18.リュート
「ここまで凄い嵐も久しぶりだな…」
「そうねぇ…ここは高台だから良いけれど、海の方はきっともっと大変だわ」
昨夜から降り始めた雨は、今や滝のように大地に注がれている。既に時刻は朝だが、空は明るくなるどころか暗い雲と雷鳴に覆われていた。道は川のようで、これでは既に近隣に繋がる林道は潰れているだろう。
窓辺から外を心配そうに見つめる父と母に背を向け、二階の自室へ戻るべく、階段をのぼる。
「な…ッ!?」
次の瞬間だった。天を斬り裂く轟音と共に、大地が大きく揺れた。それはまるで竜の咆哮のようだった。尋常ではない現象に階下で父と母が自分を案じて呼び、それに応えながら本能的に窓から外を伺った。坂の上の、小森を。
「《 風 よ 》ー!!」
考えるより先に道に飛び降り、風の精霊の助力を乞い坂を駆け上る。普段は滅多に魔法を使わないが、この際なりふり構っていられなかった。
今なお、吹き荒れ稲妻が轟く曇天から、空を引き裂くような雷の一筋が小森目掛けて落ち続けている。あそこには、セリーがいる。
〜嵐の日のホットスパイスワイン〜
「こ、れは…」
白樺の小道を抜け修道院の敷地内に入れば、更に異様な光景が目の前に露わになる。危惧した火事ではないが、小森全体が電流を帯びたような光景。木々の葉がまるで発光しているかのように神秘的に青くざわざわと揺れ、いっそ幻想的とも言えた。
「リュート君待って!無闇に近づいては」
「シスター…だが」
「大丈夫、黒猫がパートナーを危険に晒すはずがないもの」
そうは言っても、普通の光景ではない。彼女は無事なのか。あまり得意ではないが透視を試みた時、目を凝らしていた先に何か見えた気がした。人影がふたつ、足元の小さな影と共に奥から走ってくる。
「…!リュート!?」
何か考えるより先に身体が動いた。まさに着の身着のまま、小森から走り出て来たのを引き寄せて無事を確かめる。特に怪我はないようだった。
「良かった…」
「え、あ…リュ、リュート、外は危ないのに、どうして」
「どう見ても異常なのがわかっていて、家の中で大人しくしていられるほど出来てはいない」
「安心しろ、小森もこいつらも何でもない。じきに収まる。ただ、オレも天の采配の全てを把握出来るわけじゃないからな、そろそろかと予期はしてたが…とにかく、暫く退避だ」
黒猫曰く、こういう現象はだいたい百年に一度の周期で起こるものらしい。小森という特殊な空間を満たすエネルギーをこの先も世界に循環させるため、「要するに定期的な風通しだ」とのことだ。
「とにかく、中に入ろう」
「は、はい。ファゴットさん、ヴィオレット様も…」
彼女が呼びかけたところで、ようやく妙な空気に気づいた。
「ファゴット様…」
「………」
思わず顔を見合わせた。
次は火を司る精霊達に助力を頼み、短く唱えて先ずはずぶ濡れの格好を解消する。
「す、凄い、あっという間に乾いた…」
「だが、しっかり温まった方が良い。シスター、浴場を借りられますか」
「え、えぇ、もちろんよ」
「…先に行きなさい」
「は、はい、じゃあお言葉に甘えて…」
修道院も定期的に手入れをしてきた甲斐があった。凄まじい嵐だが、屋根も窓も動じることはなく、音は聞こえてくるが静かな空気に満たされている。しかし、これは嵐が収まった後が大変そうだ。牧場や小麦畑…いや、その前に、誰も怪我などしていなければ良いのだが。
「…大した魔の力だな。それでよく、一村人の役に収まっていられる」
ーまさか向こうから話しかけられるとは思っていなかったため、正直なところ、少し驚いた。ただ観察結果を述べただけのような声の調子に、言葉以上の感慨はないように思えた。
「少し前までは、王都で魔法騎士に就いていました」
「煩わしいことだ」
「そうですね」
一丁の銃のみを肩に担いだ出で立ちは、『魔女』というより猟師あるいは兵士を思わせた。ひとつ息をついてから、改めて向き直る。
「お初にお目にかかる、当代の魔女殿。ミューゲの一員として、一度お目にかかりたいと思っていた」
「ふん…見たところでどうもないだろう」
「そうでもない。俺達が生まれる以前の悪政を一掃出来たのは、あなたのお陰だと聞いて育った」
「くだらん」
なるほど、彼は彼で事情と思うところがあるらしい。シスターとも、何やらただならぬ関係があるようだ。気にはなるが、今は踏み込まないでおこう。
口も態度も悪く思えるが、不思議と悪感情が湧かない。仏頂面とぶっきらぼうの裏側から、不器用な人間性が感じられるからだろうか。それとも、己を『魔女』であると一切主張してこない雰囲気のせいだろうか。だからこちらも、当代だと認識はしても、大袈裟な感情は抱かず凪いだものだった。
「ここの厨房は久しぶりだな…」
ランプの明かりだけでは少々暗い。魔法石で明るくすると目当てのものを探し出し、鍋に火をかける。よく熟成されてまろやかな口当たりの赤ワインに、シナモン、ジンジャー、クローブ、カルダモン…香りづけにオレンジかレモンか、どれかと少し迷ったが、バニラを選んだ。
あまり沸騰させすぎないように温め、最後に塩を少しと蜂蜜を加えて火から降ろす。これは硝子よりも陶器が良い。四人分を注ごうとしたところで、ふと、微かな話し声が途切れ途切れに聞こえてきた。…シスターと、彼か。盗み聞きする趣味はないので、雰囲気だけ吟味すると、二人分だけ注いでバニラビーンズを漬け込んだウォッカを少し垂らす。
盆を片手に乗せて礼拝堂へ戻ると、相変わらず、ステンドグラスや窓を通して雷光が光と影を演出している。
セリーは窓辺から外を見つめていた。どこか遠くを見るような瞳。脇の卓に盆を置いて、自分もまた灰色の外を見た。ひどく対照的な礼拝堂の静けさが、まるでここが異空間であるような錯覚を抱かせた。
「みんな、大丈夫かな…」
今度は素直に驚いた。独り言ではなく、そばにいるのが自分だと認識した上で、彼女がこういう口調をすることは今までなかった。
多くと打ち解けてきたものの、まだどこか、ひと呼吸挟んでから話すことが常だ。謙遜や警戒というより、それが標準装備であるようだった。しかし今は、どこかぼんやりとしている。身体が温まったせいというのもあるだろうが…。
「…絶対に大丈夫とは言い切れないが、地理的に、ミューゲは水害や土砂災害は滅多にない。これ以上にならなければ、家は大丈夫だ。ただ、牧場や畑は少し厄介かもしれない。…セリー?」
普段は優しい木漏れ日のような佇まいが、今は湿り気を帯びている。茫洋とした瞳もどこか水を含んでいるようで、不意に心臓が跳ねた。水の精霊の水浴びを見てはならないとは太古からの伝承だが、そういった掟をうっかり侵した気分だ。
彼女の瞳は外に向けられたまま、その唇がゆっくりと動くのを黙って見ていた。
「音が…」
「…?」
「音が、似てて。おじいちゃんとおばあちゃんの家が、潰される音…」
カッと、雷光がその横顔を照らした。黒真珠の瞳は、ただどこまでも凪いでいる。
「………」
「早く、やんでくれないかな。この音、苦手、で……」
ふっと、薄膜が消えたようだった。凪いでいた瞳はパチリと瞬いて、こちらを振り返ってきたその中に自分が映っているのが見えた。
「ご、ごめんなさい、どうでもいいことを、っていうか私、今なんか変なこと言って…違うんです、なんでもなくて、ちょっとぼんやりしてただけ、で…リュ、リュート…?」
慌てたように、なんでもないと振る手を掴む。びくりと震えたが、反射的に引っ込めようとするのを離すつもりはなかった。
「どうでもいいと、誰かに言われたのか」
「え…」
「たとえ君自身がそう思っていても、俺達にとってはどうでも良いわけではない」
そのまま手を引いて長椅子のクッションに座らせると、ちょうど飲み頃になった温かいカップを持たせる。戸惑っていたが、ワインの芳香に立ちのぼるバニラと蜂蜜に気づいたようで、誘われるようにして口をつけると「おいし…」と素直に吐息を漏らした。
「マリーが」
「え?」
「次代の『魔女』に選ばれたのが君で良かったが、自分達は君の大切なものや幸せを犠牲にしているのではないかと、案じている」
「…!?ちが…っ」
反応は予測出来ていた。その通りに目を丸くして、咄嗟に立ち上がろうとしたのを肩を抑えて、目線で口を封じる。
「君がそうは思っていないことは、マリーも俺達もわかってる。それでも、君を好いているからこそ、俺達はそう思わずにはいられない。とりわけ、君は、わがままを言わないからな」
「わ、わがまま、って」
「君が、あまりに素直にこの世界や俺達を受け入れてくれるから…すまない、そう望んだのはこちらなのに、身勝手な話だな。涙のひとつでも見せてくれれば、そこにつけ込んででもせめて甘やかして、支えてやれるのにと考えてしまう」
だが現実は、彼女はそう簡単にそれをさせてくれはしないし、自分達も、実際に涙を見たところでロクなことをしてやれない。
いつだってセリーは、自分達を笑顔にして幸せな気持ちにする。ー言ってしまえば、そんな彼女しか知らない。それを歯痒いと感じるなど、本当に随分と欲張りになったものだ。もっと手を焼かせて欲しい、面倒をかけて欲しいと望むとは。
根掘り葉掘り何でも知らなければ守れない、などというのは甲斐性なし以外の何ものでもない。そんな情けない生き物であってたまるかと思う。彼女も自分達も、お互いにナルシストでもない限り、やたらに自分自身を語るような趣向は持ち合わせていない。
ー何をどう言えば良い。これまでの人生、特に障害に思っていなかった口下手を、ここにきてこれほど恨むことになるなんて思ってもいなかった。
「…………………ほんと、へたっくそ」
「は…?」
何か呟いた、と認識した次の瞬間だった。くいー、っと見事な飲みっぷりに、呆気に取られて制止する暇もなかった。いや、この小さなカップに一杯くらい、一気飲みしたところで成人した身体なら大して毒にはならないが…慌てて取り上げた時には、一滴残らず空になっていた。思わず見比べる。…目が据わっていないか?
「あぁぁぁもうまた間違ったぁ…!」
「!?」
すると今度はいきなり長椅子の背もたれに突っ伏した。あー、だの、うー、だのと唸りながら、ブツブツと何事か垂れ流し始める。…確実に酔っている。しまった、彼女は酒にあまり強くない、というより弱かった。雨に濡れて冷えた身体を手っ取り早く温めるにはコレが一番だからと、少々失念していた。
「もうヤダなんで私ってこんなに人付き合いへたっくそなの、リュートにそういう顔して欲しくないのになんかまた間違って…マリーちゃんもやっぱり気にさせちゃってるし、リリィちゃんは怒らせちゃったし…なんでぇ?こんなに好きなのに、好きって言うだけじゃダメなの?あぁぁぁそういえばおじいちゃんとおばあちゃんも時々同じ顔してたような気がする…」
「セリー…?」
「でもさぁ、わがままってなによぅ、そんなのわかんないよ、神社にお参りしても仏様に手を合わせても七夕でお願いしてもクリスマスにお願いしても、カミサマなんて何も叶えてくれなかったじゃん…わかってるよ、私に守る力がなかったせいだってことくらいさぁ。もうこの音やだぁ、またなんか間違ったぁ」
ひっく、と時々挟まれる音が、酔っているからなのか泣いているからなのか、突っ伏されていたらわからない。
隣に腰をおろして、嫌がるようなら離すつもりで両手を伸ばす。指先に伝わるやわらかな肌触りをあまり意識しないように頰を包んで、こちらに向けた顔は濡れてはいなかったが…拗ねた子供みたいだ。
「…リュートは、いつもそうですよね」
「ん?」
「ほらそれも。ん?ってなに、ん?って。声甘いし、目も甘いし、いつも優しいし、可愛いって言ってくるし、助けてくれるし、リュートこそ私になんか不満とかないんですか。こうして欲しいとかああしてほしいとかここがダメだとか。そもそも最初からズルズル待たせてるのに、さっきみたいな顔もさせちゃうし、間違ってるなら間違ってるって言ってほしいです…」
…これは、逆ギレというものなのだろうか。可愛すぎるのも大概にして欲しい。それとも、自分の目が末期なのか。
「君が間違ってるわけじゃない。俺達が欲張りで、わがままなだけだ。それと勘違いしているようだが、俺は別に優しくはない。君が可愛いからそう言っているだけだし、もし君が本当に何か間違っていたりダメなところがあればとっくに言っている。そっくりそのまま返すが、君こそ俺達に何かないのか?」
「大好きです」
なるほど、どうやらお互い様というやつらしい。
どこまでなら、触れることを許されるだろう。彼女が誰にも見せないように、そっと抱えているものがあることは最初から感じ取っていた。無理には暴くまいと見ぬフリをして、この先、知ることがなかったとしても構わないと思っていた。
だが今、初めて、触れてみたいと思った。
怖がらせないように。怯えさせないように。ーどうか逃げないでくれと願う。
「…ん?どうした、セリー?」
未だその頰に触れていた両手に、ひそりと指先が添えられる。とろりと眠たそうな瞳は、揺蕩うように揺れていた。
「…おじいちゃんと、おばあちゃんも、よくこんな風に、顔挟んで、どうしたのって、聞いてくれたなって」
「そうか」
「なんか、ズルいんですよね。あんな風に聞かれると、なんか、ぜんぜん取り繕えなくなっちゃって」
「あぁ…それは、わかるな」
「でも、昔の私は、話すことがあんまり、得意じゃなくて。だからおばあちゃん、踊りを教えてくれた…どう言えば良いのかなって、正解を考えるほど、わからなくなって、結局いつも、だんまりになっちゃってたから。言いたいことを言えば、それで良かったんだって、今ならわかるんですけど」
「…俺にこうされるのは、嫌か?」
卑怯な聞き方だという自覚はある。ゆるりと首が横に振られたのを確認すると、儚げな声音を聞き逃さないよう、額を合わせた。
「リュートの手、ひんやりしてて、気持ち良い…」
「君がぬくもっているからだろう」
「このワイン、好きです、蜂蜜とバニラの香り…嵐の日が、好きになりそう」
「積極的にずぶ濡れになられるのは、少し困るな」
「作り方、教えて下さいね」
「どうしようか。君に教えられるものがあんまり減ると、立つ瀬がなくなるからな」
「なんですか、それ。リュートって、実は少し、いじわるですよね」
ふわふわと楽しげに微笑む。…この状況に持ち込んだのは自分だが、拙さと色香のアンバランスな雰囲気は、少々危うい気がする。そこの壁の陰に、黒猫がいてくれて助かったと言うべきか。
「良かった…私、ちゃんと、話せてる…」
「………」
「本当に、苦手なんです。嵐の音…工事現場の音も、苦手で」
「……なぜ?」
「守れなかったから。…たぶん、私はずっと、後悔しているんです」
ーー彼女の言葉は、まるで枯葉がはらはらと静かに舞い落ちているかのようだった。時々、蜂蜜とバニラの香りのしゃっくりが挟まれる。そこには自嘲の響きすらなかった。
静かな礼拝堂には、ただ、枯葉が落ちる音だけがあった。
「ここには、私が守りたくて叶えられなかったものが溢れてて、だから嬉しくて…マリーちゃんも、セロ君も、あの家も、大切にされて、守られてて、安心、して……そう、だから、マリーちゃんに、ちゃんと、話さない、と………リリィちゃんに、も…………だいじょうぶ、って、うれし、なみ、だ、だよ、って……ーー」
やがて、すぅと眠りこんだ。ホットワインは、頃合いよく彼女を眠りに誘ってくれたらしい。選んだのはなんとなくだったが、以前、シスターがバニラの香りはナイトアロマに良いと言っていた気がする。自然と触れた指先は温かく、寝息も穏やかだ。微かに染まった頰に、指の背で触れる。
雷鳴は少し収まりつつあるが、荒れ狂う嵐はまだ過ぎ去りそうにもなかった。ベキバキと音がする。ーこれが、幼い彼女が独り、聞いていた絶望の音。
「巡り会えなかったとしても良いから、ちっこい頃のコイツを救ってやって欲しいだなんて、ゆめゆめ願うんじゃないぞ」
「ふざけるな」
我ながら、自分の口の悪さに驚く。彼女と出逢ってから、自分でも知らなかった自分を見つけては驚くばかりだ。そのどれもが、悪い気分ではないのがまた困る。欲が少ないと思い続けてきた自分の世界が、その度にまたひとつ彩りを増す。
「ここにいるのは、セリーでなければダメだ。それ以外は有り得ない」
今更、同情や可哀想などという陳腐な感情で、この想いを飾れるはずがない。生憎と、巡り会えなかったとしても良いからと願えるほど、自分は高尚な人間ではない。確かに幼い彼女が負った傷を良しとは思えないが、そもそもこんな自分の願いひとつでその孤独から救われるくらいなら、とうの昔にそうなっている。
傷ついて痛みを抱えて、それでもセリーは自分の足で生きてきて、そうして今、ここにいる。それが全てだ。それ以外を想像し願うなど、それこそ彼女に対する侮辱でしかない。
『家族』や『家』を守れなかった無力な自身への絶望も。どんなに願っても叶わなかった喪失も。親戚中を転々としながら、例え親しくなってもそこの家族にはなれない疎外感も。ー孤独も。
そして、かわいそうと哀れられまいと背中を伸ばし、誰を頼らないでも良いようにと心に誓った決意も。全ては彼女のもので、全てが彼女自身だ。
御伽噺の舞台の、姫君を救う王子や騎士の役に立ちたいわけではない。
これまで決して悪いことばかりではなかったにしろ、ただひたすら頑張って生きてきた彼女の、その心を休めて癒せる役に立ちたいと願う。彼女が泣きたい時に、涙を流すことを肯定して赦せる役に。叶うなら、誰よりも一番近くで、永く。
「なら良い。これまで『魔女』本人を想うあまり、オレにそう望んできた奴らがいなかったわけじゃないんでな」
「…ここに召喚されなければ、彼女は死んでいたのか」
「そうだ」
あっさりとした肯定に、必然的に手に力が篭る。こちらの世界に来る直前、竜巻に巻き込まれたのだと言った。足元の黒猫は、あくまで淡々としている。
「オレも面倒なことはご免だからな、パートナーは最低限、元の世界に未練がない人間を選ぶ。となれば、まぁ必然的に、似たような境遇の奴もそこそこいた。そこから先は、本人達次第だ」
「次代の『魔女』が彼女でなければならない、絶対的な理由はなかったんだな」
「ざっくり言うとそうなる」
「そうかー感謝する」
黒の中に浮かぶ金眼を見返すと、僅かに細められた。人間で言えば、不敵な笑み、と言ったところか。「オレの直感は外れたことがないんでね」と言うと、再びすたこらとどこかへ行った。
ベッドへ運ぼうと抱き上げた身体は、どこか覚束なかった当初より少し増した重みを感じる。それが、この世界や自分達のところにきちんと腰を降ろしてくれている証拠のように思うのは、きっと自惚れではない。
「…君で良かった、だけでは、もう済ませられないんだ、俺達は」
最初の頃、彼女は言っていた。例え死にかけたのでなくても、未練があったとしても、好きになっていたと。彼女は俺を安心させようと言ったのだろうが、その言い草がずっと引っかかっていた。
酒による不可抗力で、おそらく、本来なら話すつもりのなかったことだったろう。涙とて、意図したことではなかったに違いない。わかっていて、話さなくて良いとは言わず、酒の力を口実に聞き続けたのは自分だ。
幼い頃に叶えられず、守れなかったものに、自分達と接する中で触れてきてどう思っていたのだろうかーそんな愚問を呈するつもりはないし、同情心などもってのほかだ。自分達を大好きだと言う言葉も、眼差しも、仕草も、そこに嘘偽りはない。もう昨日、あの時出せなかった涙をたくさん出して気持ちを整理できたから大丈夫だと、そう言った。
おそらく今の彼女の中には、羨望、嫉妬、逆恨みといった感情は一切存在しないのだろう。その時機はとうに過ぎてしまったのだ。
それでも傷ついた深さがあるからこそ、転じて心から良かったと笑い、涙するほど祝福する。そんな彼女の心を、綺麗や美しいなどという、やはりそんな陳腐な言葉で飾りたいとは思わない。
世界の醜さを知らないわけではないだろう。なにも美化しているのではない。
家族に破れて、家族に傷ついて、堪えて、堪えて、堪えて、そうして今また家族を大切にして守ろうと心から笑って祝福するーそうか、これが《愛おしい》ということか。
「ありがとう。君が俺達のところに来てくれて、本当に良かった」
他の誰でもなく巡り会ってくれたこと。手放すものかと、ただ想う。
奇跡は人の子の形をして、バニラの香りがした。