アールズハウス
食堂でヘンローとナクトはまだ朝食を食べていた。
「その女、こんな早く何しに来たんだ。金を受け取るのにそんなに急いでるのか?」
「ナクト、パリアに何か不満でもあるのか…?」
ヘンローの言葉にナクトは内心驚いたが、表情には出さなかった。
「殿下、ああいう女にはあまり関わらないほうがいいです。どうせろくな人物じゃない…」
「彼女はずっとこんな感じだろ。俺が彼女を知った時からそうだった」
ヘンローの言葉にナクトは何も言えず、ただ軽く頷くだけだった。ヘンローは昨夜書いた手紙をナクトに渡した。
「この手紙をロダリ家の屋敷に届けてくれ。確実に届けるんだ」
「分かりました。今すぐ行きます」
立ち上がろうとした瞬間、ヘンローが彼の手を掴み、服を軽く引っ張った。ヘンローはゆっくりとパンを食べ続けた。
「そんなに急ぐな。朝食を食べてからでも遅くない」
「分かりました…」ナクトは仕方なく席に戻り、パンを食べたが、実はもう満腹だった。しかし、ヘンローの性格上、ただ誰かに一緒にいてほしいだけだと分かっていた。ナクトは黙って彼と朝食を共にした。ヘンローが朝食を食べ終えると、ナクトは馬に乗り、手紙をロダリ家の屋敷に届けるため出発した。重要な手紙なので、ヘンローは彼にしか託せなかった。手紙を馬の鞍の革袋に入れ、一人で届けに向かった。鞭を振って馬を走らせ、地面に砂塵を巻き上げた。汗が顔を流れ、陽光が眩しくて目を開けられず、目を細めて道を見た。外套が風に揺れ、ズボンは太ももに張り付き、ブーツは埃だらけになった。日没近くに着き、馬から降りて体の埃を払った。彼はウォクス家の柵の外で数回呼びかけた。すると、年老いた様子で顔に皺があり、髭を生やした男がやってきた。
「私はここの執事です。あなたは?」
「国王の使いで手紙を届けに来ました。重要な手紙なので、ウォクス伯爵に直接お渡ししたい。伯爵に伝えてください」
「分かりました。伯爵にお伝えします。どうぞお入りください」
「ご面倒をおかけします」
執事が柵の門を開け、彼を屋敷に案内した。広大な敷地の庭には、ロダリ家の人物を模した大理石の彫像が並んでいた。
(この家、ほんと自惚れがすごいな…彫像まで家族のものか…しかもずらっと並んでる…)
ナクトは彫像を見ながらそう思ったが、大貴族なら珍しくもない。よくあることだ。
屋敷に着くと、執事は彼に大厅で待つよう伝え、伯爵に知らせに行った。大厅中央には初代ロダリ伯爵の肖像画が掛かり、画中の伯爵は20歳ほどで若々しかったが、カドリ戦役で戦死し、25歳だったという。しばらくすると伯爵が降りてきた。青い髪を指でかき上げ、顔にはそばかすがあり、寝間着を着ていた。今日は外出していないようだ。
「やあ、ナクト様じゃないか。わざわざ届けに来てくれるなんて、ご足労をおかけしましたね」
「いえ、重要な手紙です。陛下は伯爵に確実に届けるよう仰いました」
ナクトは手紙を伯爵に渡し、伯爵はそれを開けて読み、仕舞った後、窓の外を見た。
「ナクト様、外も暗くなってきました。今夜はここで一泊しませんか?」
「そんな恐縮です。伯爵にご迷惑じゃないですか?」
ナクトは遠慮したが、伯爵はそんな反応を予想していたのか、軽く笑った。
「ナクト様、来てくれたこと自体が『迷惑』でしょう?気にすることはない。夜の森の道は危険です。この辺は強盗も多いですからね」
「それは…」
伯爵の言葉にナクトは返答に困った。すると、ピンクのスカートを着た浅い青の長髪の少女が走ってきて、ナクトの手を引っ張り、見上げた。
「お兄ちゃん~うちに遊びに来たの~?」
「アンニー、ダメだよ。こちらはお客さんで、遊びじゃないんだから」
「この子は?」
「すみません、娘です。人が来て興奮したみたいで。今年5歳になったばかりなんです」
ナクトはしゃがみ、アニーの頭を撫で、優しい笑顔を見せた。
「こんにちは、アニー~」
「お兄ちゃん、今夜泊まるの~?」
ナクトは考え、伯爵を見上げて言った。
「では、今夜はお世話になります。ご迷惑をおかけします」
「いいですよ。準備をさせます。夕食もそろそろ出来上がる頃です。食堂へどうぞ」
伯爵は執事に部屋の準備を命じ、執事がナクトを食堂へ案内した。アニーは無邪気に彼の手を握り続けた。食堂には長いテーブルがあり、中央には巨大なクリスタルのシャンデリアが下がり、クリスタルが手の届くほどだった。大貴族らしい富の誇示だ。アニーは笑って彼を見た。
「お兄ちゃん~今夜だけなの~?」
「そうだよ。今日一泊だけだ」
使用人が食事を運んできた。伯爵家の料理は豪華で、焼き孔雀、鰻、羊の肋肉、焼き鶏、果物があった。伯爵夫人も現れ、淡い黄色のロングドレスを着て、緑の宝石の指輪だけをしていた。この華やかな食堂に比べ質素だった。アニーは母の元へ走った。
「伯爵夫人、こんにちは。お邪魔しました」
「いいえ、滅相もない。あなたは大切なお客様です。ヘンロー国王の最も信頼する従者と初対面です。娘がご迷惑をかけませんでしたか?」伯爵夫人は冗談っぽく言った。
「いえ、お嬢さんは本当にかわいいです。将来は立派な後継者になりますよ」
伯爵も食堂に現れ、寝間着から濃緑の正装貴族服に着替え、指には多くの指輪をしていた。
「遅れてすみません。着替えるのに時間がかかりました」
(こんなに着飾って、時間かかるわけだ。貴族って分からないな…うちはこんな派手じゃないけど…)ナクトは心の中で思った。自家も大貴族だが、派手さはない。
食事前の祈りを済ませ、夕食が始まった。食事中は静かで、あまり会話がなかった。それはそれで良かった。ヘンローは食事中に話すのが好きで、夕食が長引くことが多い。ナクトはそれ考えると小さく笑った。伯爵が気づいた。
「ナクト様、面白いことでも?」
「いえ、失礼しました。むせただけです」
「では気をつけてください。鰻は細かい骨が多いですから」
「食後、私の収集室を見ませんか?」
ロダリ家は収集品で有名で、奇妙なものから珍しいものまで揃い、国王の誕生日に贈る品はいつも特別だ。ウォクス一代の収蔵は頂点に達しているが、ナクトは初めてなので興味があった。
「では、ぜひ。伯爵の伝説の収集品を見てみたいです」
「皆が言うほど大したものじゃない。小さなコレクションですよ」
食後少し休み、伯爵夫人がアニーを寝かしつけた。アニーはナクトに「おやすみ」と言った。彼も優しく「おやすみ」と返した。
「ナクト様、いつ結婚して子供を?哈哈」
「いえ、伯爵、私はヘンロー陛下に生涯忠誠を誓いました」
「愛のために裏切るかもよ、哈哈」
伯爵は笑って言ったが、ナクトは冷たく彼を見た。
「ウォクス伯爵、私はヘンロー国王に永遠の忠誠を誓いました。愛は神に捧げました。今は忠誠だけです。絶世の美女でも私の心は揺らぎません」
伯爵はナクトの真剣な姿に驚かず、穏やかに彼を見て、窓の外を眺めた。
「ナクト様、それはまだ愛する人に会ってないだけです。会えば考えが変わります。その感情は胸を満たし、溢れるほどになると苦しみを感じ、忠誠が揺らぎ、そしたら…」
ナクトは拳を握り、強い口調で遮った。
「ありえません!天使の願いでも悪魔の誘惑でも、私はヘンローただ一人に忠誠を!」
「ナクト様、愛と忠誠は別物です。対等でもない。いずれ分かりますよ。…まあ、これ以上は置いて、収集品を見ましょう」
ウォクス伯爵は食堂を出て、ナクトも後を追ったが、伯爵の言葉を考え続けた。幼い頃からヘンローに仕え、女性とも接したが、何も感じなかった。彼の人生はヘンローに捧げ、愛は神に捧げた。伯爵の言う「愛」が何なのか分からない。忠誠だけを教えられてきた。
彼には愛は必要ない。
「ナクト様、着きましたよ」
ナクトが我に返ると、収集室の柱は金で覆われ、扉の上には愛の神の幼児が風を吹く像があった。扉を開けると、最初の部屋は彫刻の収集品で、長年集めたものだと分かった。
「伯爵、素晴らしいコレクションですね。鉄器時代の女神像、ランズ国の馬頭彫刻、共和国時代の独裁者石像、すごい数です」ナクトは驚嘆した。ロダリ家の収蔵は宮殿をも超えるかもしれない。
「これくらいは大したことない。次の部屋へ行きましょう」
伯爵は次の部屋の扉を開けた。部屋は繋がっており、歴史的な収集品ばかりだった。豊王の伝説の剣、ディクロスの錬金瓶、前王朝最後の君主リックの腿骨、偽王の宝石。そして中央には精巧な箱に収められた銀貨があった。ナクトは近づいて見た。
「伯爵、この銀幣は?」ナクトは好奇心で銀貨を見た。
「これは伝説の聖櫃の銀貨、聖物です。10枚あり、今は5枚しか所在が分からない。その1枚がここに。銀貨には聖人たちが聖櫃を掲げ、雲上の天の教会へ向かう様子が描かれています。手に入れる前は良いものではなかったけど」
「どういうことですか?」
「この銀貨は手に入れる前、選ばれた者に『試練』を与えると言います。試練を乗り越えると手に入り、無限の幸運を得られる。父がどう手に入れたのかは知りません」
ナクトは銀貨を見ていて、突然胸がざわついた。何だこの感覚?説明できない。この聖物なのに、なぜか奇妙な感じがした。神を信じる彼には馴染まない。直感でこれ以上近づくべきでないと思った。
「伯爵…見終わりました。寝室で休みます」彼は頭を押さえ、具合が悪そうだった。
「ナクト様、体調が悪いのですか?顔色が良くない」
「いえ、大丈夫です…」
「執事に寝室へ案内させます」
「お願いします…」
執事がナクトを部屋に案内し、不穏な感覚は部屋に戻ると消えた。彼はほっとした。聖物とはいえ、もう見ることもないだろう…。服を脱ぎ、風呂にも入らず、ベッドに倒れ、布団をかぶり、裸で眠った。「ヘンロー…」
翌日、陽光がカーテンを通して部屋を照らし、ナクトは目を細めて目覚めた。(寝坊した!)と思ったが、ここは伯爵の屋敷で、ヘンローを起こす必要はない。外を見ると、緑の庭園、小鳥のさえずり、そよ風。帰るのに良い日だ。執事がドアをノックした。
「ナクト様、起きましたか?朝食の用意ができました」
「ご面倒を」
ナクトはベッドから起き、鏡で髪を整え、服を着て襟を直し、食堂へ向かった。食堂ではウォクス伯爵、伯爵夫人、アニーが朝食を食べていた。アニーは彼に駆け寄り、手を引いてテーブルに座らせた。
「お兄ちゃん!なんでこんな遅く起きるの?もう食べ終わりそうよ!お兄ちゃん、ほんと怠け者ね~」
「アニー、そんな失礼なこと言っちゃダメ!」
「うっ、ごめんねお兄ちゃん…」
伯爵夫人がアニーを叱り、アニーは頭を下げて謝ったが、ナクトは笑って彼女の頭を撫で、「大丈夫だよ」と言った。伯爵は見ているだけで何も言わなかった。朝食後、ナクトは帰る準備をした。伯爵とアニーが門で送ってくれた。
「お兄ちゃん、行くの?遊んでくれなかったね」
「そうだよ、お兄ちゃん行くんだ」ナクトはしゃがみ、アニーの頭を撫でて言った。
「じゃあ次はお兄ちゃん来て遊んでね~絶対だよ~」
「うん、約束だ~」
「では、またお越しください、ナクト様。この密書を陛下に渡してください。あと、うちの赤ワインです。陛下に味わっていただいてください」
ウォクス伯爵は蝋で封じた手紙を渡し、ロダリ家の紋章が押してあった。さらに年季の入った上質な赤ワイン2本もくれた。
「分かりました」
外の柵の門は開き、執事が馬を門まで牽いてきた。遠くまで歩かず済んだ。ナクトは赤ワインと密書を馬の左右の革袋に入れ、馬に乗り、鞭を振ってロダリ家の屋敷を後にし、最も慣れた城へ向かった――
ナクトが城に戻ると、2人の女中が荷物を受け取りに来て、ヘンローの様子を尋ねた。
「ナクト様、お疲れ様でした」
「まあまあ。陛下は戻りましたか?」
「陛下は宮殿からまだお戻りになってません」




