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5.リュート

 


 昔から黄昏の空は好ましかった。昼と夜の狭間の、静かなひと時。

 外に出て、それが誰かわかった時、自分の嗜好を心の底から良かったと思った。カンテラに一瞬照らし出された迷子の顔を、早く安心させてやらねばと思った。 


「はい、どうぞ。ゆっくり、たーんと食べてね」

「ありがとうございます。…あの、」

「はいはい、すみません、も遠慮も禁止よ。食べて食べて!」


 ー正直に言おう。母の反応はある程度想像していたとは言え、頭が痛いと思わざるを得なかった。父を呼びながら嬉々としてバタバタとかけてゆく姿は、完全に乙女のそれだった。一体今年で何歳になったと言うのか。


「母の勢いに押されて、無理はしない方が良い。君にとって良いだけを楽しんでくれれば、こちらも嬉しい」

「はい」


 念のために耳打ちしておく。それでも、彼女は気にして頑張ってしまいそうだ。それに、やはり緊張もしている。馴染みのない異世界の、よその家だ。当たり前だろう。


 結局、彼女は最後まで渋っていたが、彼女への好感度が飛び抜けている母の勢いに抗うのは至難の技と言えた。自分が外にいるのに気づいて出てきたため、少し休ませてやりたい旨を話すなり手をパンと合わせて「じゃあ一緒にお夕食しましょ!」と音符を撒き散らした。それは少し休ませるの範疇を超えてないか、とツッコむ暇もなく、いそいそとUターンする母に彼女もまた呆気に取られていた。さもありなん。こうなった母には敢えて押し流される方が楽だということに、そのうち彼女も気づくだろう。


 彼女は名を、セリー、と言った。



 〜立夏の月夜のチェリーパイと、白樺の葉束〜



 家業柄と言うのもおかしな話だが、食卓に余り物のパンが上るのは日常だ。料理の食材も、全てこの村で手に入るものばかり。田舎とはいえ、経済は通っているから他の土地のものもそれなりに手に入る。母は「はい、猫ちゃんもどうぞ」と別の皿に取り分けて黒猫にも夕食を提供した。仮にも黒猫に猫ちゃんはどうかと思うが、流石にこれくらいで天罰も何もないらしい。むしろ「うむ、苦しゅうない」くらいの雰囲気で彼女より食べそうだ。


 昼間から野菜と豆をくたくたに煮込み続けたポトフは、消化に良いから彼女にも負担は少ないはずだ。少し硬くなったパンを軽く炙り、オリーブオイルとニンニクを振りかけたのに乗せて食べても美味しい。特にダシを取らずとも、野菜と豆の旨みが溶け込んで塩と胡椒だけで十分な味付けだ。この土地の、昔ながらの家庭料理で味も優しい。今夜はこのポトフとパン以外に、いつも厚意で分けてもらっているチーズと羊肉の燻製、母の得意料理のキッシュロレーヌが並んでいる。


「いただきます」


 彼女のほそりとした手が、控えめに取り分けた料理にゆっくりと手をつけてゆく。綺麗な作法だ。すっきりと伸びた背筋を無意識に見つめていると、母と父の温かい眼差しを感じて自分も手をつける。ちなみに彼女の隣に半ば強引に座らされた。否やはないが、ワザとらしくて溜息が出る。


 一般的に女性の食事は男性のそれより時間をかけたものだろうが、彼女はどこか慎重さが伺えた。身体の加減を測っているのだろう。曰く、異世界から渡って来ると、次元越えの影響で身体に少なくない負荷がかかるものらしい。これは彼女ではなく、黒猫の証言だ。

『魔女』は異なる世界からやってくるという噂は聞いていたが、当然のことながら現実味はなかった。当代が人との関わりを絶ってきたせいもあり、実態を知る機会もなかったのだから当然と言えば当然だ。


 食後はチェリーパイを振る舞った。今夜はちょうど立夏の節分で、今年初めて採れたチェリーの実でパイを焼くのがミューゲの風習だ。


「あの、今更なことで本当に申し訳ないんですが…これからも、パンを買いに来て良いですか…?」


 彼女はフォークを取る前に、躊躇いつつも、この世界に来た当初の気持ちや悩んでいることを少し話してくれた。身体が弱くなったこと。自分が村人にどう思われているのか。挨拶回りをするべきだと思うものの、異世界ゆえに何をどう判断すれば良いかわからないでいることー今夜、こうして快く食事に招待されたことも、戸惑いが大きいようだった。


 直後、「もちろん!」と嬉々として彼女の両手をがっちり握って力説する母に驚き、椅子から転げ落ちそうになった彼女には同情を禁じ得ない。


「春の精霊祭の時だったわ。夜、お花と葉っぱ作った冠を小川に流す習わしがあるんだけどね、今年は凄く綺麗な満月だったの!でね、確かにあの時みんなで聴いたのよ、月の玲瓏を!とっても綺麗で不思議な音だったわ…それで振り返ったら、月光が小森に注がれててるじゃない?あぁ、次の子が来たのかなって思ったわ。だからね、そんなに心配しないでちょうだいな。私たち、あなたに逢えるのを楽しみにしてたのよ!」


 だが、今の彼女には何でも良いから、背中を押すものが必要だったのだろう。少々勢いが良すぎるが、そんな母の言葉と笑顔に、緊張が僅かに緩んだのを感じられた。そうして漸く取り分けたチェリーパイを屑まで残さず綺麗に食べて、「ご馳走様でした」と手を合わせた。不思議な仕草を、やはり綺麗だと思った。




「あの…私、言っておかなければ、ならないことが、あって」


 今夜も満月のようだ。白樺の林を抜けた先の、修道院の奥に小森は広がっている。まだ柔らかな枝を選んで、葉を束にして括った。白樺の葉は悪い魔の力から身を守る。立夏の晩、枕元に添えて眠ると良い夢が見られると、これもいつの頃からか信じられている。そう言って渡すと、あっちにも似たような風習がありました、と微笑んでから、すぐに気落ちしたように硬い声音でそう切り出してきた。


「私、その、確かに…苦手、なんです。厚意も、親切も、この人は見返りに何を求めているんだろうとか、私のどこに価値を見出したんだろうとか、真っ先に考えてしまって…」


 続きだと、すぐにわかった。


「失礼だって、このままじゃいけないって、思うんですけど…それで、私は、誰かの好意にこんな風に予防線を張って保身をしないと、安心出来ないような人間で。あなたのことも…どうして私をって、真っ先に疑ってしまって。ごめんなさい、自分のことばかりで。言い訳ばかりで。せっかくの気持ちを…」


 舌打ちした。辛うじて内心に留めたが。もちろん対象は彼女ではなく、自分だ。

 ともすれば、そのまま暗闇の彼方へ離れていってしまいそうな佇まい。身体の前で硬く握り締められている手。義理堅く律儀なことだ。嫌われるかもと思っているなら、打ち明けるのは怖いだろうに。


「なぜ、君が謝るんだ。そうして然るべきだ。君は、異なる世界からわけもわからず突然、こちらに来たんだろう?身を守るべきだ。俺の方こそ、君の状況を顧みず、配慮に欠けてすまない。いきなり好意を告げられて、気持ち悪かっただろう」


 軽率な言動を今更ながらに恥じた。


 異世界。それがどういう感覚なのか、それこそ自分にわかるべくもない。不安も何もかも、彼女にしかわからない。想像しようとするだけ烏滸がましい。少し語られた言葉よりも、それはきっと、もっと深く、底知れないものだ。


 次元の異なる世界に放り出されて、彼女は今、必死に渡り歩こうとしているのだろう。そして、祖父母殿の形見であるという簪を失えば、絶望を覚えるほどに覚束ない。偶々見つけたしがない店と偶々出逢った自分に、安心を貰っていると言った。どれほど心細い心地なのか。そんなところに、異性からの告白など毒でしかないではないか。


「そんな…それこそ、私の状況は、あなたのせいじゃないです。ぽっと出の余所者のことを顧みる義理なんて、ないでしょう?それに、この性格は元々で」

「そうなのかもしれないが、違うんだ。いかにも君を慮ったように言ったが、結局のところ、君に勘違いして欲しくない俺の勝手で告げた。親切な人、で済まされるのが嫌だった」


 そう、あの時。微かに苦笑した彼女が俺を見る瞳は、親切だから、『黒猫が選んだ魔女』だから、と納得して済ませようとしていた。ー冗談じゃないと、衝動的に思った。おかしな話だ、紛らわしい言い方をしてワザと濁していたのは自分だと言うのに。

 裏を返せば、もうそこまで、この想いが募っていたということなのだろう。彼女のためを思えば、前言を撤回すべきなのかもしれない。わかっていて、どうしたってそのための言葉は出てこないのだから呆れる。


「好きなんだ、君が。負担になるかもしれないと、わかっていても」

「…!」


 簪を見つけて、手を伸ばして飛びついてきた。自分にではないのに、あの瞬間、まるで彼女が探し求めていた宝物が自分であったかのような錯覚を、愚かにも覚えた。そんなはずであるわけがないと、理性で理解しているにも関わらず。いつも遠慮がちな手がこちらに向かって我武者羅に、必死に伸ばされて、一瞬でも胸が高鳴った。


「ひとつ、教えて欲しい。今もまだ、俺は君の心の拠り所に、少しはなれているだろうか」


 例え幻滅されていても、引くつもりはなかったがー暗がりでもわかるほど目元を染めたまま、彼女はひとつ、ぎこちなくも頷いてくれた。それにひどく安堵した自分を、ひと月前まで想像出来ただろうか。


「どうして、と言ったな。例えばだが、風景や絵画を見て、理屈ではなく好きだと思ったりするだろう。きっかけは、それに近い。君を見るたびにそれが重なっていって、形になったというべきか…惹かれた理由を、理論立てて証明しろと言われてもわからない、そんな大仰な理由ではない。だから、告げておいて、あまり気負わないで欲しいと言うのもおかしな話だが…俺も初めてのことだから、いきなり振り切った感情を持てているわけではないんだ。今は、まだ」


 そう、今は、まだ。

 既に、風景や絵画に対する純粋で優しい感情ではなくなっていることの自覚はある。でなければ、衝動も胸の高鳴りもあり得ないだろう。


「ただ、好きなことに変わりはないから、近づきたいと思うし、大切にしたいと思う。だから、もし君が嫌でなければ、今よりもう少し近づくことを許して欲しい」


 不快感を与えないように。怖がらせないように。怯えさせないように。

 きちりと引かれた線の向こうに、今はまだ、踏み込まない。綻びを見つけても見ぬフリ。ただ、差し伸べた手を彼女から取るのを待つ。半ば以上の誘導尋問。少なくとも嫌がっていないのをわかっていて。狡い自覚はあるが、こうでもしないとそばに立てないだろう。


「君の名を呼ぶことを、許してくれ。俺の名も、覚えて欲しい。俺が君から貰う、今はそれが対価だ」


 まだ自分の前では硬いその瞳が、祖父母殿の味だというソレを食べる時はどのように綻ぶのか。いつか、そんな瞳を自分にも向けてくれたら良いと月に願う。

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