17.セリー § リュート
「マリーちゃんもセロ君も元気いっぱいで、母乳の出も良いみたいです。でも、まだちょっと腰に違和感があるみたいで…あ、サックスさんの腰痛、随分良くなったみたいです。ありがとうって言ってました。あと、ラヴェンダさんなんですけどー」
ここ最近、『魔女の家』の夕食は村の人達から持たされたお料理が並んでなんだか豪華。週に一、二回は今もメリッサさんに誘われてセレナード家にお邪魔してるのだけど、その時もファゴットさんにもどうぞってお土産持たせてくれる。
夜の小森で二人と一匹、食事をしながら報告すると、やっぱりうんともすんとも特に言わない。でもこれがやっぱり、ちゃんと聞いてるんだよね。食事が終わったら、また黙々と生薬作りに取り掛かるから、私も手伝う。
実はマリーちゃんの件がある前から、ファゴットさんはこうやって村の人達のために特製の薬を作ってくれるようになった。きっかけは多分、私が何気なく、どこどこの誰がこんな症状に悩んでるみたいでーって言うのを喋ったから、だと思う。
それで、処方箋を持っていったからには報告するべきだと思って話すと、また見合ったものを作ってくれる。本当はファゴットさんが直接診た方が良いんだろうな、って思うんだけど…小森から出る気、ないみたいなんだよね。うーん、ハンカチーフとヴィオレット様のこと話してから、だよね、この空気。どうしたもんかと思いつつ、首は突っ込まないって決めてるからなんとも。それでまぁ、現状維持なわけです。
〜真夜中のホットミルクセーキ、蜂蜜とブランデー入り〜
「今日はもう寝なさい」
「え、でも、まだ途中…」
「寝なさい」
ところが、今夜は部屋に追いやられてしまった。あ、あれ、問答無用…えぇ?鏡を見るけど、別に変なところないよね?あぁでも…ファゴットさん、割と敏感だしなぁ。昼間泣いちゃったのバレたかな?
「はぁぁ…」
…やっぱり、改めて鏡見てみると、いかに自分が冴えない顔してるか丸わかり。なにやってるんだろう…いや、もう、あれはないよね。不可抗力だとしても。マリーちゃんもママさん達も、困ってたし。リリィちゃんも…なんだか、怒らせちゃったし。なんで怒らせたのかがわからないのが、一番いけないんだと思うんだけど…やだなぁ、私、こういうのへたっくそだ。
本当に、違うんだけどな。悲しいとか、辛いとか、苦しいとかじゃない。昼間、心の中にあったのは負の感情じゃなくて、嬉しい、楽しい、良かった、って、本当にそういう気持ちで満たされてた。嘘じゃない。
「………」
ーでも、リリィちゃんに「それだけなん?」って聞かれて、ドキっとした。
「…『守りたかった』」
結い上げていた髪をほどいて、簪を見つめて。そうして無意識に零れ出たのは、昼間に何気なく溢れていた言葉。耳から逆輸入されて、そうして、すとんと腑に落ちた。
「あぁ…そっかぁ」
自覚すると、案外、呆気なく受け入れて認めることが出来た。たぶん、押し殺そうなんて意識しないくらい、自分にとっては自然と心の奥に封じ込めていた時間が長すぎて、感情的になる時間はとっくに過ぎちゃったんだろう。悲しくも苦しくも辛くもない。ただ枯れ葉みたいに、とっくに時効になった想いの残骸の欠片が、はらはらと涙になって出るだけだ。
親のことは覚えていない。雪と裸足と寒かったことだけ。おばあちゃんとおじいちゃんだけが『家族』だった。三人で暮らしたあの空間は私の全てで、『あったかい家族』の象徴で、大切して守りたいと思った唯一無二の『家』だった。
明るい太陽や蛍光灯が苦手だった。喋るのも不器用だった。言いたいことが言えなくて、いろんな感情だけがぐるぐるして、それを我慢してだんまりしてしまう私と積極的に仲良くしたいとは誰も思わない。子供の世界ではありがちなこと。学校が終わったら真っ直ぐ家に帰ってきて、庭の木陰に逃げ込んだ。優しい木漏れ日に慰められた。夕暮れ、おばあちゃんとおじいちゃんは必ず私を見つけてくれた。
二人が亡くなった時、私は未成年の無力な子供だった。それだけの話だ。
家も遺産も全部取り上げられた。お願いします、やめてくださいって言っても、結局、ベキバキ壊された。取り縋って止めようとして殴られて、打ち所が悪くて、気づいたら病室の薬臭いベッドの上で二ヶ月後だったのは、守れなかった自分への天罰だ。
抗えるだけのお金も、権力も、地位も、何もなかった。親戚の家を転々としたけど、居場所と思えるところはなかった。
絶望。喪失。疎外感。あの時、ぐちゃぐちゃに渦巻くものを自覚していたら、潰れていた。だから押し殺して閉じ込めた。
早く自立して大人になりたかった。せめて、おばあちゃんとおじいちゃんに恥じないように、何にも負けないくらいの誇れる力が欲しかった。
実際にはそんなことできるはずもないのに、誰にも迷惑も心配もかけないで一人で生きてやるって本気だった。全部意地だった。相手は自分に何を期待してどんな価値を見いだしてるのか、いつもそんなことを意識して、応えて利害関係を築けるように振る舞った。いつの間にか口も達者になって、笑顔を振りまける大人になっていた。
バレリーナの道、大学に通ってからは猛勉強して起業の道や研究職の道、とにかく色んなことを我武者羅に模索した。だけど現実は厳しくて、しがない社会人の一人でしかなくて。一匹の黒猫を見つけるまでは。
まるで長い長いマラソンをしていたみたい。今、やっとスタート地点に戻ってきて、そこに封印して置き去りにしていたものを、ようやく静かに解放出来る。
守りたかったものがある。
大切にしたかったものがある。
この気持ちにつく名前は、たぶんー後悔、だ。
「ー…よし、反省会終わり」
ふぅ…泣き喚いたわけじゃないのに、涙が流れるだけも結構疲れる。喉渇いちゃった。でも、おかげで気持ちの整理整頓が出来た。…うん、今日はもう寝て、また明日のために気合い入れ直そう、そうしよう。でも、その前にちょっと何か飲みたい。あったかいもの。
「あれ、雨だ…」
私の部屋は二階にあって、階段を降りると、もう台所は暗くなっていた。いつの間にか降り始めていた雨の音を聞きながら、物音をあまり立てないように、そぉっとそぉっと忍び足。飲みたいのはもう決まってるんだよね。
小さな片手ホウロウ鍋と、ちょっと大きめのマグカップを用意。お鍋にマグ八分目くらいの牛乳を入れて、ひとつ分の卵黄を入れて、木じゃくしでよぉく混ぜる。そしたらトロ火。弱火じゃないよ、トロ火だよ、ここポイント。せっかちになっちゃダメ。
ゆっくりゆっくり、かき混ぜながら、とろみが出てくるまでじっくり温める。あ、なんか、真夜中にコレ作るの好きかも。この静けさとほんのり甘い香りがやみつきになりそう。このじっくり待ってる時間、なんか癒されるなぁ。飲み物を美味しく淹れるコツは、心を穏やかにしてまずは自分が癒されることだって、おばあちゃんも喫茶店のマスターも言っていた。
とろみが出たら火を止めて、空気を含ませるように細くゆっくり、マグに注ぐ。ここもポイント、焦っちゃダメ。注いだら、次は蜂蜜とブランデーをかき混ぜながら入れる。量はお好み。私は大匙一杯を同量ずつ。
はい、メリッサさん直伝、ホットミルクセーキの完成。簡単で美味しいよ。実はこのマグカップも、棚の奥に眠ってたから良かったらって頂いたものだったりする。陶磁器製で、ふんわりやさしい色合いの、手にしっくり馴染むお気に入り。
いそいそと部屋に持ち帰って、ベッドに座ってひと息。あぁ、あったまる…。
大丈夫。ここはあったかい場所だ。家族や家が、当たり前に大切にされているところ。二つの命が助かって、あの家も大切にされて、これからもなくならないで健やかにいられるんだって、それを美味しいお料理やお菓子やみんなの笑顔でじわじわ実感してきて…それが本当に嬉しくて、安心した。そうだ、これが本当の本当に、本音なんだ。あぁ良かった、気持ちを再確認出来て。
昼間は自分でもびっくりしちゃった。しどろもどろになっちゃって。でも、言ったことは間違えていなかった、良かった。モヤモヤしたままは嫌だし、これで心置きなく嬉し涙でした!って言える。…あ、安心したら急に眠くなってきた…。
バフンとベッドに転がって、簪を握ったまま目を閉じる。ファゴットさん、布団、干してくれたのかな。フッカフカで、お日様の良い匂いがする。あぁ、眠い…明日は何を作っていこうかな。マリーちゃん、また笑ってくれるかな。リリィちゃんも、ママさん達も、みんなも。
拝啓、あの頃の私。食の細いあなたの大好物は、一枚の蜂蜜バタつきパンでしたね。あなたは太陽が苦手で、喋ることも苦手で、いつも木陰に逃げ込んでいましたね。優しい木漏れ日にいつも慰められて、おばあちゃんとおじいちゃんが見つけてくれるのを、じっと待っていましたね。守れなくて悔しかったですね。大切に出来なかった自分を恨みましたね。泣くことをやめて、我武者羅に全力で走ることに決めたあなたに、今はまだ聞こえないと思うけど良い便りを届けます。ありがとう。あなたがいたから、今、私はとても幸せです。
§
「セリー姉ぇが泣いてる」
いつも快活な彼らに神妙な表情で言われて、一瞬、反応が遅れた。
振り返ると、幼馴染が不機嫌な顔で飛び出していくところだった。そして、窓辺から垣間見えたセリーの頰にひとしずくを見つけて足が動いた瞬間、「お待ち」と後ろから腰を何かで叩かれる。
「今、いたずらに行っても余計に混乱させるだけだよ」
「…だが」
「泣きたいときゃ泣かせときな。尤も、赤ん坊の方がよっぽど、上手く泣いとるがね。なんだろうねぇ、あのへたっぴな泣き方は」
ベルナールの祖母は杖に両手を乗せると、ふんと呆れたように溜息をついた。
「迷惑をかけたら、心配をかけたら、ワガママを言ったら、嫌われるとでも思ってるのかね、あの娘は。確かに役立たずの穀潰しは要らんがね。まったく、親の顔を拝んでみたいモンだーいいかいお前たち、よく覚えておきな」
年の功、というやつだろうか。実際には自分より彼女との付き合いの長さも会話の数も少ないはずなのに、遥かに理解している部分があるような気がしてならない。
「ヒトの心ってモンはね、悲しみや苦しみだけ消すなんて無理なんだ。幸せの隣には、必ず逆の何かがあるんだよ。それ全部まるごと本人だ。だからね、決して自分が解決してやろうだとか、背負ってやろうだなんて思わないことだ。本当に相手を想うなら、涙ごと守ってやる度量を身につけな」
ーー昼間のことがぐるぐるとどこかで渦を巻いて、既に真夜中だというのに寝付ける気がしない。仕方なくベッドから立ち上がると、気持ちのわだかまりのせいか、身体がひどく重く感じられた。窓の外は雨が降り始めている。
昔から大して変わらぬ簡素な部屋。数ヶ月前に持ち帰ってきて加わった剣は、闇に同化してそこにある。
「セリーちゃんは、この世界に来て、良かったのかな」
夕暮れを過ぎた時刻に嵐の兆候を気取ったため急遽、改修中のあの家の補強作業をしていた。赤子がすやすやと眠る中、ポツリと落とされた呟きは一滴の雨のようだった。
「私達は、次の『魔女』がセリーちゃんで良かったけど…でも、じゃあ、セリーちゃんは?セリーちゃんは、良かったのかな」
「マリー…」
「家族とか、友達とか…元の世界に大切なもの、きっとあったよね。それとお別れして…納得して来たんだとしても、でも、私だったらそんなこと、簡単に出来ない。しかも、たった一人でなんて、絶対に無理…今更、だよね、こんなの。可能性を、考えてなかったわけじゃないのに、今更こんなの、ずるい、よね…それなのに、セリーちゃんじゃないとイヤって思うなんて、もっとひどいよ…」
「あの人が、我慢して俺らと付き合ってるって思うか?」
「ううん…そうじゃないから、余計に、なんか…」
「まぁ、そうだな…いっそ理不尽だって泣いて喚いてくれた方が、わかりやすいっちゃわかりやすいわな。でもさ、マリー、セリーさんはちゃんと俺たちのこと、好きになってくれてるよ。それはわかるよな?」
「うん…うん、ベル。でも、でもね、セリーちゃんは笑っていてくれるけど、私達、本当にひとりぼっちにさせてないかな…?悩んでることとか、辛いこととか、見逃してないのかな…?」
金槌を握る手に無意識に力が入りすぎて、釘打ちを何度仕損じたか。無心になろうとしても、どうにも出来なかった。
彼女の涙の真相はわからない。もしかしたら、こちらが深刻に邪推するようなものではないかもしれない。ーそれでも、初めてセリーの涙を垣間見て、信じられないほど突き刺さった。
仮に今回はなんでもなかったとして、だが、この先の保証はない。自分の与り知らぬところで彼女が泣くことがあるかもしれない、その可能性を想像しただけで、自分のどこかがグシャリと潰れるようだ。
「ーっ」
拳を壁に打ち付けたところで、何の意味も為さない。
剣があっても魔術があっても、守れなければ塵屑と同じだ。
自分は、どうあれば良い。
「リュート?入るわよ」
はっと我に返って振り返ると、手燭を持った母がガウン姿で戸口に立っていた。にこりと微笑むと、こちらがロクに反応出来ずにいるのをお構いなしに、近づいて手を伸ばしてくる。
「良い子ね、リュート」
「…急に、なんだ」
「急じゃないわよ?私達の可愛い息子。産まれた時からずっと、良い子」
歌うように言いながら、頭に置いた手でゆっくりと髪を撫で付けてくる。まぁ、確かにこの人は昔から、特に意味もなく無愛想な息子に親バカを発揮してはこういうことをしてきたが…これまで特に気にしたことはなかったのに、今されるのは、何故だか辛い。
「リュート、どうしたの?」
決定打だった。
母親という存在は、こうもズルいものなのか。
母はずっと、大丈夫、大丈夫、と唱えて、気づけば部屋にはまた一人になっていた。手には、いつの間にか温かいマグカップが持たされている。…まさかこの歳になって、こんな風に甘やかされるとは。
幼い頃は苦手だとばかり思っていたホットミルクセーキは、不思議と落ち着いた。