虚無の忠僕⑵
ヒグは、将軍の傍らに仕えてすでに九年。 黒袍軍随一の剣士の一人と称され、カトにわずかに及ばない程度の強者だ。 だが反撃の速さは異常で、カトですら時折たじろぐ。 子爵家の孫という生まれも当然の話である。
ただ、彼にも時折「読み違い」はある。 たとえば、目の前にいるこの「愚かな下僕」がどれほど恐ろしい存在か、まるで感じ取れていないことだ。
見た目も反応も、ロは極めて穏やかな人物に見える。 親しい将帥たちでさえそう評するほどだ。 ……ただし、それが「敵でない場合」に限りの話」だが。
「お前の名はロ、だったな。俺はヒグ・ヴェステン。ヒグでいい。 敬意を表して名乗っておくが、この名は一生忘れられなくなる。 なぜなら、俺がお前を倒すからだ」
「感謝いたします、ヒグ様。 このような取るに足らない下僕に、わざわざ尊名を賜るとは恐縮でございます。 ただ、申し訳ございません。私めはフルネームをお伝えできかねます。どうかご容赦を」
ロの物腰はまるで、ヒグを敵とは思っていないかのようだった。 あくまで敬意ある貴族の客に対するような、穏やかで柔らかな口調。 将帥たちが恐怖に震えるような様子は微塵もない。
「怖くないのか? 俺に勝てるとでも思っているのか? その余裕ぶった態度……ホブム様と剣を交えるときしか見たことがないぞ」
そのとき、ヒグは背後のホブムの表情に気づいていなかった。 自分と同等、あるいはそれ以上の強者を発見したときのような、 興奮も恐怖もない、ただ冷徹に観察する眼差しでロを見つめていることを。
ヘンリーは前に出て止めようとしたが、カトに制された。
「陛下、あの従者がそこまで覚悟を決めておられる以上、無駄でございます。 それに……ヨハン殿下の側に立ってくれる者がいることを、お喜びでしょう?」
「……カト殿……ええ、どんな結果になろうとも、 彼を助けてくれる者がいるだけで、俺は嬉しいよ」
だがカトは知っていた。 目の前の男はヘンリーでは太刀打ちできない。 ヒグのような強者ですら苦戦するかもしれない。 だがそれはあくまで推測にすぎない。 「感覚」だけで相手の深さを測ることはできない。
「ヒグ様を倒せるかどうかは、私にもわかりません。 ですが、全力を尽くします。 剣の腕は昔ほどではなくなりましたが……殿下のためなら、この命に代えても」
ヨハンは小さく苦笑した。 ロを見ながら、かつてのクレイス邸での光景を思い出す。 なぜあのとき彼は最後に現れたのか。 なのに今は、敵の前に立ち塞がって自分を守ろうとしている。
「では、ロ、始めよう」
「はい、もちろんでございます」
ヒグはロの手にした奇妙な剣を見た。 見たこともない形状だったが、怖気づかいなどしない。 なにしろ自分の剣術に絶対の自信があったからだ。
こんな異形の剣が、剣術の差を埋められるはずがない。 下僕ごときに負けるはずがない。
「稊の刃」の卵形培養槽の中で、胎内の赤子のように生物がゆっくりと蠢いていた。 まるで外へ出ようと、縁を掻きむしるように。
「はっ! さっさと片付けてやる!」
ヒグが一瞬で間合いを詰め、ロの肩を薙いだ。 先ほどのヨハンへの一撃よりも遥かに速い。
だがロは、わずかに身を捻るだけで避けた。 驚きの色も浮かべず、剣すら振るっていない。
(チッ! 軽く避けたつもりか? 甘い!)
立て続けに斬りかかる。 だが、ことごとくかわされる。 まるで全ての動きを先読みされているかのようだった。
その回避の動きは、どこかヨハンが使っていたものに似ていた。 だが、ヨハンよりも遥かに速く、無駄がなかった。
「避けられない。
「避けてばかりいても無駄だ! 時間稼ぎにしかならん!」
「ヒグ様はとてもお強い。……いえ、素晴らしい」
ホブムが眉をひそめた。 ヒグはロに一太刀も浴びせられていない。 剣法を完全に読まれている。
ヒグが再び肩を狙いながら、突然胸元へ突きを混ぜた。 先ほどの連続攻撃の中に紛れ込ませた一撃。
「っ……!」
ロは「稊の刃」をわずかに上げて受け止めた。 いつ剣を構えたのかも見えなかった。 気づいたときには、既にヒグの剣を弾いていた。
「ようやくその廃手を上げたか」
「……」




