c-02.(日本円がいいです)
「戻りました」スーツ姿の内田くんが姿を現した。「お疲れさま」って部長とふたりで声をかけた。
内田くんは自分のデスクにカバンを置いて(わたしたちと違う島にある)、猫背気味に肩を落として、手にした缶コーヒーのタブを指で弾きながら「ほんとに誰もいないんですね」と、溜め息ひとつ、しんみりした様子で云う。
会社の入っているビルの一階、エントランス脇にダイドーの当たり付き自販機が設置されている。他で買うより安いし、ビルは七階建てである。それなりに人の出入りがあって、それなりに売れているようなので、何度か当てている人を見た(わたしは毎度ハズレた)。
「いい仕事、見つかった?」部長が訊ねる。内田くんは首を振る。
内田くんは朝から直行でハローワークに行っていた。そのあと事務所に顔を出すとても真面目な男の子であり、一年を待たずして会社がなくなってしまう不憫な子でもある。応募した求人ネットもイマイチで芳しくない様子である。
「ハローワークってね」と、部長。「昔は職安って名前だったよ。職業安定所」それから自分の言葉に「あれっ」と驚き、「職安通りって今はなんて呼ぶんだろう」
さあ。「知りません」と、わたし。
「そうだよねぇ」あははって笑う。「昔は職安通りから駅に向かうところに小便横丁なんて飲み屋街もあったんだよ」
俗称にしたって酷い。
「昭和ですねェ」
「昭和だからねェ」
信じられないって顔をした内田くんがいる。平成だって一桁なら世紀の境の前だろうに。
内田くんが最後に残った私物の片づけをしているところで部長が席を外し、もう何もすることがなくなって途方に暮れた目をわたしに向けた頃合いを見計らってか、部長はちょっとふっくらとした長三の茶封筒を片手に持って戻ってきた。「内田くん、内田くん」
呼ばれた内田くんは「はい」
「終わった?」
「はい」それからちょっとだけ逡巡して、「帰っていいですか?」
「もちろん。お疲れさま」
部長は立ち上がった内田くんに封筒を渡し、「三ヶ月分には足りないけれども」
目を丸くする内田くんに、「黙って受け取って。タンスに入れるかして。間違っても銀行に預けないでね」
内田くんはおっかなびっくり封筒を受け取り、「おお……」と嘆息した。わたしの物欲しそうな目に部長は気付いて、メッとばかりに目顔で叱ったので首を竦めた。
部長は内田くんを真っすぐ見つめて、あのね、と切り出した。「業務上知りえたことは、むやみに外で喋っちゃダメだからね」
「守秘義務、ですか?」
「常識の範囲だよ。罰則もなければ犯罪でもないけれども、会社の問題じゃなくて、余所であなたがうまくやっていくためだから」
「口止め料みたいですね」と内田くんが笑ったので、わたしたちも笑った。「そんなことないよ」部長がとりなしたけれども、目は笑っていなかったのは彼も気付いたと思う。
「何かと物入りでしょ? いい仕事、いい会社、いい人に出会えるように祈ってるから」
「ありがとうございます」お世話になりましたと内田くんは体を四十五度に曲げ、会社を出ていった。前途のある若者の背中だった。
「わたしにはないんですか、三ヶ月分」
並んで見送っていた部長に猫被った声で甘えてみた。
「あなたも少しは持ってるじゃない」
「日本円がいいです」
切実に聞こえるように云ったのに、「あはは」って笑って誤魔化された。ちぇっ。まあいいのだ。若者とわたしたちは違う部署で違う業務で、違う世界に住んでいる。願わくば、ずっとそうでありますように。
銀河国交省から営業許可に待ったが掛かった。還付金の充当に充分な火星ポンドが用意できなかった。端的に云えばお金が足りなかった。銀河聴聞のあいだ業務停止となった。けっこう厳しいことは分かっていた。が、火星関連はそれに輪をかけ「厳に厳しい」。
「金星ドルを火星ポンドに両替するのに、相場があんなに動くなんてねぇ」部長は云った。「木星ルピーも影響あるし、そもそも太陽系通貨はどれも信用薄いでしょ。天の川銀河法にも抵触してるから長引くと思うよ。銀河裁判になったら天文単位でしょうね」
眩暈がした。「なんでも銀河ってつければいいみたいな雑な話ですね」それに最後の単位は距離であって時間でない。こちとら吹けば飛ぶような辺境の第三惑星、未開を理由にゴネることもできなくはなかったけれども、そうしなかったのは「閻魔帳の帳尻は合わせておきたいね」部長の口癖で人生観だった。
正しいことと、健全であることは必ずしも一致するとは限らない。でも、「誰も見ていなくても、自分だけは知っている」。
それは、わたしたちがいつどこで何をしても、この時代、この惑星、この国のこの土地に戻ってくるためのよすがのように感じた。
「高良さんも早く帰ればいいのに」
フロアの半分が西日で赤くなっていた。桜の季節が目前にあるとは思えない中で太陽だけは隠れる準備をせっせとしている。
「家にいても何もすることないので」
「猫がいるじゃないの」部長が薄笑いで返したので、「いませんよ」ぷいっと子供じみた対応をしてしまったら、ますます部長は楽しそうにニヤニヤとした。
「明日はどうなるんですか」
「銀河破産管財人でも来るんじゃないかな」
「今日までは出入りが自由ですよね」
「持ち出しもね。差し押さえはないんじゃないかな。どうせ競売にかけたって火星ポンドにちっとも足りない。さて、と。帰れる?」
訊ねられて頷いた。部長の言葉を待っていた。「最後におうどん食べていく?」やっぱりわたしは頷いた。そしてやっぱり部長の言葉を待っていたのだ。
仕事が鈍くさいことを「うどん喰らい」と呼ぶことを教えてくれたのも部長だった。それもだいぶ昔のことでたぶん猿人が壁に手形で絵を描いていた頃だった。
カバンを持って電気を消してドアを閉め、ALSOKの電子錠でロックして会社を出た。ふたりともマグカップを洗って拭って置いてきた。示し合わせたわけでないのに、そうするのが正しいような気がした。ガラス戸の向こうに赤とピンクのカップが並んでた。