c-03.(抑止力)
駅前の釜揚げうどんのお店はわたしたちのお気に入りで、開店してから何度かランチに行き、何度か帰りに寄った。席に通され、これが最後になるのだと思い、どうにもしんみりしてしまうが、部長はいつも通りで楽しそうにラミネートのメニューを眺めている。
サイドメニューから、お皿に二本乗った「アナゴの天ぷらシェアしません?」と提案すれば、「カボチャかレンコン、追加していい?」ときたので全部頼むことにして店員さんを呼んだ。部長が肉うどんを頼んだので、わたしは肉玉うどんを選んだ。すると部長は肉とろろに変更した。ふたりとも「温かいので」。
おしぼりで手を拭いていると、部長は神妙な顔をして、「変なキャリアを積ませてごめんね」って謝ったから、「そんなことないです」むしろ感謝してますと立て続けに云えば、ふ、と表情が緩んだから良かった。
「けっこう気に入ってたんですけどね」
「仕事? 起業しないの?」
部長も問いにわたしは「一緒にやってくれます?」
部長は笑った。「買い被り過ぎだって」
「逆に訊きますけど、部長が会社を始めるとしたら、雇ってくれます?」
「もちろん」
「即答ですね」
「もちろん」
「でも、会社を始めるつもりはない?」
「そうねぇ」部長は小首を曲げて、「そうだねぇ」と、視線をどこか遠くに投げた。思案投げ首って感じにも見えたけれども、特に考え無しにも思えた。
「帰ったりしないんですか?」
部長の郷里は北の国だ。うーんと唸って、「どうかなぁ」実家はもう無いしなぁ。「出てくる前より出たあと方が長いから、いまさら雪と寒さに適応できるとは思えない」と、芝居がかって、ブルッと体を震わせ、あははと笑った。
テーブルに熱々のおうどんが並べられた。わたしはほどよく温くなるまで脇にどかして、先にカボチャの天ぷらにお箸を伸ばした。部長はおうどんをふうふうさましてずずっと啜った。ほうっとしあわせそうな息をついて、
「誕生日かぁ」ややもすると憂いを帯びた声だった。「昔のマンガで、『年を取ると自由になる』ってセリフがあってね。それに『いい年の取り方をしたんだ』って返すシーンがあって」
「自由になれました?」
「不便には、なったかなぁ」部長は眼鏡のブリッジを指でくいっと押し上げた。これがないと手元が見えないのよ。そう教えてくれたのはさほど昔でなく、たぶんデロリアンが宙に浮いてヒルバレーに現れた頃だと思う。
「自分で選べること、決められることは増えたろうけど、必ずしもそうでないよね。ご近所とか地域だとか、若い頃に見えなかったものが可視化されて、」
「解像度が上がった」
「なのに、小さな文字が見えなくなる。つくづく人体の耐用年数は四、五〇年で設計されていると思ったわ」
「いい年の取り方って何でしょうね」
「健康かな。体もそうだけど、心も。新しいものが億劫になったり、休日に外に出なくなったり、インプットがないからアウトプットもできない。でも、新しいことを追いかけるばかりも『いい年の取り方』に合うとは思わないかな。ひとつのことを追求し続ける職人気質か、広く浅くの器用貧乏であるか。それは個性と相談ね。でも年齢を重ねることのネガティブさが分かっているから、実年齢より若く見えるが褒め言葉になる。アンチ・エイジングは不可逆に対する抵抗よ」
まあ、そうかもしれない。
「でも、自由になれる部分もあるのは本当。外野があれこれ云うこともない、云われても聞き流せる」
「それは都合よくなるって意味では、」
「知恵だと思うよ、わたしは。やっぱり古いマンガで『年を取ることって臭いものに蓋をするのが上手くなる』ってセリフがあって、どうにもならないことを、そういうものと受け止められる、良く云えば度量が広くなる」
「悪く云えば?」
「興味、関心が薄くなる。かくして〈偏見のコレクション〉は増えていく。やっぱり、頑固者、かしらね。年寄りの偏屈。昔から云われていることは、それなりの理由や根拠があってのことね」
おうどんがほどよく温くなったので、ずるずる啜った。肉玉うどんは味が濃くて、溶いた黄身の甘みに舌が喜んでいた。部長はアナゴの天ぷらを長いまま齧っていた。
「あの結晶ですけど、」わたしはなんとなしに、訊ねていた。
「万物の結晶?」
「結局、なんだったと思います?」
「取り引きが火星ポンド限定ってところがクサイかな」と部長。「業務停止命令を独自に出せるなんて、つくづく強いね、火星は」
「お金持ちになれるチャンスだったのに」
「そうは云っても、火星案件だからねぇ。売り上げにはならなかったねぇ」
「もし、あれの取り引きが天の川銀河円だったら、ボーナスありました?」
「あったかもしれないけれど、どの道、わたしたちの手に余る品だったと思うよ」
「ドライアイスみたい」
「ん?」
「見た目には白くて冷気を漂わせて、神秘的にも見えなくはないけれども、触れたらたちまち火傷する、みたいな」
「あはは」そうだねぇ、凍傷なのに火傷だねぇ、って部長は笑った。「早々に手放して正解よ、あんなものは」
「興味なかったんですか?」
「わたしの見立てなら、あれはパズルの一欠片ね。でも誰が何のためにか分かりゃしないし、完成したら中性子星かくや、みたいなものだったかもしれない。反物質で対消滅か、重力崩壊か、はたまた時間遡行か」
「ブラックホールみたいな?」
「今となっては知りようがないけれども、好奇心は猫をなんたら。例えば核爆弾を作ることになった科学者は、大気中の酸素に引火して地球がまるごと燃えてしまう可能性に思い当たった。幸い地球が燃えることはなかったけれども、その後も実験を繰り返し、世界を何度も破壊するほどの兵器を所有してる。荷が勝つようなものは遠からず祟るよ」
「ああ」わたしは嘆息した。「分かります。なんかそれ。日本の神社ってそれですよね」
「海外にもあるよ、サン・マリノ海外神社」
どこだそれは。
部長は云った。「イタリア北部の小さな国。天照大神を祀ってる」
「地球の裏側でもアマテラス信仰なんて」
「太陽はどこからも見えるからねぇ」と部長は笑う。「なんらおかしくないよねぇ」
「エーテルってどうなんです? あれも同じに思ってます?」
「高良さん、理科の授業で不思議に思わなかった?」
「何を?」
「電気。電流はプラスからマイナスに、電子はマイナスからプラスに」
「そういうものだと習いました」
「わたしはね、あれは子供が体験する最初の〈人間原理〉だと思ったよ」
「ヒトにとって都合の良すぎるって?」
「強制力」部長は云った。「夜に寝て、朝に起きた自分の同一性について疑うことはない。そう考えるのが妥当だから。世界五分前説? シュレティンガーの猫? サイコロを振ったっていいじゃない?」
あれだけ異世界、異空間を行き来したのに、「神を信じるんですか」
すると部長は、片方の眉をちょっと上げて、「竜との契約、忘れたの? ヒトとヒトの契約は法律だったり商習慣だったりするかもだけれども、畏怖や祀りの対象との契約を神との約束と呼ばないのなら、契約の書はただのフィクションになっちゃう。神様もいて悪魔もいて、魔法があった」
レンコンの天ぷらを齧っているわたしを見て、「もしかして魔法に未練あった?」
頷いた。「水や火の魔法があればキャンプとか防災グッズの代りになったかなって。雷系とか回復系も、」
うんうん。「ここでもまったくないわけじゃないけれどもね。火の魔法なら念力発火。異次元人ならポルターガイスト。子供が見たのなら空想の友達」
「UMAは魔物なんです?」
「足の生えたヘビならいたでしょ?」
「ただのトカゲですよぉ」
「ヘビはヘビ、トカゲはトカゲ。でも足の生えたヘビは魔物だった。違いなんてその程度よ」
ちょっと納得いたしかねる。あれはやっぱトカゲでいいと思うのだ。
そんなわたしを見透かしたように部長は微笑み、「真面目だねぇ。これまさに蛇足としか云いようのないことなのに」
思わずわたしは噴き出した。「魔物世界を小噺みたいなオチをつけましたね」
「その程度の認識でいいのよ」部長は云う。「解明のされていない現象を魔法世界の名残と呼ぶのなら、今でもここにも魔法はある。定義や見解の違いかな」
「それでも、魔法世界では医療や技術の発展が止まってましたね?」
「そうなんだけどねぇ」部長はテーブルに片肘を突き、「魔法世界のその後を見てないから想像しかできないけれども、魔法の力が特権階級になって国家や領地が囲われて、中世的なままで止まっちゃう、とは思わないかな」
「文明の妨げにならなくて?」
「そうねぇ……」部長は少し考え、「五〇年代にね、」と続けた。「核の開発は抑止力になると云われ、冷たい戦争、冷戦が始まった。なのに現実には脅しや恫喝に使われる。ホット・ウォー。冷たいなんてことはない。今はまだボタンを押していない、というだけ」