表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

理想の椅子

作者: 静真礼御

 その青年は物書きを生業としていた。つまり文筆業である。こういうと、まずもって思い浮かぶのは小説かと思うが、小説家なのかというと、そうでもなかった……。

 確かに小説も書いたが、それ以外の文章も書いた。主に新聞や雑誌の記事、珍しい所では舞台の脚本なんかも、依頼があれば何でも書いた。

 そんな彼には一つの夢があった。一度で良いから、天下にヒットするものを書いてみたい、という夢であった。残念ながら、今まで彼が書いたものの中で、ヒットしたものは無かった。そんな訳で、彼は一念発起したのだった。


「良い文章を書くためには、まずは良い環境を整えないとな……」


 こう言うと青年は自分の周りを見回してみた。住居たる安アパートの一室が彼の仕事場だった。そこには、少々ガタの来た古い机、同じくらい古く、やはりガタの来た椅子、その横には資料用の本棚……それが彼の仕事環境の全てだった。

 本棚は、まあ良いとして、部屋と机は……現在の彼の懐具合からして、ちょっと新調は難しいと思われた。なので、まず椅子に目を付けた。

 いや、むしろ椅子というのは、ものを書く環境という点からして、最も大切な要素かも知れないぞ、と彼は思った。


 とにかく善は急げである。彼は街の家具屋へと向かった……。


「いらっしゃいませ。何をお求めですか?」

「椅子を見せてください。事務作業用の…」

「かしこまりました。こちらへどうぞ……」


 ……といって店主に案内された一角には、様々な形、大きさの椅子が並んでいた。青年は尋ねる。


「ちょっと、座ってみてもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ」


 そうして彼は目に付いた椅子に次々に腰を下ろしていった……が、どうした事か、どの椅子も、どうも彼には、しっくり来ないものばかりだった。あまりにも種類がありすぎるからかとも思われたが……結局その日、彼は何も買わずに家具屋を後にした。


「しょうがない……今度、隣街の家具屋に行ってみるとするか……」


 ところが、数日後に訪れた隣街の家具屋でも、これだ!と思える椅子には巡り合えなかったのである。


「こうなったら……とことんまで探してみるか!」


 それからというもの「自分にぴったり合う椅子探し」が彼のライフワークの一つとなった。

 それまでただ漫然と過ごしていた仕事の合間の時間なども、考える事といえば、いつか出会えるであろう、自分にぴったり合う椅子の事になったし、休日ともなれば、彼の住んでいる場所から行く事が出来る、あらゆる家具屋や家具職人の工房へと足を運んだ。


 そのように探し始めてみると、彼は自分でも、こんなに椅子というものにこだわりを持っていたのか、と驚いたものだった。しかし、自分にぴったり合う椅子が、この世界のどこかにあるはずだ、という思いは確かにあった。これぞ自分の腰を落ち着ける居場所だ、と思えるような、そんな椅子が……。



 ー ー ー ー ー



 ……それから何年か経った。彼は今や理想の椅子を求めて国内各所、果ては海外にまで足を運ぶまでになっていた。全ては理想の椅子のためだった。


 それは、どこか恋心に似た感情だったかも知れない。色恋に熱を上げる男が理想の女性を求めるような情熱で、彼は理想の椅子を探し求めていた。

 男という生き物は(いや、女もか)時としてこのように、他人から見れば非合理的としか思えない方向に、ありったけの情熱を発揮してしまうものなのだ。どうしようもない……。


 ところが、そうした熱意と努力にも関わらず、未だに理想の椅子には巡り合えていないのだった。

 いや、むしろ様々な椅子に座ってみた事で、今まで知らなかった座り心地というものもたくさん知ってしまい、それによってまた、その理想というのが、どんどん高まっていってしまったというのも確かな事実である。

 これでは切りが無い。ここに至って、男はとうとう考えを変えた。


「駄目だ……いくら探しても見付からない。こうなったら、もう、いっその事……」


 彼は意を決した。


「……見付からないなら、自分で作ろう!」


 理想の椅子を求める事は、諦めないのだった。


 彼はこれまでに、多くの家具職人の工房を訪ねて知っていた。どの職人も自分なりのポリシーを持って仕事に打ち込んでいた。皆、自分の作る家具によって、お客さんを喜ばせたいと考えている所までは同じなのだが、ある職人は、お客さん一人一人に合わせて、丁寧に注文を聞き、世界に一つだけの、その人のためだけの家具を作る……かと思えば、また別の職人は、とにかく沢山の人々に、安価で一定の品質の家具を届けたいと考え、その最適解を求め続ける……といった具合で、同じ家具職人とはいえ、その仕事に臨む姿勢は、まさに十人十色だった。


 そんな中から彼は、これぞ!という職人を選んで、その門戸を叩いた。これには、その職人の信念や人となりもさる事ながら、その手によって作り出される家具のーー得に椅子のーー特性が、彼の求める理想形に近かったから、という点も大きかった。


 そうして、また何年もの年月が流れた……。



 ー ー ー ー ー



 ……今、彼の目の前には一脚の椅子があった。それこそ長年の努力と研究の末に彼自身が作り上げた「理想の椅子」であった。


 職人に弟子入りし、その技術をものにするまでーーつまり、頭に思い描いた家具を実際その通りに作り上げられるようになるまでーーにも、また随分と年月を要した。当たり前だ。手っ取り早く椅子作りだけ教えてくれという訳にもいかない。まずは下積みから始まって、しばらく修行期間の後、ようやく製作に携わらせてもらえるようになる。その間にも、親方の技術を目で見て学ぶという事も怠らない……。


 その過程の詳しい描写は省くが、ようやく一人前と認められ、暖簾分けという訳でもないが、独立してやっていけると認められた。彼は丁寧に礼を言い、世話になった工房を後にする……。

 もう青年と言える年齢ではなくなっていた。だが彼の胸の内は少年のような希望に燃えていた。やっとだ。これでやっと夢が叶う。さっそく理想の椅子作りに着手するのだ。


 それからがまた大変だった。彼は学んだ事を元に、自分の理想を詰め込んだ椅子を作り上げてみた。ついに出来た。座ってみる…………何か違う、と思った。いや、それは本当に良く出来た椅子であった。しかし、本当に微妙な、何かが足りない……そんな気がした。


「……なら納得いくまで作るのみだ!」


 それから彼は何脚……いや、何十脚という椅子を作り続けた。しかし満足の一脚は出来ない。むしろ極めようとすればするほど改善点が出てくるのだった。ある点を改善すれば、また別の点が不満に思えてくる。


 また、何年もの年月が流れ……。



 ー ー ー ー ー



「……あぁ……」


 ……ある日、彼はとうとう深い溜め息を漏らした。


「……私の人生は、一体何だったんだ……理想の椅子を求める事に青春の全てを費やし、結局いまだ手に入れられていない……」


 頭ではとうの昔に理解していた。どこかで妥協しなければ、永遠に終わらないという事は……。

 彼は机の前に置かれた椅子に腰を下ろした。その椅子は彼自身が生涯最高の傑作と思った椅子であった……が、それでも不満な点はあるものだった。

 机の前は窓で、時刻は深夜に差し掛かろうとしていた。カーテンを閉め忘れた窓の外には丸い大きな月が浮かんでいる。

 彼は、空虚な心持ちで、それをぼうっと眺めていた……。


 どれぐらいそうしていたか……ふと彼は我に返った。

 そして殆ど反射的に、目の前にあったペンを手に取った。


(はて……私は何を書こうとしているのだろう……?)


 彼は自分でも分からなかった。だが、心の奥底から沸き上がってくる何かが、何かを書こうとしていたし、書けるような気がした。

 気付いたら、原稿用紙にタイトルを書いていた……。


『理想の椅子~究極の椅子を求め続けた我が半生の記~』


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ