落語声劇「青菜」
落語声劇「青菜」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約35分
必要演者数:最低3名
(0:0:3)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって、性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
●登場人物
植木屋:裕福なお屋敷に出入りしている植木屋さん。
ご隠居:裕福なお屋敷の主。植木屋さんを雇っている。
隠居奥:ご隠居の奥様。三つ指ついてお出迎え。
植木屋妻:植木屋の妻。ざっくばらんな性格。
辰公:植木屋の友人の大工。
●配役例
植木屋:
ご隠居・辰公:
隠居奥・植木屋妻:
枕:最近の夏はことのほか暑いですね。年々平均気温が上がって来てます
。物価も上がって来てます。税金も公共料金も上がってます。
上がるのは給料所得だけにしてほしいもんですな。
夏の暑さにも我々人間と同じで名前がついてます。
猛暑、酷暑、大暑…ちょいと耳慣れないものだと、激暑、厳暑、炎暑
…どっちにしてもあまり聞きたくない名前ですな。
まあそんな事を言っていじめだと思われて暑さを怒らせてもいけませ
んからそのくらいにしておきましょう。
江戸時代は小さな氷河期、つまり小氷期と呼ばれる時代でもありまし
たが、夏が冷夏ばかりだったかというと決してそうではなかったよう
です。
ドイツのシーボルト、医師にして博物学者で有名な方ですな。
彼が1861年に江戸に滞在していた頃、温度計観測の結果こんな言
葉を残してます。
「七月と八月、江戸湾と江戸および周辺では高温。ときには木陰でも
摂氏約三四・四度まで達することがある。絶えず南と南東の風が吹く
。」だそうです。
現代に匹敵する恐ろしい暑さですね。
勿論、自然の気候変動が大きな原因であったことは言うまでもない事
かと思いますが、その他にも意外な人為的原因があったんだそうで。
さきのシーボルトさんはこう続けてます。
「原因として、この風は地表の空気が、黒くて厚い屋根瓦によって
異常なほど暖められた当然の結果である。この黒い屋根瓦は巨大なる
都市の数マイルにも及ぶ面積を覆っている。」
…。
確かに黒いものは熱を吸収しますが、まさかの原因でしたね。
それに幕末の江戸の人口密度は現代よりも密集していたんだとか。
その人口が日に数度、かまどを使って火を起こして…と考えると、
空恐ろしいものがありますな。
さて、そんな江戸の昔、ある裕福なお屋敷で仕事をしている植木屋が
いまして。
ご隠居:植木屋さん、ご精が出ますな。
植木屋:おっ、どうも旦那ですか!
いやあ、そこで旦那が涼んでらっしゃるのを気づきませんで、
どうも失礼をしました。
ご隠居:貴方がこのところ、毎日毎日うちに来て仕事をしてくださる。
誠に心持ちが良い。
それにまた、貴方が水を撒いて下さると、これがまたとても良い
。
うちの女どもに任せますとね、水たまりばかりこしらえて、
どうも思うように水が行きわたらない。
貴方が水を撒くと、まるで夕立が過ぎた後のように
庭じゅうくまなく行きわたる。
青い葉から雫が落ちて、そこを通してくる風は涼しいですな。
植木屋:いえいえそんな!
あっしもこうやってお屋敷で仕事させていただいておりますから
涼しさのご相伴にあずかっているようなもので。
うちの家なんて、風が時々しか来ないもんですからしんどいんで
すよ。
何しろ住んでる所が長屋の一番奥の更に突き当たりですから、
たとえ風が吹いたって長屋の羽目に引っ擦り、
板塀越して曲がりくねったあげくにやっと届くんです。
そんなだから風がうちのとこに御免くださいする頃には、
もうすっかり生暖かくなってますからね。
こういう風が吹くようじゃ、今晩あたり化け猫でも出るんじゃね
えかって思うような、そんな風になりますよ。
ご隠居:化け猫が出る風と言うのは面白いですな。
時に植木屋さん、貴方はご酒はお好きですかな?
植木屋:へっ? ご酒ってぇと、酒ですか?
あっしぁ酒ときたらもう、あるってぇとあるだけ呑んじまうんで
すよ。
ご隠居:ほう、何ですかな、そのあるだけ吞むというのは。
植木屋:えぇですからね、一両あったら一両呑んじまう。
二両持ってたら二両吞んじまう。
十文しか無えってなったら、何とか酒屋に無理矢理頼み込んで、
一滴でもいいから売ってもらおうってなるんです。
ご隠居:なるほど…それは本当にお好きなんですな。
実は今、こうやって庭を眺めながら涼んで、一杯やっていたとこ
でね。
植木屋:一杯? あぁそうですかぁ!
するってぇと旦那も酒がよほどお好きな方で?
ご隠居:いやいや、よほど好きと言うほどの事もありませんな。
こんな風情で庭を眺めながら…ちょいと舐めるなどというのは、
乙なもんですからな。
どうです? 私が一口付けただけですが、もし失礼でなかったら
、あとは貴方が片付けて下さらんかな?
植木屋:えっ?
片付けてってぇと、あっしにご馳走して下さるんですか?
いえね、そりゃあ好きですから、勧められて断った事はないんで
すけどね。
それに、今日の分はそろそろ終わろうかなと思っちゃあいたんで
すが、まだ仕事中ですからね。
お断りします、って立派に言ってのけてえんですが、
あっしがいくら言ったって、肚ん中が黙ってねえんですよ。
お断りしますって言った途端に肚ん中から「いただいておきなさ
い」なんて声が聞こえるってェと揉め事の元になりますからね。
ここは素直に頂戴致しやす。
ご隠居:そうですか、そうしてくだすった方が私も嬉しい。
さあさあどうぞこちらへ、遠慮なくお掛けになって、
そのガラスのコップでおあがんなさい。
植木屋:えっ、ガラスのコップ?
これやっぱりガラスのコップでいいんですか?
コップって言うのかな、それとも猪口って言うのかな、
どっちかなって思ったんですが、そうですか。
じゃ、この洒落たので頂戴させていただきます。
ご隠居:それは上方の友人から届いた、柳蔭という酒でね。
植木屋:柳蔭、へぇ…柳蔭ってぇとあれですね、
なんだか幽霊が出て来そうですね。
じゃ、頂戴いたしやす。
【一口飲む】
旦那、これ 直しじゃありませんか?
ご隠居:そうですな、こちらの方では直しと言いますが、
上方では柳蔭と言っております。
植木屋:はぁはぁはぁ、一つの物が所が変わると呼び名が変わるってのは
よくありますね。
難波の葦も伊勢では浜荻なんて言いますが、その口ですね。
へえ…そうですかぁ。
だけど旦那、なんですね。
こういう時にこういうものもなかなか乙なもんですね、これ。
驚きました。
さっぱりしてていいですよ。
【一口飲んでつぶやく】
うめぇや、これ。
それによく冷えてますね。
ご隠居:いやいや、さほど冷えていると言うほどの事もないんだが、
貴方は今まで日向で仕事をしていたので、口の中に熱がある。
それで、そんなものでも冷えて冷たいと感じるのでしょうな。
植木屋:あぁ~なるほど。
そういやそうですね。日向で仕事をしていたから口の中に熱が、
あ、そういやなんだかね、口の中がねばねばねばねばしてますか
らね、ええ。
【一口飲んで】
旦那、これ美味い酒ですよ。こりゃあうめえや。
ご隠居:そうそう、そこに鯉の洗いがあるから、おあがんなさい。
植木屋:へ? 鯉の…?
これ、鯉の洗いですか?
いえさっきからね、なんかあるなって思ってたんですけどね。
面目ねえんですが、あっしはこの年になるまで鯉の洗いってもの
は頂戴したことがねえんですよ。
なにぶん、初めてなんで食い方がよく分からねえんですが、
その、どうするんで?
ご隠居:ああ、そこの味噌に付けていただくんですよ。
植木屋:あ、これに…。
あっしは今まで、鯉ってのは黒いもんだとばかり思ってました。
ずいぶん白くなりましたねこれ。
何でしょうね、これだけ洗うにはずいぶん石鹸を使ったんじゃな
いですかね?
ご隠居:いやいや、洗いと言っても、別に洗濯をしたわけじゃありません
から。
黒いのは皮だけで、身は白いんですよ。
ま、外套のようなものですな。
植木屋:あ、皮ですか!
いやあどうも、知らねえってのはだらしねえもんですな!
鯉のが外套ならウナギは紋付の袴ってやつですかね!
じゃ、頂戴いたしやす。
さっそくこれを、味噌に付けて…
【一切れ食べる】
【三拍】
へぇ…旦那、これシャキシャキしてて美味いもんですねぇ。
ご隠居:いやいや、美味いと言うほどの事もないでしょうが、
それはもうごく淡泊なもので。
植木屋:あ、たんぱくね。
そうですねぇ。
あの、すいませんが旦那、このたんぱくをもう一切れいただ
きたいんですが、よござんすか?
ご隠居:ええ、遠慮なくおあがんなさい。
植木屋:じゃ、頂戴いたしやす。
【もう一切れ食べる】
こらうめえわ。
旦那、これもよく冷えてますね。
ご隠居:ああ、それならご覧なさい。
下に氷がしいてあって、その上に乗っているからですな。
植木屋:えっ、氷ですか!?
ちいと行儀悪いんですが失礼して…あ、ほんとだ!
へえぇ驚きましたねぇ!
自慢じゃねえですが、氷なんてものはひと夏のうちにあっしの
口の中に一度入るか二度入るか分からねえぐれえのもんですよ。
下手するとね、お目にかからねえうちに夏が通り過ぎちまいます
からね。
それがこうやって、ちょいと氷が欲しいなって思った時にスッと
出てくるってのは、いやあ、やっぱりお屋敷ですねえ…さすがだ
なあ。
ぁそうだ、あの…旦那?
その…餓鬼みてえだって笑わねえでもらいてえんですが、どうで
すかね、この氷をひとっかけ、頬張ってみてもよござんすか?
ご隠居:えぇどうぞどうぞ。
植木屋:よござんすか!?
じゃ、その失礼して…
【氷を口に入れる】
!!!
くぉーっ!
くぅーっ!
【慣れない冷たさにしきりに頬や後頭部を叩いている・三拍】
くはぁーっ。
旦那、この氷は冷えてますねぇ!
ご隠居:氷が冷えているというのは面白いですな。
しかし、貴方のようにそうやって出すもの出すもの、
何でも美味しいと言ってもらえると誠に心持ちが良い。
時に植木屋さん、貴方は菜がお好きですかな?
植木屋:えっ?
ご隠居:菜のお浸しはお好きですかな?
植木屋:あぁ! 菜のお浸しって、青菜!
あっしはもう菜とくるってぇと、でぇ好きで!!
ご隠居:?でぇすき?
植木屋:ぇっ、ぁあいや…大好き、で…。
ご隠居:ははは、別に言い直さんでもよろしいが、そうですか。
それではさっそく台所からこちらに取り寄せて…
植木屋:いやいやいや、わざわざ取り寄せてもらわなくたって
あっしは勝手口がわかってますから、ぐるっと回ってね、
向こう行って女中さんからいただきますから!
ご隠居:そんな事をしては酒の味が落ちますよ。
まあちょっとお待ちなさい。いま取り寄せましょう。
【ゆっくり手を二回叩く】
これよ。
【ゆっくり手を二回叩く】
奥や。
隠居奥:【ふすまを開けて三つ指ついて礼】
旦那様、お呼びでございますか?
ご隠居:あぁ奥や、植木屋さんが菜を好きだとおっしゃるから、
かつ節をたっぷりかけてこちらに持ってきてあげなさい。
隠居奥:…旦那様。
ご隠居:?なんだね?
隠居奥:鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官。
ご隠居:!…あぁ、そうか。
じゃあ、義経にしておきなさい。
…植木屋さん、どうもすまん事をした。
勝手ごとが分からんと言うのが男のだらしがないところで、
まだあると思っていた菜がみんなになってしまったそうだ。
まあひとつ、お許しいただきたい。
植木屋:いぃえいえ、許すも許さねえもねえんですよ。
あっしははなっから菜がねえと思いやそれで済むんですから。
それよりもあの、どなたかお客さんがお見えになったようですか
ら、どうぞそちらへおいで下せぇ。
ご隠居:?別に誰も来ませんよ?
植木屋:えっ、でもいま奥さんが…。
ご隠居:?奥は、もう菜がみんなになってしまった、
無くなってしまったと、そう言っただけですが。
植木屋:【しばらくぽかんとして】
……そういう話は出てなかったような気がするんですがねえ。
どなたか、おいでになってるんですよね?
いいんですよ、あっしに気は…使わねえでしょうけども、
遠慮…遠慮もしねえでしょうけども、
どうぞどうぞ、あちらにおいでになって下せぇ。
ご隠居:いえ? 誰も来てませんよ。
植木屋:え、いやだって、先ほど奥様がそうおっしゃってましたよね。
鞍馬さんとか、牛若さんがおいでになったとか。
ご隠居:! あぁあぁ、あれですか。
ははは……まぁ貴方はうちへ出入りされている方だから、
お話してもよろしいでしょう。
あれは私と奥との、隠し言葉というやつで。
仮に来客の折、奥がそういったものは無い、とか、
もう食べてしまった、支度できない、などと言うと私も気まず
い思いをするし、お客様も白けてしまう。
そこで隠し言葉の出番です。
「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官。」
その菜は食べてしまったからもうないと言う事で、その菜を喰ろ
う。
それじゃ仕方がないから止しにしておきなさい、と言う事で、
「義経にしておきなさい。」
つまり、九郎判官義経の洒落で私と奥の隠し言葉というわけです
な。
こうすれば、人様に知れる事もない。
植木屋:はあぁなるほどなぁ…いや驚きましたねえ!
確かにそうすればうちの中の恥が表へ知れねえで済むって話です
よね!
いやぁほんと違うなぁ…。
うちのかかあなんて、家の中でも知らなくてもいいような事を
わざわざ表へ向かって言うんですよ!
さっきの青菜の話じゃありませんけど、かかあに持ってこいって
言ったら大変ですよ。
三日前に買ったつまみ菜がいつまであると思ってんだい!って。
あともう何も言えなくなっちゃうんですからね、あっしは。
しかも朝から晩まで、イワシが冷めちゃうイワシが冷めちゃう、
ってのべつまくなしに言われたら、あっしが朝昼晩とイワシを
食ってんのが長屋じゅうに知れ渡っちゃうじゃありませんか。
いや、そりゃ確かに食ってるから知れたっていいですけど、
わざわざ人に教えるってのはねぇ…。
【一口飲む】
【つぶやく】
鞍馬から牛若丸が…その名を九郎判官、ねぇ…
【酒を注ごうとしてお銚子が空になってることに気づく】
旦那…柳蔭が義経になりました。
ご隠居:ああ、これはとんだ失礼をしましたな。
では、代わりを——
植木屋:【↑の語尾に喰い気味に】
いえいえいえ、別に催促したわけじゃねえんです。
あっしも何か言ってみてえなって思っただけですからね。
これぁ旦那とあっしの隠し言葉ってやつで、へへへ。
もうね、いや、本当に結構です。
じゅうぶんに頂戴いたしましたんで。
また明日早くにうかがいやすから、今日はこれでしめえに致しや
す。
どうも、ご馳走様でした、ありがとうございやした!
【帰り道で独り言】
どうだい、違うねえ…これだもんねぇ…。
鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官。
旦那が義経にしておけ、か…。
お屋敷ってのはねぇ…どっか違うと思ってたけど、そういうとこ
まで違うからねぇ…ほんと。
俺だってよ、そういう事いっぺんぐれぇさぁ…——
植木屋妻:ちょいと、何をぐずぐずぐずぐず言いながら帰って来てんだい
!
イワシが冷めちゃうよ、イワシがさ!!
植木屋:…始まりやがったな、こんちくしょう。
ええ?おうおうおう、イワシを焼くのはいいけどよ、
なんでぇその焼き方は。ちゃんと焼けちゃんと!
頭ぐれぇ取ったらどうだ! ちゃんと頭取って焼けよ!
植木屋妻:贅沢な事言うんじゃないよ。
こういうところに滋養があるんだよ!
カルシウ~~ムってのがあんの、カルシウ~~ムっていうのが
!
こういうところ食べとくと体を壊さないんだよ!
だからごらん。犬は風邪ひかないだろ?
植木屋:こンの野郎…犬と俺を並べる奴があるかよ!
植木屋妻:当たり前だよ、お前さんと犬は一緒にならないよ。
植木屋:そうだろう?
植木屋妻:そうさ、良い犬は高く売れるもの。
植木屋:こンの野郎、隙を見て俺を売る気になってやんな!?
あぶねえ野郎だなこいつは。
それよりもな、俺ぁ今日ぐれえこんなに馬鹿に感心しちまった事
はねえんだ。
いや驚いたよ。
植木屋妻:何言ってんだい。
二言目には感心した感心したって、首かしげて帰って来てさ。
いったい今日は何を感心したってんだい?
植木屋:おう、お屋敷でな、なんだか気が乗らねえからもう仕事を片付け
ちまおうと思ってたところよ、後ろで旦那が涼んでらしたんだな
。
植木屋さん、ご精が出ますね、なんて言われて俺ァ、ドキッとし
て、肚ん中を見透かされちまったかと思っちまったよ。
そしたら旦那が召し上がっていた酒を片付けてくれって飲まして
くれたんだよ。
それじゃあいただきますって飲んだその酒が、柳蔭ってんだ。
柳蔭ったって、幽霊が出てくるような酒じゃねえぞ。
植木屋妻:そんなことお前さんに言われなくたって分かってるよ。
植木屋:お前はそんな事言うけどよ、
何も知らねえから俺がこうやって一つ一つ教えてんだから、
そのたんびにちゃんと覚えろよ。
柳蔭ってのはな、上方での呼び名なんだ。
植木屋妻:知ってるよ、そのくらいの事は。
当たり前じゃないか。
植木屋:~~お前な、どうしてそうやって人の話に、当たり前だぁ、
そんな事分かり切ってるよぅ、としか返さねえんだ。
そんな事ばっかり言ってたら話が先へ進まねえんだよ!
お前ぇいっぺんでもあ、そうなの、とかへえ、そうだねとか
言ったことあるか!?
たとえ分かっててもそういう風に相槌を打つもんだよ!
おめぇは何でも俺の話を聞くと、あったりめえだぁ、
んなこと決まってらぁっ、ってよぅ……!
まぁいいや、んで、その柳蔭はこっちじゃあ直しって——
植木屋妻:【↑の語尾をさえぎるように】
そんな事は分かってるよ。
植木屋:【間髪入れずに】
分かってねえから言ってんだよちゃんと聞け!
それで俺がうめえうめえって呑んでたら、鯉の洗いってのを
ご馳走してくれたんだ。
鯉ったって中身は黒くねえんだ、白ぇんだぞ!
植木屋妻:当たり前じゃないかそんな事は。
黒いのは皮だけだよ。
植木屋:あ、知ってんの…ま、知ってんのならいいけどよ。
んで、んめぇんめぇって食ってたら、俺があんまり喜ぶから
旦那も嬉しくなっちゃったんだろうな。
植木屋さん、菜のお浸しはお好きかな、
って言うから俺ァでぇ好きだって言ったら、すぐに取り寄せてや
ろうってな、
【目の前で両手をすり合わせる】
こうやってよ、
植木屋妻:何やってんだいそれ。
なんか乗り移ったの?
植木屋:乗り移ったんじゃねえよ!
これから手を叩くんだ。
【手をゆっくり二回叩く】
【ご隠居の真似をしているが若干棒読み】
これよ。
【手をゆっくり二回叩く】
【ご隠居の真似をしているが若干棒読み】
奥や。
ってやると、ふすまをスッと開けて隣から奥様がよ、
【三つ指つくが、妻の様子に気づく】
…?
おいっ…おい、こっち見ろよこっちを!
俺が話をしてるってのに、そうやって横向いてたばこ飲み始める
んじゃねえよ!
たまにはちゃんと聞け!
この形を見ろこの形を!
植木屋妻:どの形? あぁその形。
そういう蛙が出ると雨が降るね。
植木屋:ハァ!?
俺ぁ蛙の話をしてるんじゃねえんだ!
こういう形で奥様が三つ指つくんだよ!
【ご隠居奥の真似をして】
旦那様。
【ご隠居の真似をして】
なんだい。
【ご隠居奥の真似をして】
旦那様。
右や左の…じゃなかった、
およびでございますか。
【ご隠居の真似をして】
植木屋さんが菜をお好きだとおっしゃるから、かつ節をたっぷり
かけてお出ししなさい。
【ご隠居奥の真似をして】
旦那様。
【ご隠居の真似をして】
なんだい。
【ご隠居奥の真似をして】
鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官。
てぇと旦那が、
【ご隠居の真似をして】
ほう…じゃ、義経にしておけ。
どうだよおい、これがおめぇに分かるか?
植木屋妻:分かるよそのくらいは。
火傷のまじないだろ?
植木屋:や、火傷のまじない!?
かーっ、おめえなんかそのくらいのもんだよ!
そうじゃねえんだ、いいか?
これはつまり奥様と旦那の隠し言葉ってやつだ。
仮におめぇ、らくらいの折によ——
植木屋妻:え? なんだって?
植木屋:らくらいの折によ——
植木屋妻:雷が落ちんの?
植木屋:客が来るんだよ。
植木屋妻:そりゃ来客だろ。
植木屋:っあぁそうだ来客来客。
来客の折によ、無い、とか食べちゃった、とかお互いに恥をかく
ってもんだ。だから表へ知れないようにってんで隠し言葉の出番
よ。
鞍馬から牛若丸が出でまして、と来て、
その菜を喰ろうとしたが食べちゃってもう無い。
それで、その名を九郎判官。
じゃ、仕方がない、止しにしようってんで、
義経にしておけ、だ。
ええ、どうだい? おめぇにこれだけの事が言えるか?
植木屋妻:言えるよ。
植木屋:言えるぅ!?
じゃ今言ったの覚えたのか?
植木屋妻:覚えたよ。
でもすぐ忘れるね。
植木屋:ぅおぉいおい、忘れちゃいけねえよ!
それよりもおめぇ、覚えたって言ったな?
じゃあちょっと見ろ。
あれァ…大工の辰公だ、長屋の路地戻ってくらァ。
どっかへ出かけてやがったんだな。
いま呼ぶからよ、さっきのやってもらおうじゃねえか。
ちょっとそこの酒持ってこい。
植木屋妻:ええ? 一合しか入ってないよ。
植木屋:いいから早く持ってこいってんだよ!
植木屋妻:はいはい。
植木屋:それからその魚、魚もこっちへ持ってこい。
植木屋妻:魚? このイワシでいいのかい?
植木屋:そうだよ! その塩焼きでいいから持ってこい!
早くしねえと辰公来ちまうだろうが!
植木屋妻:忙しないねぇ…はい。
植木屋:そんでおめぇは次の間に…って次の間ねえんだな、うちは。
しょうがねえ、押し入れに入れ。
植木屋妻:ええ!? やだよぉこのクソ暑いのに押し入れなんて!
植木屋:【↑の語尾をさえぎるように】
いいから! いいからほらッ、入ってろって!!
…よし。
【二拍】
ご精が出ますな!
辰公:ん? おぅ、おめぇか!
今日はずいぶん早ぇじゃねえか!
もう帰って来たのか?
植木屋:…ご精がでますな!
辰公:あ?俺か?
俺ァよぅ、精がでねえんだ。仕事休んじまったもんでよう。
んで、昼寝したら体かったるくなっちまったんで、
湯屋行っていま帰って来たんだ。
植木屋:…~~ご精が出ますな!
辰公:おめぇ、人の話聞いてねえのか!?
今日は精が出ねえんだよ、俺は!
昼寝しちまったんだから。
植木屋:…昼寝にご精が出ますな。
辰公:昼寝に精を出す奴なんかいるわけねえだろ!
【以下、植木屋のご隠居のセリフの真似は、棒読みに近い感じになります
。】
植木屋:あなたが毎日来て水をまいて下さると、庭に水が行きわたって
青いものからしずくが落ちる。
そこを通してくる風などは…すずしいな。
辰公:??なァにを言ってやんでェ。
青いものなんかどこにもありゃしねえじゃねえかよ。
そこにあんのはゴミ溜めだろうが。
植木屋:…~~ゴミ溜めの根元にハッカ油をまいて、
その中をハサミ虫がしっぽを持ち上げてくるくる回っている所を
抜けてくる風などは…すずしいな。
辰公:…おめぇどうかしてんじゃねえか?
涼しかねえよ、くせえだけじゃねえか!
植木屋:……~~あなたは、ご酒はお好きか?
辰公:なんでぇご酒って。酒か?
そりゃ好きだよ、でぇ好きだ。
植木屋:あなたにお酒をごちそうしよう。
辰公:あ? ほんとかぁ?
今までおめぇに集られた事はずいぶんあったけどよ、
おめぇにゴチになるってのは生まれて初めてだよ。
ほんとにいいのか? じゃ、もらうぜ。
植木屋:さあさ、そこにお掛け。
汚れてもかまわん。
辰公:…そりゃ俺が言うセリフだよ!
たまには掃除したらどうなんだよ、ええ?
真っ黒けじゃねえか!
植木屋:そのガラスのコップでおあがり。
辰公:ガラスのコップだぁ?
そんなもん無えじゃねえか。
植木屋:…~~猪口をガラスのコップだと思って、おあがり。
辰公:なんだよおい、変な事言ってやがんな。
じゃあ、もらうぜ。
植木屋:それは、上方の友人から届いた、柳蔭だ。
辰公:柳蔭?
なんだ、こっちで言うとこの直しじゃねえか。
つまんねぇもの呑んでやがんな、おい。
ま、いいや何だってな。
【一口飲む】
? あん? 何だこれ、当たり前の酒じゃねえか。
植木屋:ぁ…でもまあ、それを柳蔭だと思っておあがり。
辰公:いいよ別にそんなもんじゃなくたって。
俺ァまともな酒の方がずっと好きだからよ。
これァなかなかイケるクチだよ、うめぇよこれ。
植木屋:あなたは、今まで日向で働いていたから、口の中に熱がある。
それでそんなものでも、冷たいと感じるのだなぁ。
辰公:【猪口と植木屋の顔をしげしげと見比べて】
別に冷たくねえよ。
日なた水みてえじゃねえか。
生あったけえよ。
植木屋:…~~でもあなたは、今まで日向で働いていたから、
口の中に熱がある。
辰公:いや、俺熱はねえよ。
植木屋:……いや、あなたは口の中に熱がある。
辰公:【↑の語尾に被せるように】
無いってんだよ!
植木屋:…でも、少しはある。
辰公:そりゃ少しはあるよ。
ちょっとは無きゃ死んじまうだろうが。
植木屋:そこに、鯉の洗いがあるから、おあがり。
辰公:鯉の洗い?
贅沢なこった——ってこれ、イワシの塩焼きじゃねえか。
植木屋:…まあでも、それを鯉の洗いだと思って、おあがり。
辰公:何だよ、さっきから変な事言ってやがんな。
まぁいいや。俺ァこのイワシの方がよっぽど好きだやな。
【一口食う】
おっ! おいこのイワシぁうめえぜ!
脂がのってんじゃねえか!
植木屋:いやいや、美味いと言うほどの事でもない。
それはごく、たんぱくなものだ。
辰公:…俺ァ脂が乗ってるって言ってんだろうが!
脂が乗ってて淡泊って、んなことあるかよ!
まぁ何でもいいや、俺ァ美味けりゃ何でもいいんだ。
【一口食う】
植木屋:下に氷がしいてある。
辰公:嘘つきゃがれオイ!
そんなもんありゃしねえじゃねえかよ!
植木屋:時に、植木屋さん。
辰公:止せよおい。
植木屋はおめぇじゃねえか!
俺ァ大工だよ!
植木屋:…~~でもまぁ、今日だけ植木屋におなり。
辰公:やだよ!
何で俺が今日だけ植木屋にならなきゃなんねえんだよ!
植木屋:あなたは、菜のお浸しはお好きか?
辰公:なに?
植木屋:菜のお浸しはお好きか?
辰公:嫌ぇだよ。
植木屋:!…~~あなたは、菜のお浸しはお好きか?
辰公:嫌いだよ。
俺ァ青いものがでぇっ嫌ぇなんだ!
今までいっぺんだって食った事ァねぇんだからよ!
植木屋:【だんだん半泣きに】
…~~あなたは…
菜のお浸しは…お好きか?
辰公:泣くこたねぇだろおい。
嫌いなものは嫌いだよ。
植木屋:【ムッとしている】
そりゃひどいよお前ぇ。
それはいくら何でも無いんじゃねぇの?
今までこっちのお仕着せ飲んだり食ったりしといてよ、
ここへきていきなり寝返りうつってのは、
それはあんまり友達甲斐がねえよ。
たとえ嫌いでも、少しは好きだって言え!
辰公:何だよ、さっきからほんとに変な事ばっかり言いやがって。
しょうがねえな…、好きだよ。
植木屋:【聞いた途端嬉しそうに】
…好き。
ぁそう。
【手を目の前ですり合わせて】
今さっそく取り寄せよう——
辰公:いいよ取り寄せなくたって!
植木屋:【無視して手をゆっくり二回叩く】
【ご隠居の真似をしているが若干棒読み】
これよ。
【手をゆっくり二回叩く】
【ご隠居の真似をしているが若干棒読み】
奥や。
植木屋妻:【乱暴に押入れを開けて這い出すように汗だくで出てくる】
だ、だんなさま…っ…。
辰公:【驚いてのけぞる】
うおおお!?
び、びっくりしたじゃねえか!
何やってんだよお前達ァ!!
さっきからカミさんの姿が見えねえと思ってたらおめぇ、
このクソ暑いさなかに今まで押し入れに入ってたのかよ!?
見ろ、頭から水かぶったみてぇにびっちょりじゃねえか!
植木屋:うるせぇよ、余計な事言わねえで黙って見てろ。
【妻へむけて】
植木屋さんが菜がお好きだと思うから、かつ節をたっぷりかけて
こちらに持ってきておあげ。
植木屋妻:……だんなさま…。
植木屋:なんだ?
植木屋妻:…鞍馬から…牛若丸が出でまして…その名を九郎判官…義経。
植木屋:【つぶやくように】
しまいまで言っちまったよ…。
………弁慶にしておけ。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様(敬称略)
柳家小三治(十代目)
※弁慶にしておけ:立往生の意味を利かせているらしいです。
昔は途方に暮れる、や困る、を意味して立往生と言う
言葉が使われていました。現在は少なくなってます。
上方では人におごられることを【弁慶】というそうで
す。上方落語【舟弁慶】のオチにもなっているとか。