真理の体験
光は、僕の一から十まで何から何まで、レントゲンのように照らし出した。と同時に、僕は自分の何もかもを清められている感覚を覚えた。
光に清められるほどに、僕は意識が清明にクリアに澄んでゆく気がした。そして澄んでゆく意識は、僕という自我を薄めてゆくようだった。
それは、ことばに表せないほど快い感覚だった。
何か快い波動が意識に働きかけてくる。その働きかけで、心が、自分の全体が満たされてゆく。
満ち足りた眠りに落ちてゆく一方で、どこまでも覚醒してゆくよう。
僕が感じているのは、果てしなく善なる何か、完全に信頼できる何かだった。
その何かとの一体感を感じつつ、僕は自分の、余分なものをすべて取り去った原初の魂を呼び覚まされている気がした。
自分の罪もまちがいも浄化されてゆく……
それは本当に安らかな思いだった。
長い長い旅をしてきた旅人が、無条件に憩わされる場所のよう……
自分という個がどこまでも希薄になってゆきながら、存在の喜びを初めて感じられる思い。
自分では知らずに憧れていたものからの、あたたかな招き……
それは、生まれた場所からの呼び声なのかも知れなかった。
僕はそこへいま、回帰しているのだ。
そこには、僕の存在理由も、存在の許しも、何もかもがあった。
それは、他のどこを探してもどこにもないものだった。
そうか、僕はここから生まれたのか……
なんという安らぎだろう。
もしかしたら人は、この状態を天国と呼ぶのかも知れない。
なんの不安も心配もなく、在ることの喜びだけを感じる。
そして、在っても何もなくなってもどちらでもまったくかまわなかった。
ただただ、いまのあるがままにすべてを委ねていればよかった。
善なる意思、ただそれとの疎通の快さに僕のすべてが子どものように喜んでいた。
すべての答えがそのなかにあった。
それを理解しようと努めなくてもよかった。
ただ、それを感じるだけでよかった。
感じることで、真理たちは僕のなかに入り、そっと僕を慰撫した。
そう、真理とは人を安らがせるものだった。
そしてそれを知ることで、人は深い安心感を感じることができるのだった。
人はそれを神意とか天意と呼ぶのだろう。
僕は未だ神の存在を認めなかったが、いま体験している真理を認めずにいられなかった。
僕は、心の目を閉じた。
行き着く場所に来られた。
その充足感に満ち足りていた。
と、僕のまわりに満ちていた光が、流星のように流れ落ちた。