036 覚悟
辺りを闇が包んで暫くの後、野営地のテントに再びその男は現れた。
「準備は出来ていますか?」
「……それはこちらの台詞だ。仕掛けとやらは成功したのか?」
「ええ、間もなく発動するかと」
ロバールという不気味な商人は自信あり気に笑った。
しかし、仕掛けが成功したとしてもロバールの怪しい雰囲気から、騎士団長は乗り気にはならなかった。
あまりにも信頼できない態度に、罠の可能性を捨てきれないのだ。
「外へ出てみてください」
促されるままに、少年勇者と騎士団長はテントの外に出た。
変わらず静寂に包まれたままで、生物の気配も無い世界が広がっている。
「何も起きないぞ……」
そう騎士団長が呟いた瞬間、遠方の空が赤く染まった。
「な……何だあれは?赤い魔力の塊!?」
「魔王が巨大化しているっ……!」
距離が離れていても、それが先日戦った魔王であると分かる程に巨大化していた。
身長は優に周りの針葉樹を越えている。
小柄な少女のような姿の時ですら、まるで歯が立たなかった魔王。
それが禍々しいオーラを纏ってしかも巨大化までしているとあっては、普通に闘ったなら勝率など無いに等しいだろう。
「あんな化物と闘える訳がないだろうがっ!!撤退だっ!!」
騎士団長がロバールに向かって吠える。
完全に作戦は失敗の様相を呈していた。
「お待ちください。あれは魔力暴走を起こしているのです。暫くすれば、力を使い果たした魔王は弱体化するはずですので、そこを狙っていただきたい」
ロバールが状況の説明をした事により、若干その場の空気は収まったかのように見えた。
だが、騎士団長は尚のこと、ロバールへの信用度が下がっている。
(魔王の魔力を暴走させるなんて事が一商人ごときに出来る筈がない。こいつは確実に何かを企んでいる。一体何者だ?)
少しでも怪しい動きを見せたら斬りかかれるように、騎士団長は全身の緊張を増した。
しかし、何故かロバールは魔王の方を向いたまま、唖然として固まっていた。
「な、なんだあの魔物は……?」
ロバールの呟きに視線を魔王へと戻すと、そこには魔王と同程度に巨大な白銀色の猿の魔物がいた。
どこから現れた?
あれほどの巨大な魔物が移動していれば、それなりに大きな音が響くはずだ。
それが全く気配も感じさせずに突然あの場に現れるなど、転移でもしなければあり得ない。
大きさだけでもBランクに相当しそうな魔物が、もし転移など使えた日には世界が震撼する。
兵達も慌てるどころか唖然としてしまって、ただその場に立ち尽くしていた。
ふいに猿の魔物は近くにある針葉樹を一本、力任せに折った。
軽々やった動作であるが、その腕力は驚嘆に値する。
更に、まるで知性があるかのように枝を折って槍のようなものを作り始めた。
知性ある魔物ほど恐ろしいものはない。
あれを相手取るにはあまりにも兵力が足りない。
騎士団長がやはり撤退すべきと思った時——勇者が一歩前に踏み出した。
「あれは野放しにしていい魔物じゃない。総員撤退してください。僕が何とかします……」
「……っ!?タケル様、まさか……」
「ええ。『龍化』を使います!」
この少年は純粋すぎる……。
騎士団長はあまりの申し訳なさで目を伏せた。
異世界からの召喚など完全にこちらの都合であるのに、帝国の重鎮は『世界平和』などと嘯いて少年を戦いへ向かわせた。
騎士団長に出来たのは、せめて少年が命を散らせる事がないようにと、戦い方を教える事だけだった。
少年は帝国が期待を寄せる程のスキルを所持していた。
それが『龍化』である。
巨大なドラゴンに変異する事で、一騎当千の戦力と化す。
しかし、一度それを試みた時、周囲は焦土と化した。
幸い命を落とす程の者は出なかったので最悪の事態は避けられたが、少年自身が周りを巻き込む事を良しとしなかった。
それを今使ってでも何とかしようとしている。
確かにあの魔物は脅威だろうが、自我を失うスキルは防衛が完全に本能任せになってしまう、いわば特攻なのだ。
それを今覚悟させてしまった。
そんな少年を見捨てる事などとても出来ない。
「分かりました……。兵は撤退させます。しかし、私はタケル様と共に残ります」
「えっ!?いや、騎士団長は逃げてください。僕はあなたを傷つけたくない」
「心配無用です。自分の身は自分で守れますので」
真剣な眼差しが少年を射貫く。
こくりと頷き、互いに覚悟を受け入れた。
周囲の兵に撤退を命じた事で、俄に周囲は騒然とする。
ロバールの姿はいつの間にか消えていた。
だがもう後戻りは出来ない。
なんの戦果も無く帰れば、それこそ少年は責任を取らされて国の傀儡にされかねない。
魔王の首でなくとも、人類の脅威になる程の魔物を倒した功績があれば、民意を味方に付けられるかも知れない。
この少年を守るためにできる限りの事はしたいと騎士団長は思っていた。
「まだ制御できないので、騎士団長はなるべく離れていてください」
「承知してます。存分に力を奮ってください」
「はいっ!では発動します!『龍化』っ——!!」
膨大なオーラを放ち、少年の皮膚が赤い鱗に包まれる。
鱗が徐々に巨大なドラゴンの形を成していき、まるで苦しむかのようにそれは咆哮した。
その姿を見て、騎士団長は俄に気付く。
——あの猿も人が変化したものかっ!?
ならば魔物でありながら知性のありそうな行動にも合点がいく。
話し合いの可能性もあったのではないか?
だが気付くのが少し遅かった。
ドラゴンの瞳は既に正気を失っていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「まったく運のない小僧よ。
他の世界であればそのスキルは世界を席巻できたであろうに。
この世界には全ての龍を統べるこの我がいる為に、龍と化すれば我が下僕と成り果てる。
自我を失ってそれに気付く事すらできんとは、実に哀れよな……。
あぁ、せめて今の願いだけは叶えてやろうか。
新たな力は世界の均衡を崩しかねん。
……ククッ、もっとも世界の均衡を本当に願っている魔王などいないだろうがな」
魔王が一柱『龍王』は、片手に持つワイングラスを揺らしながら、口の端をつり上げた。
 




