表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/9

カササギ

翔太がはじめて彩の名前を出したのは、四月の終わりだった。


部活の帰り道、駅前の自販機で缶コーヒーを二本買って、一本をぼくに押しつけながら、翔太は「なあ」と言った。翔太が「なあ」と切り出すときは、だいたい何か言いにくいことがある。ぼくはそれを知っていた。もう二年近く隣にいるから。


「同じクラスの、茅野彩って子、知ってるか」


知っていた。図書委員で、昼休みに窓際の席で文庫本を読んでいる子だ。声が静かで、笑うと少し目が細くなる。でも翔太がその名前を出すとは思っていなかったから、一瞬、間が空いた。


「知ってる」


「……どう思う」


「どうって」


「いや、なんか」翔太は缶のプルタブをむしるように引きながら、視線をどこか遠くにやった。


「気になる、というか」


ぼくは少し考えるふりをした。


「翔太、図書委員じゃなかったっけ」


「あ」翔太が振り返った。「そうだ、おれ図書委員だ」


その夜、翔太からメッセージが来た。


『声かけた。ありがとな』


ぼくはスタンプを一個返した。おめでとう、みたいな顔のやつを。画面を閉じて、天井を見た。


 よかった、と思った。


 本当に、よかった。



五月になって、二人はよく話すようになった。


翔太からの報告は細かかった。

「今日また話した」

「好きな本が同じだった」

「昼休みに声かけたら笑ってくれた」。


ぼくは毎回「いいじゃん」と言った。毎回、本当にそう思っていた。


問題が起きたのは五月の半ばだった。


翔太が珍しく暗い顔で部活に来て、着替えながら「なあ」と言った。


「どうした」


「彩、なんか最近よそよそしい気がする」


詳しく聞くと、図書室で話しかけたら「ごめん、今日ちょっと忙しくて」と言われた、それだけのことだった。でも翔太はそれをずっと引きずっていた。


「嫌われたかな」


「それだけで嫌われたとはならないだろ」


「でも前より返事が短い気がする」


ぼくは少し考えた。彩と同じクラスだから、様子くらいはわかる。


「今週、彩さんのグループ、文化祭の準備でばたばたしてたよ。たぶんそれだけだと思う」


翔太は「そうか」と言って、少し顔が緩んだ。


「じゃあ落ち着いたらまた話しかけてみる」


「うん、そうしなよ」


翔太が「お前がいると安心する」と言ったのはその帰り道だった。


ぼくは「大げさ」と笑った。




六月の雨の日に、翔太は失敗した。


放課後に彩を呼び止めて、傘を一緒に差さないかと言ったらしい。彩は困った顔をして「友達と帰る約束があって」と言って、駆けていった。翔太はそれをぼくに話しながら、「終わったかな」と言った。声が少し掠れていた。


「終わってないよ」


「でも引かれた気がした」


「それは引いたんじゃなくて、本当に約束があったんだろ」


「どうしてわかる」


「わかんないけど」ぼくは言った。「でも翔太がそのあと何もしなかったら、それで終わりになる。もし気まずいなら、次会ったとき普通に話しかければいい。それだけで変わる」


翔太は黙っていた。雨が窓を叩いていた。


「……普通に、か」


「うん」


「難しいな」


「難しくない。翔太はいつも普通に話しかけてるだろ」


 翔太は少し笑った。「そうか」と言った。「そうだな」


三日後、翔太から「普通に話せた」とメッセージが来た。スタンプがたくさんついていた。ぼくはまたおめでとうの顔を返して、画面を閉じた。


窓の外はまだ曇っていた。



七月に入って、翔太は祭りのことを言い出した。


「誘うべきか」

「でも早いか」

「いや、祭りくらいなら」

「うーん」

と、部活のあいだも帰り道も昼飯を食いながらも、何日もぶつぶつ言い続けた。ぼくはそのたびに話を聞いた。


「行きたいなら言えばいい」


「でも断られたら」


「断られたらそれから考えればいい」


「お前はいつも簡単に言うな」


「簡単じゃないけど、言わないよりはいい」


翔太はため息をついた。「そうだな」と言った。「言ってみる」


翔太が彩を誘ったのはその翌日で、彩はOKしたと夜に連絡が来た。文字だけのメッセージだったのに、興奮が滲み出ていた。


ぼくは「よかったじゃん」と返した。


それだけ打って、少し止まった。


よかった、と思った。


本当に思った。


だからもう一度「よかったじゃん」と送ろうとして、もう送ったことに気づいてやめた。



祭りの翌日、翔太はぼくに写真を見せた。金魚すくいをしている彩の写真で、浴衣の袖がまくれていて、笑っていた。綺麗だった。翔太が照れながら「告白した」と言った。


「なんて言われた」


「……少し考えさせてって」


翔太は複雑な顔をしていた。ぼくは「それは脈ある」と言った。


「そうか?」


「即断りじゃないなら、ちゃんと考えてくれてるってことだよ」


翔太は「そうだな」と頷いた。いつもそう言う。ぼくが言うと、翔太はいつも「そうだな」と言う。


三日後、翔太から「付き合うことになった」と来た。


今度はスタンプも何もなかった。文字だけだった。たぶん嬉しすぎて、それだけになったのだと思う。


 ぼくは「おめでとう」と打った。


 送信して、画面を置いた。


 部屋が静かだった。夏の夜で、窓の外で虫が鳴いていた。


 よかった、と思った。


 思おうとした。



八月の終わり、翔太に河川敷に呼ばれた。


彩も来ると聞いていたから、三人で花火でも見るのかと思っていた。でも翔太はぼくが来るなりビールを一本渡して、彩と少し離れた場所に二人で座った。彩が「先に来てたんですか」と言って、ぼくは「少しだけ」と言った。


しばらくして翔太が立ち上がって、ぼくの隣に来た。


「なあ」


またその切り出し方だ、とぼくは思った。


「ありがとな」と翔太は言った。


それだけだった。それだけなのに、声が少し違った。いつもの翔太の声じゃなくて、もっと奥から出てくるような声だった。


「彩と話せたのも、あのとき諦めなかったのも、全部お前がいたからだよ。本当に」


ぼくは空を見た。天の川が出ていた。


「大げさ」


「大げさじゃない」翔太は言った。「お前がいなかったら、おれたぶん彩に声もかけられなかった。ちゃんと言いたかった」


 ぼくは水を一口飲んだ。


 喉が、少し詰まった気がした。


 気のせいだと思った。


「よかったよ、翔太が幸せそうで」


翔太は笑った。「幸せだよ」と言った。「お前のおかげで」


遠くで彩が翔太を呼んだ。翔太は「今行く」と返事をして、ぼくの肩を一度叩いてから立ち上がった。草を踏む音が遠ざかる。


 ぼくは仰向けに寝転んだ。


 天の川が綺麗だった。


白い帯が、夏の夜空を横切っていた。誰かが筆で一息に引いた傷跡みたいに、静かにそこにある。


遠くで翔太と彩が笑っている。何を話しているかは聞こえない。でも笑い声だけが、川の音に混じって届いてくる。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 理由は考えない。


橋になろうと思ったのは本当だった。カササギが翼を広げて天の川に橋を架けるみたいに、あの二人の間に渡してやれたら、それでよかった。あの恋は綺麗だった。白くて、遠くまで続いていて、見ているだけで少し幸せになれるような恋だった。だから応援した。それだけのことだ。


 冷たい風が吹いた。


 川面が揺れる音がした。夜気が肌を撫でる。


 そうか、とぼくは思った。


昔見た1つの歌を思い出す。こんな夜だったのかもしれない。こんなふうに白くて、こんなふうに冷たい夜。


 胸が少し苦しい。


でも、冷たい風が吹いている。もう八月の終わりだ。夜の川沿いは冷える。


 だからきっと、そのせいだ。


 寒いのだ。今夜は少し冷える。それだけのことだ。


 遠くで翔太がぼくを呼んだ。ぼくは手を振り返して、ゆっくり立ち上がった。草の匂いが服についた。


空の向こうでは、今夜も誰かのために橋が架かっている。


カササギは、自分が渡れるとは思っていない。


ぼくは歩いた。



鵠の 渡せる橋に 置く霜の

白きを見れば 夜ぞ更けにける


あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の

ながながし夜を ひとりかも寝む

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ