2.ファゴット
あの黒猫が次代を探し始めた時、億劫な気分が何よりも優った。
自分が誰かと暮らすことに壊滅的に向いていないことは、元いた、今は異世界の頃から理解している。共同生活。集団行動。それが仕事ならまだしも、そうでない時間を他人と共有することは、苦手というより嫌悪すら抱くのだから壊滅的以外の何ものでもない。この性格だから、克服することを望むわけでもなく、一匹狼などと高尚なつもりもなく生きてきた。
荒涼とした大地で吹雪が次々と命を奪う中、傭兵として自分もまた誰かを殺し、殺されかける日々。血を啜り、人肉を食べ、何のためにという疑問はとうに捨てて、ただ生きるためだけに這いずり回っていた時に、黒猫が現れた。直後に大きな雪崩に巻き込まれ、気づけばこの小森に来ていた。
〜看病のための、オートミールの蜂蜜ミルク粥〜
「また物騒なモンを連れてきたねぇ」
ケタケタと笑う老婆は『魔女』というものらしく、自分は次代に選ばれた。いきなりそうと言われて、肯定も納得もできるはずがない。そもそも異世界とは何事だ。
敵に対する態度の自分に、老婆はやはりケタケタと陽気に笑うばかりで、まぁ暫くは好きにしな、最低限のことは教えてやるからと、実質的に放任主義だった。思えば自分には、あれくらいがちょうど良かった。
それから老婆が引退し、自分が『魔女』を引き継ぐまでの諸々の経緯は割愛する。吹雪のない小森の生活は、馴染んでみれば性分にそこそこ合っていた。必要以上に他人と関わる必要はなく、そもそも黒猫の存在と結界ゆえに人が訪れない環境は好都合だった。
命を奪われる危険も奪う必要もなく、当たり前のように豊かな緑や清らかな水に溢れ、朝は静かに始まり夜も静かに終わる。以前には夢にすら見なかったこの穏やかさには今でも時折、本当に現実かと疑う一瞬がふと浮かぶことがある。しかし、ここまで来たら腹を据えるしかないと開き直れるほどには、自分も随分と日和見になったものだと自嘲すらどこかに忘れた。
だが、そうかと言って自分の根本が変わるべくもない。ーそう思っていた。
蓋を開けてみれば、億劫などと言っている猶予はなかった。黒猫が連れてきたのは、散々殺し合い数多の屍を見てきた自分でも目を剥くほど酷い有様の人間だった。確かに、本当にとんでもないものを連れてくる。
四肢は奇形で、礫か何かで頭部も胴体も変形し、黒猫の加護と治癒魔法がなければとうに死んでいる。不幸中の幸いなのは、意識のないこの子がそんな自分の有り様を知らずに済んだことか。目を覚ました三日後には、少し大きな怪我をして療養中、程度の見た目になっていた。
黒猫の『魔女』選びの基準は未だにわからない。老婆もわからないと言っていたから、歴代そんなものなのだろう。性別も性格も能力も、調べてみたが何ら共通点はないように思えた。
歳の頃は二十六。自分から見ればまだうら若いが、決して子供ではない妙齢。下手に背伸びするでもなく、夢見がちな少女風情もなく、現実感のある歳相応の人間性が素直に現れている子だ。ある意味で珍しい。人間、少しはちぐはぐなところがあるものだが、そう考えるとこの子自身が意識的にそうなるようにしてきたのかもしれない。
起き上がった当初、自分も他人のことは言えないが、きっちりと引いた線の向こうから何かを吟味するような硬さがあった。自分と違うのは、それでも人当たりの良い自然体の態度と表情であるところか。
視線も不躾なものではなく、ただ吸い込まれそうな黒曜石の瞳からは、洗練されたそれなりの経験値を思わせた。その所以を、わざわざ知ろうとは思わない。
曰くの蜂蜜バタつきパンが好物で、最近はお気に入りの一軒からいそいそとパンを買ってくる。「いただきます」と元気よく手を合わせ、それらに齧り付く様は無邪気な子供のようと言えなくもない。だが、やはり眼差しも仕草も振る舞いも、無垢ゆえの白さというより、一度染まったものを綺麗に洗って削ぎ落としたような白さを思わせた。
「自然体って、実は何もしない素じゃなくて、それも作るものだと思うんです。なるべくなら敵を作らないで、でも別にベタベタ仲良しする味方が欲しいわけでもなくて、鼻につかない程度にお互いにさらっと流してさらっと不快感なく付き合うには、それなりに自分を磨かなきゃならないので」
指摘するつもりはなかったが、結果的にはらしくもなく少し言及したところ、特に何か気負った様子もなく、それこそさらりと言った。なるほど、と思ったのは否めない。
思えば、老婆も、自分も、この子も、敵も味方も安易には作らない、という姿勢は共通点であるような気がする。それはこの小森のようだ。領域という線引きはありつつ、全てを拒絶するわけではない。守るべきものがあり、特に害にならないものはあるがままに任せて放っておく。ただし、切り捨てるところは切り捨てる。中途半端に馴れ合わない。
本当に味方とし、互いに踏み込むことを許すならば、相当な勇気と根気でもって臨む。人付き合いにしろ何にしろ、吟味と厳選をこれでもかと重ねなければ線を踏み越えられない。そうしなければ、自分も相手も結局のところ、互いを苦しめるだけだと知っている。自分は傭兵としての生き様ゆえに。老婆とこの子も、おそらくはそれまでの人生ゆえに。
先日、巣から落ちた雛を見つけた。ピィピィと庇護欲を誘うような鳴き声。助けようと真っ先に駆け寄るかと、女というものに対して多少の偏見のある自分はそう思った。
ところが予想外なことに、この子は見つけてじっと見つめた後は、近寄るでもなく放った。その様は、それこそ世の多感な娘達が見たら「なんて非情なの」「冷たい」などと言うかもしれない。ほどなくして雛は死んだ。それでもこの子は近づくことなく、また暫くしたら死骸は消えていたから獣か何かの糧となったのだろう。ただ、その日の夜、上手く隠してはいたものの心なし気落ちした雰囲気だったのは覚えている。
なるほど、この子は分相応と責任というものを弁えているらしいと知った。黒猫の「気まぐれ」は、あながち的外れでもないらしい。この小森で暮らす上で、余計な情けは毒になる。可哀想、などという感情に振り回されて無責任に命に手を出すようでは、『魔女』としても苦しいだけだろう。まだ自身のことで手一杯で、雛を育て上げる確信を持てないからこそ、それを理解した上で放置したのだ。ただし、感情までは割り切れない。そこは人間らしいところか。
この同居生活に、取り立てて差し支えはない。線をなくしたわけではないものの、硬い雰囲気はたいぶやわらいだ。弱体化した肉体はまだ危なっかしく、その世話をするのも苦ではないと思うほどには、不快感はない。自分はともかく、この子もまた、自分との暮らしは特に苦ではないようだった。「ファゴットさんみたいな人がお父さんだったら素敵なのに」という意見には同意出来ないが。
もうひと月以上になる。まさかこの自分が誰かの世話を焼き、少々でも心配の念を抱くとは。しかも、人付き合いのロクな経験のない自分の態度は、お世辞にも褒められたものではない自覚はあるのに、この子は実に楽しそうに笑っている。
吹雪で過ごした時間よりも長くなった小森暮らしの風景に、驚くほど自然と馴染んだこの子を見ていると、自分もまた人であったのかと妙なことを思う。時の流れは、どうやらどうしようもなく偏屈な人間の角さえ丸くしてしまったようだ。
元の世界でもこの世界でも、常に独りであり続けてきた。そこに疑問などなく、大した感情もなく、これで良いとすら意識しないほどには自分にとって、ごく自然なあり方だった。ーそう思う以外になかった。そうとしか生きられなかったから、それ以外の生き方など知らない。知る必要もない。知りたいとも思わなかった。
ところが、どうだ。これまで心のどこかで頑なにしていた部分が、この子を通してほぐれてゆく感覚がする。それと同時に、思い出さないようにしていたものまで最近は思い出す。
「ファゴットさま」
口は悪く偏屈で、無愛想で、決して善良な人間ではない自分を、好きだと言ってきた奇特な女がいた。
お互いに今のこの子ほどの年頃で、『魔女』を引き継ぐ以前に出逢った。暫くは好きにしろと言われ、自棄と意地のままに小森の外へ出ていた時、躾のなっていない猟犬どもが暴れているのを偶々見つけ、憂さ晴らしのように銃を撃った。助けたつもりはない。目障りだったから撃っただけだ。礼を言われるまで存在にすら気づいていなかった。
「銃は遊び道具じゃない。構えるなら自分が撃たれる覚悟をしろ。ナイフを持つなら自分が刺し殺される覚悟をしろ。それが出来ない人間に弾を撃つ資格はない」
どうやら猟犬の主人はこれまた躾のなっていない貴族のドラ息子だったらしく、戯れに銃を撃ち犬どもを放して、周囲の人間が怯えるのを見るのを娯楽にしている人間だった。これまた癇に触ったので胸ぐらを掴み上げてやっただけだ。傭兵にとって、武器とはすべからく殺し合いの道具であり、どんなに醜くともそれが唯一の矜恃だ。それだけの話だ。村の者達にひどく感謝されたが、そんなこともどうでも良い。自分には関係のない話だ。
来る日も来る日も小森のほとりに建つ修道院の裏庭で自分を待ち、焦がれるように見つめてきた。冗談じゃないと散々跳ね除け、やがて『魔女』となるのを理由に完全に突き放してここに篭り、以来数十年会っていない。これから会う気もない。貴族の娘だったから、いかようにも生きる道はあるはずだ。一時の気の迷いも、とうに忘れているだろう。
あの頃のことを思い出した利点を強いて言うなら、ベッドから起き上がれるようになって油断して風邪を引いたこの子に、粥を作ってやれたことくらいか。オートミールをミルクで煮て蜂蜜を混ぜただけのものだが、「味は違うけど、なんだか懐かしい…」と赤い顔で嬉しそうに食べていた。
異世界転移の弊害で自分もまた不安定で倒れた時、不覚にも介抱された時に食べさせられたものだ。自分などが元々こんな優しい料理を知っているわけがない。ー思い出しただけだ。別に何か願望があるわけではなく、ただこの子のように、こんな自分と付き合おうとする変わった女もいたと、そう思うだけだ。
「簪?」
「はい、祖父母の形見なんです。見てませんか…?」
確かにいつも、くるりと纏めた長い髪に一本を挿している。今日も今日とてパン屋に通って帰ってきたところで気づいたらしい。
形見と、そう言った声音は泣きそうなほどで、この子にとって心の深淵に居座ることを許している数少ないものなのだろうことは察して余りある。だが、残念ながら、簡素な造りの家のどこにも見当たらない。小森のどこかか村だろう。
もうすぐ陽が落ちる。明日にしろと言いたいところだが、このままでもロクに寝付けなそうだ。黒猫がついていかなければ絶対に許可はしない。
「気をつけて行きなさい」
「はい、ごめんなさい。いってきます」
急いで、けれど現実的に身体は無理が利かないから動きは決して早いものではなく、ただ心の急くままに再び出かけてゆくのを見送る。…おそらく、黒猫がその気になれば魔力か何かで、在り処など瞬時に見つかるはずだが。
そうしないところを見ると、黒猫もまた選んだパートナーだからといってなんでもかんでも手を出す主義ではないらしい。時に流れに任せて、辿り着く先にあるものを待つこともまた肝要だとでも言うように。今日に限って髪がうまく纏まらないからと籠に添えていたことと言い、竜巻に巻き込まれてなお絶対に手放さなかったにも関わらず、ここにきて失くすとは…まるで何かの符号のようだな。
『魔女』に選ばれたからと言って、選ばれた方がそれに従う道理はない。自ら立候補したわけではない。『魔女』にならない選択も可能だ。それは黒猫自身も証言している。そうなったらその時だと。
だが、自分も含めて、どうやら歴代、最終的には誰もが『魔女』の役目を引き受けている。運命という言葉は好かないが、紆余曲折の流れの末に、結果的にはそうなっているようだ。ただし、そうかと言って今度のあの子もそうなる未来の保証はない。答えはあくまであの子のものだ。
『魔女』の存在意義は、第一に象徴だ。
精霊の揺り籠であり世界を支える柱の確かさを示す存在。『魔女』が変わらずそこにいる限り、人間は世界から見捨てられていない証となる。小森や精霊を大切にすれば加護や恵みが保証されるという、安寧と平和の指針。そのことを顧みなかった結果、一国が滅んだ事件が益々その事実を強固にしている。
そして、『黒猫』が選ぶ『魔女』は例外なく人間だ。人間は欲深い。だからこそ、『黒猫が選んだ魔女』の存在は道徳と倫理として機能する。同じ人間の『魔女』の存在に、人々は己の行動を常に振り返る。黒猫と小森の存在を思い出すよすがになる。
「象徴…天皇?」と不思議そうに首を傾げたあの子は、あの子なりに考えている最中だろう。取り立てて答えを急くことでもない。御伽噺の魔女とはたいぶ印象が違ったようで驚いていた。
確かに、何をどうしなければならないという明らかな決まり事がない分、よくわからない話だ。自分は引きこもったが、小森から出てはいけないということでもない。魔力や魔法は存在するが、重要であった記憶はない。むしろここの生活でわざわざ使うこともない。自分とて未だにわからない。
一人と一匹、他人の煩わしさから解放されて、使い慣れた銃で獣を狩りながら、ただ小森で独身生活を続けてきただけだ。言ってしまえば『魔女』など関係ない。そんな生き方のどこに役目らしいものがあるのか不可解だが、黒猫も呑気に惰眠を貪っているだけなのだから、考えるのも早々にバカバカしくなった。象徴とは随分とお気楽なものらしい。
いずれにしろ、この世界で新たな人生を歩むことになるあの子の道筋に、あの子なりの幸があれば良いと思う。他人の幸を願うなど、やはり随分と耄碌したものだ。