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c-01.(散々)

   Conflict 37+07

   (Cats don't become crazy-don't count-don't have emotions.)


高良たからさん、高良さん」


 佐伯さえき部長は二度、名前を呼ぶ。


「お誕生日、おめでとう」


 朝一アサイチの給湯室でインスタントコーヒーをお湯で溶いてる時だった。このあとわたしは水を足す。


 高良さんは猫ちゃんだねぇ、ってこの年上の女性に云われたのはずっと昔のことで、たぶん窓の外を恐竜が歩いているか飛んでいた。


「やめてください」ちょっとキツい口調になってしまって、我ながらしまった、なんて思ったけれども、「まぁ、そうね」って、部長も自分のマグカップをサッと水洗いして、インスタントコーヒーの瓶を傾け、目分量で粉を入れた。


 それが桃の節句。忘れようがあるものか。


 わたしの誕生日を知った部長は「まさに女の子らしい日の生まれでいいね」と、翌日四日の自分の誕生日と比べて小さく拗ねたのがおかしかったけれども、返答には困った。


「いえ、──すいません」


 わたしが謝ると、「いや、そんなことないよ」と、部長はお湯を注いだばかりの熱々のコーヒーを一口飲んで、「あはは」って実に部長らしい愉快な感じで笑った。


 かねてより「からあやまりもしておくものだよ」との部長の言葉は分からないでもないけれども、「これから空謝りします」と聞かされて、「赦します」って気分になるのはちょっと難しい。


 わたしたちは給湯室で立ったまま、それぞれ温々(ぬるぬる)のコーヒーと熱々のコーヒーを飲んだ。無糖ブラック、クリームなし。ふたりとも自前の赤いマグカップを、わたしは両手で包んで、部長は片手で持って。眼鏡を曇らせて。わたしのカップはキットカットの景品なので普通の強いレッドだが、部長のそれはシャア専用なのでコーラルピンクに近い。


「明日は部長のお誕生日じゃないですか」


「そうねぇ」云って、また「あはは」と笑って、「もう定年を数えた方が近いだなんて信じられる?」


 わたしは無言で首を横に振った。


「高良さん、大台だったかな」


「違います」きっぱり云った。


「ごめんなさいな」


 ほら空謝りだ。分かってやってる。


「三十三です」自分でゲロった。


 すると部長は、「ああ」得心したように「燦々(さんさん)ね」


 目をつむって、おおお眩しいっなどと与太を飛ばすから、わたしはライダーキックをかましても赦される気がした。ペガサス流星拳でも北斗神拳でもいい。ジャバウォック、俺に力を寄越せ。


()()だと思いましたよ」


「へええ」部長が感心した。「面白いね」


「ちっとも」


 すると部長は、「うん。まあ。そうね」あはは、って笑う。「手厳しいよ、それ」


「ですかね」わたしは温いコーヒーに口をつける。インスタントって、抜けた味がする。


 今年の初詣で、わたしは地元の神社の境内で転んだ。怪我はなかったのに、ひどく心が傷ついた。何もない所で転ぶなんて。割れた自尊心の欠片を集めてどうにか金継ぎした。


 その話をした時、部長は慰めてくれた。「悪いものを落としたってことだよ」


 そうだろうか。厄年とは、なんともイヤらしいもので前後に一年、前厄と後厄があり、都合三年、厄続きなのである。


「気になるのなら、お払いして貰いなさい」


「効果あるんですか」疑うわたしに部長は「もちろん」躊躇いなく応えた。「心のわだかまりのひとつは消える。悪いことは厄年のせいじゃない。ただ間の悪い巡り合わせくらいに思える」


 そうですかねェ、と、ボヤけば、そうだよォ、と、返された。


「長い付き合いになったねぇ」しみじみと部長が云った。二つ折りのケータイがスマホになった。部長は老眼鏡を使うようになった。高校を出て、その日暮らしをしてた小娘は、バイト先に居着いて三十路を超えた。


 九年。その間にわたしたちはゴブリンが人里に降りてこないようにしたり、オーロラソースの魅力と製法(レシピ)を広め(マヨネーズとケチャップの登場を待たなかった)、オークたちにパンとビールと適度な休暇でピラミッド建造に従事させた。エーテル産業革命に立ち合い、蒸気機関機甲(ロボ)機械メカのぶつかり合う大戦から逃れた。オリハルコンをダマスカス鋼にした槍と盾を手に入れた。銀河パトロール隊と宇宙(コスモ)ガンの撃ち合いをした。夜行団を撃退した。アンドロイドを珪素天界(シリコンズ・ヘヴン)へ見送った。人造人間(ホムンクルス)を閻魔堂に案内した。ピンクのユニコーンにど突かれ、ミートボールパスタに頭を撫でられた。ドラゴンを飼い馴らし、竜に雨と暦と土地の契約をさせた。会社は傾き、若い子から消えた。


 わたしたちの付き合いは長い。婚約者が浮気でどこぞの泥棒猫と消えた時、部長がいた。部長が旦那さんを亡くした時、わたしがいた。部長は今でも旦那さんの写真をデスクに飾っている。その人の年齢にわたしはまたひとつ近づいた(そして部長は明日ひとつ遠ざかる)。


「今夜、行く?」部長はお箸でおソバをすする真似をした。


「猫がいますので」わたしは断わった。


「あはは」部長が笑った。


「抹茶のお塩で食べる天ぷらがいいです」


「奢りだって云った?」


「違うんですか?」


「あはは」部長は笑った。「わたしのお誕生日の前祝いをしてくれるんじゃないの?」


「今日はわたしのお誕生日ですが?」


「だってお誕生日、嫌なんでしょ?」


「グウ」ッて声に出して唸ってみせた。部長は「あはは」と笑った。


 お互いの誕生日が一日違いだと知ったのは知り合った次の年だったと記憶している。「お祝いする?」って訊ねられ、「いいお店」を所望したら部長は自分のブラウスを引っ張り、わたしの姿をジッと見て、「予約が必要でドレスコードのあるお店に行くのはどうかなぁ」と、わりと納得させられる見解をおっしゃったので、だから駅前のサイゼリアのドリンクバーで乾杯した。問屋街の夜のファミレスは程よくのんびりしており、あれはそれで楽しかったが、やっぱりファミレスはファミリー向けなので、帰りにご飯を一緒する時は、駅前の飲食店を廻るようになった。なかでも表通りから一本奥のビルの地階にある釜揚げのおうどん屋さんは、雰囲気もメニューも味も良かった。


 部長とは星座はもちろん、血液型も同じなら誕生石も干支も一緒だった。なので当然、朝の情報番組の占いは同じである。どうにもすぐれない日は(年に数度ある)ふたり並んで席に座って書類仕事か今日みたいにダラダラと過ごしていた(映画に行ったこともある)。


「部長だって明日、大台でしょう?」


「え、」そうだったかな、とか云い出したので、「嘘ですよ」


「ああ、そうか」びっくりしたって笑った。いまいちなボケだなって思った。


とお違いよね?」と部長。


「いいえ」わたしは訂正してやった。「ひと周りです」


「そうなの?」


 そうです。頷いたら「ならそうね」疑うことなく受け入れた。


 年は取るほど無頓着になる、とは嘘だ。真っ向から見たくないからアヤフヤにしておくのだ。


 それからわたしたちはもう一杯、新しくコーヒーを作って、だらだらとデスクに戻って、並んで席に座った。


 誰もいない事務所は休日出勤のようだった。エアコンの暖房はつけていたが、天井のライトの半分は消えていた。電話線は抜かれ、コピー機も静かだった。


「給湯室で()()できるのも今日が最後なんですね」ふと、わたしがこぼすと、「そうね」と部長は、あははと笑った。「朝礼、する?」


 十一時を廻った頃、わたしは会社を出て、散歩がてらに近所の神社に寄った。


 コートを着ても肌寒い。洟をティッシュで拭き、丸めてポケットにねじこんだ。境内から道路に向かって伸びる枝先についた梅の花は、まだこぼれていなかった。


 花びらの周りがほんのり赤いそれを口紅と呼ぶんだよ、って部長が教えてくれたのは、たぶん氷河期でマンモスの毛が凍ってた頃だったと思う。この猫の額みたいな小さな神社は通り過ぎるだけで、わざわざ訪ねたことはなかった。


 もう来ることもあるまい。


 お財布の中を見たら、ちょうど五円玉があったので、お賽銭箱に放って二礼二拍手一礼した。


 そのあとコンビニに行ってサラダとチキンドリアを買って戻った。

 お弁当持参の部長と一緒に早いお昼を会議室でもぐもぐした。本当になんてことのない日だった。


 午後もオフィスチェアに座ってくるくると廻転するくらいしかやることがなかった。「暇ね」と云う部長に、「暇ですね」と応える始末だった。空気が動いたのは十四時になるちょっと前だった。静かなフロアにエレベータが止まる音がして誰かが降りた。

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