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ランクチェス王記  作者: 北川 零
第一章 ヨハン親王
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見知らぬ血縁者⑴

城塞の内部はひっそりと静まり返り、十数名の衛兵が廊下を見回っているだけだった。だが空気には得体の知れない不安が漂い、全員が息を潜めているようだった。

彼らは馴染みの将領たちが戻ってきたのを見て、安堵の表情で声をかけようとした。 それが、彼らの最後の言葉になるとも知らずに。

後ろから、知らない者たちがゆっくりと姿を現す。漆黒の甲冑に身を包んだ者たち。衛兵たちは一瞬、状況を理解できなかった。

黒袍の兵が静かに口を開いた。


「降伏するか?」


その一言が、深く心臓を抉った。目の前にいる馴染みの将領たちが、自分たちをここへ導いた裏切り者だと悟った瞬間、もう誰もが敵だった。

衛兵たちは迷わず槍を突き立てた。敵はわずか十数名、こちらは先ほど合流した者も含めて二十名はいる。どう考えても戦える。

だが、三人の黒袍兵が前に出ただけで、三五回の交錯で二十名の衛兵は全員地面に倒された。息の根は止められていない。ただ、動けぬようにはされただけだ。

さらに奥へ進もうとしたとき、倒れた衛兵の一人が、かすれた声で将領たちに問うた。


「……なぜ……殿下を……裏切った……」


先ほど正義を振りかざしていた将領は、蔑むような視線を投げ、毅然と答えた。


「これは裏切りではない。我々はこれまで悪魔に仕えていただけだ。今こそ改心し、正義の黒袍軍に忠誠を捧ぐ。以前はただジョンに惑わされていたにすぎん」


衛兵は小さく笑った。最後の息を振り絞って。


「へへ……命乞いか……安い命だ……」


その瞳から光が消えた。戦争に散った、ただの名もなき兵士の一人。それだけのことだった。

だがその一言が、将領の逆鱗に触れた。


「下級兵が生意気な口を……死ね。こんな不服従な輩がいたとは気づかなかった」


黒袍王と黒袍兵たちは将領たちを伴ってさらに進む。ヘンルオとカトはその一部始終を目の当たりにした。ヘンルオの胸中は複雑だった。あの衛兵はただの敵兵にすぎなかったが、その最期の言葉は心に棘のように刺さった。

やがて水晶シャンデリアが吊るされた大広間に辿り着いた。ここを抜ければ上の階へ。階段の先が、ジョンがいる部屋に直結している。

突然、脇から数名の衛兵が飛び出し、抵抗した。やはり容赦なく斬り伏せられた。


「上だな?」


「はい、ホブム様。ジョン殿下は上に」


そのとき、ホブムが右の廊下に目を向けた。

ゆっくりと、一人の人影が現れる。

小柄で、銀白色の甲冑を纏い、少し背を丸め、手にした剣を杖代わりにして歩いてくる。階段の前に立ち止まった。

その姿を、誰もが知っていた。

ヘンルオは思わず駆け寄り、驚愕の表情を隠せなかった。ジョンだった。誰も言葉を発しない。ただ正面のジョンを見つめるだけ。

最初に口を開いたのはホブムだった。


「ほう、こんなに早く出てきたか。素直に捕まるつもりか?……だがその構えを見る限り、従順そうには見えんな」


ジョンはゆっくりと周囲を見渡した。カト、ホブム、将領たち。そして最後、視線をヘンルオに止めた。

兵士たちがジョンに近づこうとしたが、ホブムが腕で制した。


「小国王陛下、今こそお前の出番だ。自分で捕まえると言ったな。だがその前に――お前がこいつを倒さねばならん」


ヘンルオは目の前のジョンを見つめた。一歩を踏み出せない。弟と、このような形で剣を交えるなど、どうしても受け入れられなかった。


ジョンは既に構えを取っている。ヘンルオはまだ迷いの中にいる。

そこへカトが進み出て、静かに告げた。


「陛下、お進みください。これが彼を守ることになります。尊厳も、心も」


ジョン自身も、苛立たしげに声を張り上げた。病弱な体をものともせず、怒りが言葉に乗る。


「クズ兄貴、もう死ぬ時だろ? 死ぬ前に、せめてお前だけは俺が殺す!」


ヘンルオはなおも説得を試みた。なぜここまで自分を憎むのか、命を賭けてでも殺そうとするのか。


「なぜ俺を倒そうとする? 俺たちは刃を向け合う必要はない。お前に何か不満があったのか? 俺が間違ったことをしたのか?」


「無能?確かにそう言ったが、お前は王位についてまだ日が浅い。無能と呼ぶのは早すぎるだろう、ヘンルオ」


「ではなぜだ?」


「……俺は別に、お前を倒して何かを得ようとしたわけじゃないのかもしれない。確かに血は繋がっているが、会ったことなど数えるほどだ。憎いとも言えない。ただ……お前を王にした者たちが憎い。お前はただの無垢な犠牲者で、俺の怒りの捌け口にすぎなかったのかもしれない」


「なら戦う必要はない……父上に取りなしてやることもできる……」


ジョンは冷たく笑った。瞳に宿るのは底知れぬ怨恨。視線の先に対象はヘンルオではなく、遠くに立つ冷酷な石像だった。


「今さら何を言う。もうお前の背後には黒袍の剣が俺に向いている。最初から間違っていた。一死すればすべて終わるはずだった。余計な同情などしなければよかった……可哀想だなんて思わなければ……だがもう、真実などどうでもいい」


「彼」とは誰なのか。ヘンルオはもう一度問い質そうとした。もしかしたらその「彼」が鍵になるかもしれない。


だがジョンはもう問答を許さない。


「クズヘンルオ、お前もあの冷血漢に目をつけられた以上、平凡な人生など送れはしない。雑談は終わりだ。最後に、お前を殺させてもらう」


「……そうか、ジョン。なら俺も、お前をこれ以上好き勝手にはさせない。俺の実力、しっかり見てろ! 弟よ!」


ついに、ヘンルオは一歩を踏み出した。

殺すためではない。 自らの手で、弟を捕らえるために。

そしてあの「彼」こそが、ジョンが唯一残した、柔らかな場所なのかもしれなかった。

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