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c-05.(猫なんていない)

「そうだねぇ」部長は笑った。「少なくともわたしは、絶望はしてないよ。人はより良くありたいと願っていると信じている、人はしあわせになりたいと願っていると信じている。それが誰かの望みとぶつかった時、互いに譲り合える社会であって欲しいと願っている。ひとつを受けて、ひとつを譲る。そうすれば、今より少し上位の存在(オーバーロード)に近づける。だからって、しなければならないとなれば窮屈になる。それじゃあ本末転倒よ。努力目標でいいの。世界は未完成なの。だから未来に希望を持てるし、望みを託すこともできるものよ」


 その瞳に迷いは見て取れなかった。もし、少しの照れがあったら青臭いと思ったろう。


「でもね、魔法のみならず、人にとって便利で都合の良いものが、対価なくしてあるはずがない。そうでしょう?」


 少し傲慢にも感じたが、閻魔帳の帳尻合わせとしては正しいように思えた。


「変なもんだねぇ」部長は笑った。「やっぱりね、こっちでもエーテルは()()()よ」


「元素的な何かで?」


「魔法も医術も、人体も宇宙も、エーテルの中にあった時代があって、でも、エーテルでは説明がつかないことが分かって、だからエーテルは役目を終えた。暗黒ダーク物質マター暗黒ダークエネルギーも、それがあると説明がつくから、そう呼んでいるけれども、事象の地平も光も時間も全てを飲み込むブラックホールも、今、人類の分かっていることから逆算したら、矛盾なく説明できる、理解できる、しっくり行く、みたいなこと。だからそれが、──」


「──人間原理?」


「電子はマイナスからプラスに。電流とは真逆だけれども、そういうものって考えたら、一歩進めるから、そういうことにした、って考えたら、もう一歩進めるって思わない?」


   *


 お会計をして(割り勘)お店を出て、駅まで並んで歩いた。人波はいつも通りで、いつも通りの風景だった。


「佐伯さん、──」


 うん? って部長が振り返った。わたしはお箸でおソバをすする真似をした。「よかったら、うち、寄っていきません?」


 口に出すまでは一瞬だったのに、ふたりの間に漂った言葉は永遠に思えた。できることなら漫画のフキダシみたいなセリフが届く前に捕まえて、くしゃくしゃに丸めてコートのポケットの奥の奥に突っ込みたかった(捨て忘れの洟を拭いたティッシュが入ってる)。


「お誘い、ありがとう」


 皆まで聞かずに分かった。恥ずかしくて消えたかった。何もかも消し去りたかった。わたしにはそれができる。


「やめておくね」部長は云った。「猫アレルギーなんだ、わたし」あははって笑って()()()()()()を一掃したかのようだった。だからわたしも笑い返した。


 さようなら、気をつけてね。背中越しに手を振る部長の姿が帰宅の人波に飲まれて消えるまで地下鉄の駅の前で立っていた。


 アレルギー。

 一度だってそんなこと口にしなかったくせに。

 優しい嘘が、やるせなかった。


「あーあ」ソッと呟きながらJRの改札に足を向けた。昔の国鉄はね、オレンジカードって磁気式のプリペイドカード型の乗車券があったんだよ。教えてくれたのは部長だった。たぶんそれもずっと昔のことで、五百万の猿が五百万のタイプライターの前で五百万の時間にキーを叩いて〈リア王〉を書き上げた頃だったろう。磁気カードはテレフォンカードみたいに使えた。テレカは電話代の支払いにも使えた。固定電話は黒くて重たくて、番号はダイヤル式だった。ブラウン管テレビのチャンネルも()()()を握ってカチカチと廻してた。ポケベルは知ってる、高良さん?


 本当に色々と教えて貰ったと思う。わたしの知らない時代、生まれる前の事。わたしがわたしでなかった時間。


   *


 帰宅して玄関の錠を下ろして、靴を脱いだ。コートを脱いで靴下を洗濯カゴに放って、ジャケットをハンガーに吊した。髪をほどいて頭を振った。


 猫なんていないのに。でもミュー(μ)って名付けた卵がある。両手で抱えるほどもある。クッションに乗せて、タオルケットで包んでる。石膏みたいにつるっとしてる。生成りみたいな色してる。竜の卵(パルサー)はすぐ孵る。


 了

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