感覚が起こった。拡散しようとしていたものが、枠と楔に押し込められ、急速に凝固していく。

 顔を上げた使用人が見たものは、屋敷を襲撃から守り抜いた戦士であり、彫像のように整った顔立ちの男であった。


「……やっぱりエシュさんでしたね。昨夜は有難うございました。エシュさんも眠れないんですか?」


 使用人は、眼の前で何が起きたか理解できてはいない。其れでも、心の内に留めていた一言を伝えられたことに満足して、安堵の息を吐いた。

 対して形を取り戻した男は、使用人が脇に抱える棒術の教本を一瞥し、其の場を後にした。



 廊下の突き当たり、厨房から明かりと蒸気が漏れている。中では給仕が夜食の後片付けをしていた。掃除道具を武器にして屋敷の防衛に務め、サハルに突き飛ばされた給仕の《声》が響く。


「……サハル様のお加減、良くなったみたい。でも、古傷が多くてビックリしちゃった」

「敵が多い御方なのよ。同僚からも妬まれているし……」

「あの性格では無理もないんじゃない? それにレナ様は高貴な女性だもの。その専属護衛でしょう?」

「ねぇ、先日、サハル様が持ってこられた『珍しい茶葉』を覚えてる?」

「あれ副官の女性からの差し入れなんですってね? 大丈夫かしら?」


 厨房の入り口に立つと、給仕の一人が声をかけてきた。


「あ、キノコ粉の備蓄を食料庫から持って来てもらえない?」


 食器を拭く手を止めず、相手を振り返りもしない。男は給仕が意図した方向へ目を向け、パンと同じ匂いの粉袋を一つ掴み、作業台の横に置く。


「ありがとう。助かりまっ……!?」


 明るい声色で答えた給仕が、振り返るなり表情を強張らせて悲鳴を上げた。


「も、申し訳ありません! お客様に何て失礼なことを……」


 顔を真っ赤にして頭を下げる彼女の《声》は、「恐怖」よりも「焦り」と、前掛けのみを身に着けた男の肉体美に対する「羞恥」で占められていた。此の給仕も含めて屋敷で働く者の多くは、ロエルやレナとは違い、表情が頻繁かつ複雑に変化する。

 観察を終えた男は何も答えずに踵を返した。



 中庭に出ると、湿った苔の匂いがした。

 破壊された石畳や水場は土嚢や板で塞がれ、修復作業は中断されている。

 男は隅にしゃがみ込んだ。泥水を被り、踏み荒らされて光を失い、ぐったりと倒れていた発光キノコに指先で触れる。以前にも増して小さく細い《声》だ。

 元形を保てなくしている原因のみを取り除き、損傷を修正していく。 

 一瞬の後、キノコは泥を弾き飛ばし、瑞々しい張りを取り戻して、再び青白い光を放ち始めた。


「ありがとう」


 凛とした声が響く。振り返ると、あのテラスからレナが見下ろしていた。光を取り戻したキノコを見て、眩しそうに目を細める。


「庭の明るさが戻って、皆んなも喜ぶわ」


 彼女の視線を追い、割れた石や壊れた給水口、栽培されていた菌類を順に見やった。


「いつもとは違う装いね。議会用に誂えさせた服も、気に入ってくれたら嬉しいのだけれど?」


 自室で急ぎの針仕事を任された給仕の存在は、当人の《声》から把握済みだ。男は興味を示さず無言のまま立ち去った。仮眠から目を覚ました彼女は、此れから客間へ向かうようだ。



 部屋に戻ると、扉の隙間から外套の端がはみ出していた。

 寝ている二人を起こさないよう扉を開け、結び目を残したままの外套を拾い上げる。借りていた前掛けの紐を解いた直後に、輪郭が揺らいだ。間を開けず、扉をすり抜けたのと同じ要領で外套へ滑り込む。

 カップへ注がれる液体のように、或いは、空の瓶を満たす気体のように。「ロエルの認識」という枠に収まった男は、筋骨隆々と言い表すに相応しい姿と強度を取り戻す。


 ロエルは未だ眠っていた。寝顔を見下ろし、《声》に意識を向ける。男は壁際で腕を組み、束の間の静寂に身を浸した。

 

 

言い逃れようのない通報案件。


次回、迷宮探偵が事件の真相を追う。

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