カササギ
翔太がはじめて彩の名前を出したのは、四月の終わりだった。
部活の帰り道、駅前の自販機で缶コーヒーを二本買って、一本をぼくに押しつけながら、翔太は「なあ」と言った。翔太が「なあ」と切り出すときは、だいたい何か言いにくいことがある。ぼくはそれを知っていた。もう二年近く隣にいるから。
「同じクラスの、茅野彩って子、知ってるか」
知っていた。図書委員で、昼休みに窓際の席で文庫本を読んでいる子だ。声が静かで、笑うと少し目が細くなる。でも翔太がその名前を出すとは思っていなかったから、一瞬、間が空いた。
「知ってる」
「……どう思う」
「どうって」
「いや、なんか」翔太は缶のプルタブをむしるように引きながら、視線をどこか遠くにやった。
「気になる、というか」
ぼくは少し考えるふりをした。
「翔太、図書委員じゃなかったっけ」
「あ」翔太が振り返った。「そうだ、おれ図書委員だ」
その夜、翔太からメッセージが来た。
『声かけた。ありがとな』
ぼくはスタンプを一個返した。おめでとう、みたいな顔のやつを。画面を閉じて、天井を見た。
よかった、と思った。
本当に、よかった。
五月になって、二人はよく話すようになった。
翔太からの報告は細かかった。
「今日また話した」
「好きな本が同じだった」
「昼休みに声かけたら笑ってくれた」。
ぼくは毎回「いいじゃん」と言った。毎回、本当にそう思っていた。
問題が起きたのは五月の半ばだった。
翔太が珍しく暗い顔で部活に来て、着替えながら「なあ」と言った。
「どうした」
「彩、なんか最近よそよそしい気がする」
詳しく聞くと、図書室で話しかけたら「ごめん、今日ちょっと忙しくて」と言われた、それだけのことだった。でも翔太はそれをずっと引きずっていた。
「嫌われたかな」
「それだけで嫌われたとはならないだろ」
「でも前より返事が短い気がする」
ぼくは少し考えた。彩と同じクラスだから、様子くらいはわかる。
「今週、彩さんのグループ、文化祭の準備でばたばたしてたよ。たぶんそれだけだと思う」
翔太は「そうか」と言って、少し顔が緩んだ。
「じゃあ落ち着いたらまた話しかけてみる」
「うん、そうしなよ」
翔太が「お前がいると安心する」と言ったのはその帰り道だった。
ぼくは「大げさ」と笑った。
六月の雨の日に、翔太は失敗した。
放課後に彩を呼び止めて、傘を一緒に差さないかと言ったらしい。彩は困った顔をして「友達と帰る約束があって」と言って、駆けていった。翔太はそれをぼくに話しながら、「終わったかな」と言った。声が少し掠れていた。
「終わってないよ」
「でも引かれた気がした」
「それは引いたんじゃなくて、本当に約束があったんだろ」
「どうしてわかる」
「わかんないけど」ぼくは言った。「でも翔太がそのあと何もしなかったら、それで終わりになる。もし気まずいなら、次会ったとき普通に話しかければいい。それだけで変わる」
翔太は黙っていた。雨が窓を叩いていた。
「……普通に、か」
「うん」
「難しいな」
「難しくない。翔太はいつも普通に話しかけてるだろ」
翔太は少し笑った。「そうか」と言った。「そうだな」
三日後、翔太から「普通に話せた」とメッセージが来た。スタンプがたくさんついていた。ぼくはまたおめでとうの顔を返して、画面を閉じた。
窓の外はまだ曇っていた。
七月に入って、翔太は祭りのことを言い出した。
「誘うべきか」
「でも早いか」
「いや、祭りくらいなら」
「うーん」
と、部活のあいだも帰り道も昼飯を食いながらも、何日もぶつぶつ言い続けた。ぼくはそのたびに話を聞いた。
「行きたいなら言えばいい」
「でも断られたら」
「断られたらそれから考えればいい」
「お前はいつも簡単に言うな」
「簡単じゃないけど、言わないよりはいい」
翔太はため息をついた。「そうだな」と言った。「言ってみる」
翔太が彩を誘ったのはその翌日で、彩はOKしたと夜に連絡が来た。文字だけのメッセージだったのに、興奮が滲み出ていた。
ぼくは「よかったじゃん」と返した。
それだけ打って、少し止まった。
よかった、と思った。
本当に思った。
だからもう一度「よかったじゃん」と送ろうとして、もう送ったことに気づいてやめた。
祭りの翌日、翔太はぼくに写真を見せた。金魚すくいをしている彩の写真で、浴衣の袖がまくれていて、笑っていた。綺麗だった。翔太が照れながら「告白した」と言った。
「なんて言われた」
「……少し考えさせてって」
翔太は複雑な顔をしていた。ぼくは「それは脈ある」と言った。
「そうか?」
「即断りじゃないなら、ちゃんと考えてくれてるってことだよ」
翔太は「そうだな」と頷いた。いつもそう言う。ぼくが言うと、翔太はいつも「そうだな」と言う。
三日後、翔太から「付き合うことになった」と来た。
今度はスタンプも何もなかった。文字だけだった。たぶん嬉しすぎて、それだけになったのだと思う。
ぼくは「おめでとう」と打った。
送信して、画面を置いた。
部屋が静かだった。夏の夜で、窓の外で虫が鳴いていた。
よかった、と思った。
思おうとした。
八月の終わり、翔太に河川敷に呼ばれた。
彩も来ると聞いていたから、三人で花火でも見るのかと思っていた。でも翔太はぼくが来るなりビールを一本渡して、彩と少し離れた場所に二人で座った。彩が「先に来てたんですか」と言って、ぼくは「少しだけ」と言った。
しばらくして翔太が立ち上がって、ぼくの隣に来た。
「なあ」
またその切り出し方だ、とぼくは思った。
「ありがとな」と翔太は言った。
それだけだった。それだけなのに、声が少し違った。いつもの翔太の声じゃなくて、もっと奥から出てくるような声だった。
「彩と話せたのも、あのとき諦めなかったのも、全部お前がいたからだよ。本当に」
ぼくは空を見た。天の川が出ていた。
「大げさ」
「大げさじゃない」翔太は言った。「お前がいなかったら、おれたぶん彩に声もかけられなかった。ちゃんと言いたかった」
ぼくは水を一口飲んだ。
喉が、少し詰まった気がした。
気のせいだと思った。
「よかったよ、翔太が幸せそうで」
翔太は笑った。「幸せだよ」と言った。「お前のおかげで」
遠くで彩が翔太を呼んだ。翔太は「今行く」と返事をして、ぼくの肩を一度叩いてから立ち上がった。草を踏む音が遠ざかる。
ぼくは仰向けに寝転んだ。
天の川が綺麗だった。
白い帯が、夏の夜空を横切っていた。誰かが筆で一息に引いた傷跡みたいに、静かにそこにある。
遠くで翔太と彩が笑っている。何を話しているかは聞こえない。でも笑い声だけが、川の音に混じって届いてくる。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
理由は考えない。
橋になろうと思ったのは本当だった。カササギが翼を広げて天の川に橋を架けるみたいに、あの二人の間に渡してやれたら、それでよかった。あの恋は綺麗だった。白くて、遠くまで続いていて、見ているだけで少し幸せになれるような恋だった。だから応援した。それだけのことだ。
冷たい風が吹いた。
川面が揺れる音がした。夜気が肌を撫でる。
そうか、とぼくは思った。
昔見た1つの歌を思い出す。こんな夜だったのかもしれない。こんなふうに白くて、こんなふうに冷たい夜。
胸が少し苦しい。
でも、冷たい風が吹いている。もう八月の終わりだ。夜の川沿いは冷える。
だからきっと、そのせいだ。
寒いのだ。今夜は少し冷える。それだけのことだ。
遠くで翔太がぼくを呼んだ。ぼくは手を振り返して、ゆっくり立ち上がった。草の匂いが服についた。
空の向こうでは、今夜も誰かのために橋が架かっている。
カササギは、自分が渡れるとは思っていない。
ぼくは歩いた。
鵠の 渡せる橋に 置く霜の
白きを見れば 夜ぞ更けにける
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
ながながし夜を ひとりかも寝む




