密会
忘れた頃にやってくる。
妹と迎える五日目の朝。
屋敷での生活に慣れ始めた妹は、読書にも飽き、他の遊びを探し求めるようになった。
「ねぇ、エル。一緒にお菓子食べよう」
そう言ってペンを握っていない方の僕の腕にしがみつく。
「今、忙しいんだけど……?」
ペンを持ったまま振り返ると、妹は僕の袖を握りしめ、文机の反対側に立つエシュを睨みつけていた。妹の瞳には明確な敵意が灯っている。
「なんで? どうして、エシュはエルと同じ部屋で、私だけ別なの? なんでお喋りもしてくれないの?」
子供特有の独占欲か、あるいは、急激な環境変化に対する混乱と拒絶か。気遣ってやらねばならない時期に、エシュの観察と日誌作成、聞き込み調査に没頭していたのだから、無理もない反応だろう。
妹からすれば、エシュも日誌も、それを課したレナさえ、僕の関心を奪う敵なのだ。分かったところで、今は妹に構う余裕がない。
その時、背後で何かが軋んだ。
微動だにせず様子を見ていたエシュが妹を直視する。いつもの無関心は消え失せ、妹が向けているものと同じ冷たく鋭い排斥が、その瞳に宿っていた。
「……うるさい。喚くな」
低く地を這うような声が、エシュの喉から唸り声を伴って漏れる。妹は息を呑み、竦み上がって僕の背後に隠れた。
「エシュ!?」
僕は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、妹の震える肩を抱き寄せた。
落ち着け。対処を間違えるな。妹を宥めるのが先だ。理解できていても、今にも殴りかかってきそうな大男に無防備な背を向けるのは怖い。
定位置から距離を詰めてきた段階で気付くべきだった。妹の恐怖や拒絶がエシュにどんな影響を及ぼすか。可能性の想定と対策を怠った僕の落ち度だ。
エシュは興味を失ったように視線を逸らし、部屋を出て行った。
扉が閉まった途端に、声を上げて泣き始める妹。その背中を擦り、倒れた椅子を起こした。扉の向こうから、悲鳴や破壊音が聞こえてこないことを祈りながら。
あれはエシュの怒りではない。妹の嫉妬に加え、妹を煩わしく感じる僕の苛立ちも影響していたのだろう。興味を失ったのではなく、僕らの心境が一転したことで混乱が生じ、その不快からエシュは逃げたのだ。
人気のない地下迷宮の端で、僕がエシュに恐怖を向けていた時、エシュは逃げ出さなかった。おそらく、僕の迷いに反応していたのだ。
きっと、レナは僕とエシュの関係が深まることを望んでいるのだろう。愛情や信頼で制御できるなら、物理的な鎖や檻の必要もなく、変な薬に頼るより人道的だ。
責任重大過ぎて圧し潰されそうだ。こんなことなら「古泉」まで逃げ帰って、ひっそりと暮らしたい。
その夜、妹が寝静まった後も、僕は眠れずにいた。エシュは昼間の件以来、部屋に戻らない。また中庭か廊下のどこかで過ごしているのだろう。
深夜、静寂に包まれた屋敷の廊下で、微かな話し声が聞こえた。給仕たちの声ではない。緊迫した男の低い声だ。
僕は寝台から抜け出し、そっと扉を開けた。廊下の突き当たり。レナの書斎の方から声が漏れてくる。
息を潜め、足音を立てないよう壁伝いに近づく。
「……だから言ったんだ!」
焦燥した男の声。サハルだ。治安維持局の彼が、なぜこんな時間に?
「返せだなんて、気安く言ってくれるわね」
対するレナの声は氷のように冷静だ。
「『神降ろし』は大事業だからな。他所へ渡ったままにして置けんのだろう。そっちの進捗は?」
僕が『神の古泉』で見つけた壁画。レナが言っていた建国神話に関わる議論か?
「安定しているけれど、まだ時間が必要ね。引き離した途端に内外から崩れても可怪しくないわ」
サハルのものと思われる大きな溜め息。
「……革新派に至っては、強奪も辞さない構えだ。俺の部下にも新派がいてな。不満をタラタラと聞かせてくれたぜ」
革新派。「迷子の神様」を探す道中で、僕を執拗に追いかけ回し、消そうとした連中だ。
「命は大切にしてほしいものね」
「悠長なこと言ってる場合か? 議会の日まで持たんぞ。両陣営が血眼で探し回っている」
「もう近くまで来ているみたいよ。エシュが『音』を聞いたわ」
レナの声のトーンが少し下がった。
「……チッ。仕事が早えな」
「情報の出所を探りつつ、両派閥の動きを偵察、牽制するのが貴方の仕事。頼りにしてるわ、ハル」
平常心を崩さないレナの柔らかな声が響いた。
「無茶な要求しやがって」
鼻で笑うサハルの疲弊しきった声。
「だが、国と心中する気もない。レナ。もしもの時は、お前だけでも……」
「その時はエシュを連れて逃げるわ。ロエルとユラも一緒に」
「議会当日まで地下迷宮を彷徨う気か? 『白銀姫』のイメージ、ぶっ壊れるな」
「笑い話で済むことを願ってるわ」
「……ああ、そうだな」
深い溜め息と共に椅子が軋む音がした。サハルの足音が扉に近づいてくる。
物陰に隠れようと慌てて振り返った。足がもつれそうになり、息を呑んだ瞬間、背後から伸びてきた手が僕の口を塞いだ。驚く間もなく、強烈な力で廊下の柱の影へと引っ張り込まれる。
扉からサハルが出てきた。玄関ホールへ向け足早に去っていく。重厚な扉が閉まる音を聞き、僕を拘束する大きな手の甲を指先で突いた。
ゆっくり見上げると、暗闇の中で黄金色の瞳が僕を見下ろし、瞬きする。
ずっと二人の話を聞いていたのだろうか。それとも、こんな時間に出歩くのが珍しくて、僕の後をつけて来たのか。
どちらにせよ大きな違いはない。僕の運命が決まる日まで残り五日。その五日間さえ、安全の保証はないのだ。
眠れない夜になりそうな予感。




