3.セリー
『これはね、じいちゃんがばあちゃんに、初めて贈ってくれたものなんだよ。元々、大きなお屋敷のお嬢様とお抱え職人だったんだけどね。勘当覚悟でヨーロッパに渡って、帰国してきた時に、無言で差し出されたの。それがまさか、ぷろぽーずなんて思わないでしょう?』
素敵な人に巡り会えるように、これは、おまえにあげましょうねーおばあちゃんは、当時を思い出しておかしそうに笑いながら、庭で盆栽の手入れをするおじいちゃんを愛しそうに見つめていた。
漆塗りに花びらの螺鈿細工、丸い琥珀珠がついた一本簪。
あの日、召喚される私にお供して来てくれた唯一の持ち物。おばあちゃんとおじいちゃんが亡くなっても、世界でひとりぼっちじゃないって慰めてくれたもの。…よりにもよって、なんでそれを失くすの!?
〜静かな黄昏時の、カモミールのホット蜂蜜ミルクティー〜
「どぅ、しよ…」
私は、こんなに弱かっただろうか。
探し始めて、もう一時間以上。
夕陽は最後の一筋が沈むところで、紺藍色の空に一番星が見える。のどかな村の、更に片隅だからか昼間以上に閑散としていて、誰もが家に帰って家族と夕食の準備をしている、そんな穏やかな空気だけが静かに流れていた。花の香り。子供達ののどかな歌声。
ファゴットさんがカンテラを持たせてくれたから、足元は照らせる。魔法石という赤い不思議な石が光源で、火のように消えることはないようだけど。
いつも往復している小森の道にはなかった。だから村のどこかに、と思うけど、見つからない。やっぱり小森?どこ?すぅすぅと、心に隙間風が吹き込んでくるようで、寒い気候でもないのにぶるりと震えた。
小森からパン屋まではそう遠くない。それでも、まだまだ慣れない土地で、しかも夕暮れの暗い風景がまた別世界のように思えて、視界が暗いこと以上に心細さで足取りがままならない。
どうしよう。どうしよう。あれがないと、私は。
あぁ、私って、こんなに弱い生き物だったんだ。
「君」
どんな隙間も見逃さないようにと、はたから見れば良い大人が道にぺたりと膝や手をついている格好は、後から思い返すだに恥ずかしい。それでも、文字通り必死だったのだ。
「探しているものは、これだろうか」
のろのろと見上げると、薄闇でも不思議な光彩を宿す琥珀色。
それが探し物ではなく誰かの瞳の色だとわかって、一瞬だけ浮いた気持ちがまたすぐに沈んだ。続いて、その人の手にあるものを見つけた瞬間、考えるより先に身体が動いた。
「…ぁっ……」
飛びつこうとしたのだろうけど、思い通りにならない身体はまたしてもつんのめった。けれど、覚悟した衝撃は一切なく、代わりに、気づけばふわりと何かに受け止められて道端に座らされていた。
「大丈夫だ。君の大切なものは、ちゃんとここにある。だからまずは、ゆっくり息を吐くと良い」
どうやら私は、極度の不安と緊張と焦りで、軽い過呼吸になりかけていたらしい。
ともすればせっかく取り戻した簪を取りこぼしそうに震える私の指先を、しっかりと握り込んでくれるその人の声と、背を支えてくれる温もりに、強張っていた身体と心は少しずつ落ち着いていった。言われた通り、ゆっくり息を吐いていくことに集中すると、やがて自然と息が吸えて楽になった。
「これ…」
「店の前に落ちていたのを、母が見つけて保管していたんだ」
落ち着いて、改めて彼を見ると、料理の匂いに混じって何故か蜂蜜の香りが微かに鼻をくすぐった。それに知らず知らずまた安心して、そこで漸く、彼に半ば抱きかかえられている態勢に気づいた。
まるで王子様がお姫様を助け起こしたみたいな格好に、なんだか居た堪れない心地になってしまう。舞台ではお姫様を演じることもあったけど、現実の私は残念ながら、ドキドキとときめくような可愛い女の子ではないのだ。相変わらず、良いなぁ、とは思うけれど。
「ありがとう、ございます。すみません、何から何まで、ご迷惑を」
「迷惑だとは思っていない。俺が、好きでしていることだ」
またこの、殺し文句。これはモテる。絶対モテる。それこそ老若男女問わず。真の紳士はきっと、その行動や仕草を紳士と思わずして自然とやってのける人なんだろう。愛想をやたら振りまく八方美人っぽくないところがまた凄い。やっぱり、しがないパン屋の息子だけじゃないと思う。うん。これはモテますわ。
「少し待っていてくれ」と言うと、彼はどこかへ行った。あれれ、いつの間にかお店の前のベンチに座ってるよ?あまりのナチュラルさにキョロキョロしていると、ふわりと良い香りが鼻をくすぐった。
「飲むと良い。母が好きで、いつも夕食の前に淹れているんだ。落ち着くと思う」
ほの甘い香りに誘われて口をつけると、蜂蜜とミルクの優しい甘さとカモミールの香りが、じんわりと身体と心に沁み渡った。ミルクティーは紅茶で淹れるものだと思ってたけど、ハーブティーでも美味しいな…初めて飲むのに、なんだか童話に出てくる飲み物みたいで心地いい。
気づけば遠慮を忘れて、すっかり飲み切った頃にはホッと落ち着いていた。肩にストールかけられたことにも気づかないなんて、どんだけ夢中だったの私。そろり、と隣に座っている彼を見ると…ほら、なんか凄い微笑ましそうに見られてる。うぅ、子供っぽくてすみません…。
「良かった、顔色が良い」
「お、お陰様で…ありがとうございます、ごちそうさまです」
「母の好みが役に立ったようで何よりだ。小森のほとりまで送ろう」
あ、やっぱり私が『魔女』って気づいてるんだ。なんかそこらへん、どうなのかなー?って思ってたんだよね。村の人達に挨拶回りするべき?でもいきなりどうやって、ねぇ?…って、キキ?そんなところでのんべんだらりしてないで帰るよー?立ち上がって手を差し伸べてくる彼に、いやいやと慌てて手を振る。
「いえ、そこまでお世話になるわけには。お夕食の時間ですよね?」
「構わない。君が嫌でなければ、送らせて欲しい」
「ただでさえお時間を取らせているのに…」
「夜道を女性一人で歩かせるわけにはいかないだろう」
んんん、どこまで紳士なの。御伽噺の王子様や騎士様なの?手を差し伸べられたら、思わず取っちゃいそうな雰囲気。これだけキザっぽくなくワザとらしくもないなんて、生まれた時から紳士か。そうか。泣かせた女の子は何人ですかって聞きたくなる。
「それは…あの、でも、この子もいますし」
「確かに、この黒猫を見て手を出す者はそうそういないと思うが、それとこれとは別だ」
だめだ、埒があかない。それとも、私が素直に頷けば良い?でも、どうしても気が引けるというか気が咎めるというか。
彼は紳士で親切だから、本当に心から思って接してくれてると思うけど、だからって友人でも、ましてや恋人でもないのにそれに何から何まで甘えるってどうなの?って。…我ながらなんて可愛げのない。
それに、いくら紳士と言っても限度がある。どうして彼は、ここまでしてくれるのだろう。もしかして、私が『魔女』だから?…そうか、そうかも。そう考えたら納得する。というか、むしろそうなんだろう。
だって、『黒猫が選んだ魔女』は大切にしなきゃならない。それがここの慣習で。うん。彼は元々紳士なのかもしれないけど、ここまで親切に丁寧に接してくれるのは、私の『魔女』っていう付加価値もきっと少なからず作用してるからだ、きっと。納得納得。
納得したから、やっぱりここはすっぱり断ろう。『魔女』よりご自身と家族を優先して欲しい。日常ほど尊いものはないって、これでもよぉーくわかってるんだから。
「…すまない、強引だったな。だが、心配なんだ」
「えっと、重ね重ね、こちらこそいつもお世話に…あの、本当にありがとうございます。でも、私は確かにこの子に選ばれた『魔女』ですけど、実はそんな大層な人間じゃないんですよ?パンに、たっぷりバターと蜂蜜のせて食べるのが好きなしがない女なんです。クロワッサンも美味しかったです。また来ますから、ぜひ、ご家族との時間を優先して下さい」
よしこれでどうだ。これなら、卑屈じゃないスマートな断り方になったと思う。卑屈とかキャラじゃないもの。また美味しいパンを食べたいから英気を養って下さいなんて、ちょっと食い意地張った主張になっちゃったのはご愛嬌だよね。
彼は、琥珀色の瞳をきょとりと瞬かせると、「それは、間違いない組み合わせだな」と、またいつものようにふっと目元をやわらげた。良かった、伝わったみたい。
「ただ、ひとつ、訂正しておきたい。俺は、君が『魔女』だからと思って行動したことはない」
「え?」
「俺が、好きでしていることだ」
彼はこのひと言で、どれだけの人を魅了してきたのだろう。何度聞いても飽きない、彼の声は不思議な響きだ。やっぱり紳士。相変わらずだなぁ、と苦笑したところで。
「俺が、君を好きで、していることだ」
言い直された。
…言い、直された?
彼の瞳を見つめたまま、私はフリーズした。
簪の琥珀珠と同じ、安心出来る色。…そして、焦がれている色。吸い寄せられそうで、私だけを映して魅惑的に揺れる瞳に、息を飲んだ。
優しい闇はすっかり辺りを包み込んで、子供達の歌声が遠く聞こえてくる。
「ひと目見た時から、可愛らしい女性だ思っていた」
掠れ気味のテノールは、触れたところからゆっくり温もりが伝わるようで。
……はい?可愛らしい?…って誰のこと!?私!?
「突然すまない。ただ、君は、理由のわからない厚意や親切が、少し苦手なようだから。…やはり、困らせてしまったか」
今、自分がどんな顔をしているか全然、わからない。
だって、こんなことってある?異世界にやってきた女の子が、恋した男性にも恋されて…って物語の定番だけど、それは物語だからで、ここは現実で。
戸惑う自分と、ひどく冷静な自分がいる。まさか、夢みたい…なんて風に、ドキドキするような可愛い女だったら良かったんだろうか。それに、この人、私の弱いところを見つけてー
「どこか、痛むのか」
「え…」
「泣きそうな顔をしている。…いや、やはり、俺のせいか」
彼は自嘲するように呟いた。
咄嗟に手を伸ばして、簪ごとシャツの袖口を掴む。違う。彼は悪くない。私が…ただ、私が。瞠目する彼に、自嘲なんて顔をして欲しくない一心で、…離れていってしまいそうで、それがびっくりするほどさびしくて、頑張って言葉を探した。
「私、今すごく、中途半端なんです」
そう、中途半端だ。
『黒猫に選ばれた魔女』だけど、まだ正式に『魔女』ではない。そもそも、『魔女』の意味や、この世界のことだってロクに知らない。中途半端に知識が少しあるだけ。身体もフラフラ不安定で。自分ひとりで、責任を持てるものなんて、何もないから。
「異世界から、いきなりここに来て、この子も、世話をしてくれる『魔女』さんもいるけど、不安ばかりで。本当に、何も大したことないんです、私。なにひとつ、ちゃんと出来るもの、ないんです。身体も弱くなって、不安で…それで、このお店や、あなたの気遣いに、勝手に安心を貰っていて、でも今の私は、何もまともにお返し出来ません。だから…」
嬉しいのに、素直になれない自分がもどかしくて、切ない。
私だって彼を、良いなぁって思ってる。これは、きっと恋と呼ぶものだ。だからこそ、嬉しくないはずがない。本当は純粋に喜びたい。
でも、ふらっふらで、誰かに何かを頼りきりで、まだまだこの世界を何も知らない私は、ひとりの人間として責任ある言動を出来る状態じゃない。この世界で産まれたての赤ん坊より、きっとずっと未熟だ。彼の気持ちに、きちんと向き合って受け止めるだけの器があるとは思えない。自分の気持ちですら。
この場で安易に喜び勇んで恋に邁進した結果、彼の真摯な想いを、万が一にも踏みにじるようなことにならないなんて保証はない。これは私のエゴだ。初めての恋にどうして良いかわからなくて、彼に嫌われたくなくて、都合の良い言い訳を考えてる。
嬉しい、のひと言だけでも伝えて良いんじゃないかって思うけど。でも、私は恋なんてって思ってきたような女で。初めて手にした感情を持て余していて、そんな自分のことさえよくわかっていないのに、明確な言葉を伝えるのが、とても怖い。
「それは…」
彼は目を丸くしていた。保身ばかりの私に愛想をつかせるでもなく。
「俺は、君の心に、少しは近くに置いて貰えているということか?」
「………」
少しどころか、かなりです。というか、ですからそんな偉そうな立場では…。
この場合の沈黙は、いわゆる肯定というもので。だって、下手にこれ以上言葉で飾って、変な誤解とか生みたくない。これが精一杯。ごめんなさい。
こんな情けないのに、彼はやっぱり、相変わらずの眼差しで。それでどうやら、これは、私個人への好意らしくて。…待ってなにこれ、胸の奥がきゅうってする。
「そうか…こういう気持ちを覚えるのは、初めてなんだが。嬉しいものだな…」
…はい?今、幻聴が聞こえたような…気のせい、だよね。初めてって。初めてって…えぇぇぇ嘘でしょ!?いやだって、モテるでしょう?モテますよね?そりゃハーレム作るようには見えないけど、その中にひとつくらい甘酸っぱい思い出とか…いや私も人のこと言えないか…え、なにその顔、反則なんですけど…!ストイックそうな人のやわらかい表情はギャップ萌えという破壊力がですね…!あ、なんか目眩がしてきた…。
「…体調が優れないか?ふらついているが、また風邪でも」
いえ、これはあなたに当てられたのと、感情過多に酔っただけです、なんて言えるわけもなく。むしろ、彼が手を引いてくれたお陰ですんなり立てました。というか、また?もしかしてご両親にお世話になったことバレてる?
「家で休ませてやりたいが…よく考えれば、君にも都合があるな。当代殿の許可も取っていないことだし…」
「別に良いぞ」
足元で声がした。キキだ。
こうして小森の外で喋ることはなかったから、少しびっくりしてしまった。彼も驚いてる。魔法の世界みたいだけど、猫が喋るのは普通じゃないみたい。私は魔女っ子の物語に親しんでたから、実はそんなに驚かなかったけど。
「オレもいるし、その簪をなくして探しに行くとなった時点で、ファゴットも何かしら勘づいてる。好きにしたら良い」
ウマそうな匂いだしな、って、つまりそれが本音だよね?確かにさっきからお料理の美味しそうな匂いがしてるけど、なんで君はナチュラルにご相伴にあずかる気満々なのかな?ダメだよ帰るよ!