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0.《序》

 


 仕事をやめた。


「はぁぁ…疲れたぁ」


 音が聞こえそうな月の夜。


 数年前に新たに開通した都心線の電車に揺られ、帰宅ラッシュには痴漢する気力もないのか何事もなく、同じ東京だけどのんびりとした時間が流れる町に帰ってきた。暴漢注意の立て看板や「神の教えを学んでみませんか」云々と志高く呼びかける女性の横を通り過ぎて、駅前の煌々とした明るさから離れる。疲れた目に蛍光灯の光は毒だ。



 〜おばあちゃんとおじいちゃんの蜂蜜バタつきパン〜



 ふわ、と香ばしい匂いにつられて、ほんの少しだけ歩調を緩めた。


 全国系列ではない、出入り口上の赤いオーニングと、にゃんと手招いてる黒猫の看板が目印のパン屋さん。バリエーション豊かなもっちりとしたベーグルが売りで、バケットサンドやドイツパン系統も置いてあるから、小さいながらご近所ではなかなか人気なお店だ。

 かくいう私も、物心ついた頃からここのパンは大好物だ。今度はどんな味のベーグルが出てるのかとワクワクするし、具沢山のバケットサンドはお腹に満足、食べやすいドイツパン系統は家に帰ってからチーズやジャムを添えれば立派なブランチになる。


 でも、一番の大好物は、蜂蜜バタつきパン。


 定番のバゲットでも食パンでも、カンパーニュでも何でも良い。スライスして熱々にトーストしたのに厚切りバターを乗せて、とろりと蜂蜜をかける。これはおばあちゃん直伝。スライスしたのにバターを乗せて蜂蜜かけて、それからこんがりと焼くのはおじいちゃん直伝。焼き加減は、バターの塊がまだ少し残ってて、溶けたバターと蜂蜜がジュワジュワ、パンに染み込んだくらいが良いぞって言ってた。


「ほら、たんとお食べ。大丈夫、もうさびしくないからね」


 そう言って、私を引き取ってくれた日に、何よりも一番に食べさせてくれた味。おじいちゃんとおばあちゃんの大切な味。


 昔、まだ小麦粉をメリケン粉、ワインをブドー酒って言ってた頃、外国の料理への憧憬で一番庶民的だったのがバタつきパンだったんだって。戦後の貧しい時で、粗悪品のバターと砂糖をボソボソのパンにそのままふりかけて。

 まだまだ外国っていうのはずっと遠くの異世界のようなもので、絵本や洋書に描かれた未知の美味しそうな食べ物にワクワク心を躍らせていた時代だった。バターを塗ったパンもそのひとつ。でも、原書では「bread and butter」だけど、翻訳ではバターブレッドじゃなくてバタつきパンって表記されてたみたいで。「やっぱり、美味しいバターと蜂蜜が良いわね」って、はぐはぐ夢中になって食べる私の頭を撫でながら、そんな昔話をしてくれたっけ。


 ひと口目が勝負。行儀が悪いなんて言わないで、思いっきりかぶりつく。口や手がベタベタになっても気にしない。小麦の香ばしい美味しいパン、厚切りバターのコク、とろりとした甘い甘い蜂蜜。もうね、このハーモニーが本当に美味しくて。「こういう味わいの妙を、マリアージュって言うのよ」って、ちょくちょく豆知識教えてくれたなぁ。

 どうしても食が細かった幼い私は、これが大好きだった。もちろん今だって「無人島に何か持って行くなら?」蜂蜜バタつきパン。「人生最期に食べるなら?」蜂蜜バタつきパン。「もし今日で地球が終わるなら」蜂蜜バタつきパン。我ながらどれだけ執着してるのって感じだけど、それくらい好きなの、わかる?おむすびでも好きだけど、私のソウルフードはこれ。


 そろそろ閉店時間のはずだけど、明日の朝ごはんのためか今日の夜食のためか、ご近所のママさんや帰りがけのサラリーマンの人達が出入りしている。うずうずしながら、夜空を見上げた。


「仕事…いっそ貯金はたいて、念願のヨーロッパ行っちゃおうかな。ワーキングホリデーとか…うん、それも良いかも」


 おばあちゃんに習ったバレエで食べていかれれば良かったんだけどね、そんなに甘くないわけですよ。狭き門ってやつ。シビアなところが魅力のひとつでもあるんだけど。だからこそ、誇り高い伝統として継承されてるのだと思うし。


 いろんなコンクールに挑戦して入賞もした。いろんな舞台を鑑賞して、有名な振付師の人や演奏者の人とも知り合って勉強するように努力した。勉強のためって楽器や日舞にも触れてみているうちに、バレエのためだけじゃなくて、昔からずっと大切にして守られてきた伝統文化に魅了された。踊りも音楽もない世界なんて考えられない。だから、バレリーナの道は叶わなかったけど、何かの形で関わりたくて頑張った。おじいちゃんが応援したおばあちゃんが夢を叶えて、私に教えてくれたもの。


 大好きな二人に大切に育てられた。蜂蜜バタつきパンも踊りも、二人が私に残してくれた活力の源だ。


 でも、現実は厳しいわけでして。憧れの夢や目指してきた仕事はそれなりにありつつ、その他大勢に埋没しているしがない社会人の一人。物語で言えばモブですらない。背景になっていれば良い方だけど、それもない。大学を卒業して、都内の高級ホテルに併設されている老舗喫茶店で働いてきて、五年とちょっと。


 不満ではないけれど、満足でもない。そんな暮らし。


 というか、不満なんて贅沢なことを言っていたらバチが当たる。世の中、好きなこと、憧れたことを仕事に出来る人なんてほんの一握りだ。仕事があるだけ有り難い。生活費を稼がなければならないし、なにより税金。文化的な生活を守るためには納税義務を果たさなければならないのだから。

 良いではないか。一応の収入があって、休日もあって、ささやかな趣味もある。そんな七、八割の満足。そうやってみんな、妥協と割り切りで生きている。その中でベストやベターを目指す。それはきっと手抜きや怠惰とは違って、堅実や健全というものだ。


 それに、あの喫茶店はとても良い職場だった。ジャズじゃなくてクラシック音楽が静かに流れていて、上品な紅茶や珈琲の香り、アンティークな内装や食器類、ドライフラワー、ヨーロッパの画集や写真集が置いてある。密やかな名物は裏メニューのバターシナモンシュガートースト。あれも美味しいよね。きび砂糖がポイント。実は珈琲はカフェインのせいかお腹が痛くなっちゃって飲めないんだけど、香りが凄く好きだから喫茶店って落ち着く。飲み物の芳香ってそれだけで癒されるから不思議だ。


 マスターも他のスタッフもお客様も、ホテルの質に見合った良識的な人達ばかりで、仕事はそれ相応を求められるから厳しいところも沢山あったけれど、だからこそやり甲斐があった。最初は妥協で決めた職場だったかもしれないけど、真剣に向き合うほどちゃんと誇りも生まれた。


 半年も経てばホテルのオーナーや常連さんには顔を覚えて頂いて、誰よりも背筋が綺麗で見ていて気持ちが良いって褒められた。まるでおじいちゃんとおばあちゃんを褒められてるみたいで、二人がちゃんと私の中で生きてるんだって実感できて、その時ばかりは「ありがとうございます!」って思いっきり元気に返事をしたもんだ。えへへ。


 だから、仕事をやめたのはつまらないとか飽きたとか、そういうことではなくて。クビになったわけでもない。彼らには家庭事情で引っ越し、と一身上の都合を話した。

 まさか半年前にクビになった先輩から、セクハラとストーカー行為を受けているからとは言えない。職場も利用沿線もバレている。どうにか出来ないかと画策してみたけど、これはまるっと生活圏を変えた方が良いと判断した。だから引っ越しの口実はあながち間違ってはいない。


 良い職場だったから、手放すのはとても悩んだけど、背に腹は変えられないよね。無言電話や差出人不明の手紙が届いてからじゃ遅い。自意識過剰で終わるならそれで良い。警察沙汰にならないうちに、お互いの人生からさらりといなくなるのが賢明だ。


 あぁ、疲れたなぁ。


 いろいろとひと段落して、だからなのか、今夜はパン屋さんの匂いがいつもより心に沁みる。見上げた空の満月は、今日は少し赤みがあってちょっと蜂蜜っぽい。あぁでも、おばあちゃんの簪の琥珀珠にも似てるかな?


「おばあちゃん、おじいちゃん、今日も見守ってくれてありがとう。明日からも頑張るね」


 仕事中はつけられないし、ラッシュの電車の中で落としたら大変だからね。カバンの中から細長い桐箱を取り出して、しまっていた簪をそっと手にとって念じる。…よし、今日もおつかれ自分!


 さて、縁起担ぎにバゲットか何か買ってこうかな。いやね、いくら大好物だからって毎日は食べられないわけですよ、一人暮らしのお財布事情としては。だってそれこそ、お米炊いておむすびの方が経済的だし、社会人になってからは朝食抜き派だったし。でも明日はもうゆっくり出来るよね。

 そうだ、奥さん、赤ちゃん無事に産まれたかな?うん、やっぱり挨拶がてら買おう…って、あらら信号赤になっちゃった。そういえば、パン屋さんで宅急便をしてる魔女っ子のアニメもずっと見ていない。あれも癒される。というか見たら絶対にパンが食べたくなるよねあれ。ちなみに大中小の森のカミサマの話も好き。あれは採れたて新鮮野菜が食べたくなる。よし、青。


 にゃぁ、と声が聞こえた。


「あ、黒猫」


 パン屋に黒猫。もうあのアニメしかなくない?ご褒美かな?野良かな。飼い猫かな。首輪はついてないみたいだけど。ていうか、黒猫は不吉とか言ったの誰?こんなに可愛いのにバチ当たりめ。あ、目が合った。


「……は?」


 頭の上で雷鳴がした。

 そんなバカな、と見上げたら稲妻と竜巻が見えた。は?とも言えなかった。あんまりの光景にフリーズする。嘘でしょう。だってさっき満月見えてた。疲れた目を休めるために星を見上げて帰ろうと思っていたのになんで?疲れすぎて幻覚?天気予報外れ?いやこれそういうレベルの話じゃないよね…!?


「ーーーーーーーッ」


 地面を抉る轟音、誰かの悲鳴、瓦礫の衝撃。世界が崩れ落ちる。退社したから保険何もないけどどうしよう。最期に蜂蜜バタつきパン、思いっきりたくさん食べたかったなぁーかなり切実にそんなことを思いながら、私は意識を手放した。



 拝啓、大好きなおばあちゃんとおじいちゃん。あなた達の可愛い孫娘はもうそっちに行くみたいです。怒っても良いけど、また頭を撫でてくれると嬉しいな。



 §



 今日も来ている。


「いらっしゃい」

「こんにちは」


 足元に黒猫を連れた彼女は、はっきり言って年齢不詳だ。

 いつも外の通り道からガラス窓越しに、目を輝かせる。ほぅ、と聞こえないはずのため息が聞こえそうだった。その面差しは、道端の花や青い空に恋するようだ。


 王都のベーカリーと比べて、品数も種類もそこまで多くはない。家族で作れる分だけ、この土地の小麦の味わいを大切に作っている。並べているのはどれもこれも全体的に茶色く、見栄えがするとは言い難いものばかりだ。

 真っ白に精製した小麦粉にバターやミルク、砂糖をふんだんに練りこみ、見た目も味も華々しい人気店のものに飽きた、どこかのお嬢様かと最初は勘ぐった。足元の黒猫で、違うようだと直ぐに知れたが。


 そうして思う存分、何かを堪能してから控えめに店の中に入ってくる。母と穏やかに言葉を交わす声音は落ち着いた妙齢のもので、その瞳は知性を感じさせた。そんな不思議な女性だ。


「いつもありがとうね。はい、これおまけ」

「ジャムと…蜂蜜?」

「そうよ、知り合いのね。そのパンにも合うから、食べてちょうだいな」

「ありがとうございます、頂きます。…キキ、行こっか」


 十㎏の小麦袋を肩に担ぎあげたところで、目が合う。最初から思っていたが、彼女の礼は綺麗だ。軽い会釈だが、なおざりな感じがしない。すっと伸びた背中と首筋を見つめた。

 今時珍しいクラシカルなスカートが、さらりと静かにひるがえる。今日は落ち着いた海の色だ。一昨日は若草色だったか。あの型は確か、随分と昔に廃れた伝統衣装だと記憶している。…なるほど、小森のほとりにある修道院の、シスターから譲られたのかもしれない。足首までさらりと流れる、スッキリとしたデザインがよく似合っている。ちらりと見えたのは包帯だろうか。


 彼女がウチに通い始めて、ひと月が経つ。


 小さな蔓編みの籠に入るだけを買い求めて、今日は母が渡した蜂蜜とジャムの瓶をいそいそと大切そうに抱えて、また黒猫と一緒に帰って行った。今日は日差しが強いから、ツバの広いキャペリンハットは彼女の肌を守るだろう。それにしても、あの蜂蜜はかなり貴重な薬木から採れたものでそうそう手に入らないものだが、母は随分と彼女を気に入っているらしい。


 そんなに控えめにしなくても、もっと好きなだけ買っていけば良い。そう思いつつ、あれくらいの量なら二日か三日後にまた、顔が見られるだろうという打算的な考えがよぎる。…我ながら不純だな。


「今日は、体調が良いみたい」

「それは良かったなぁ。店の前で倒れられた時は肝を冷やしたよ」


 なんだそれは。というか、いつの話だ。


「雨の日にね、今日はもう店仕舞いしようかと思ってたら、その日も来たんだけど。風邪を引いちゃってたみたいで、ふらふらって」

「そういえば、その時にあげたホットミルクセーキに入れたのも、さっきの蜂蜜だったなぁ」

「あれは特効薬よね。効いて良かったわ」


 聞けば、偶々留守にしていた日のことだった。呼び出した騎士団の連中を思い浮かべて睨む。本当に今更何の用だ。それと、風邪を引いているのに出歩くとはどういうことだ。


 ここ、ミューゲは小さな村だ。良く言えばのどか、悪く言えば少々寂れている。とはいえ、自分はそれを厭うたことはない。嫌って出てゆく若者もいるが、華々しいこともない分、争いごとも控えめだ。

 それはあの小森の存在のせいでもあるだろう。下手に刺激して天罰を喰らうのは御免と、内政も落ち着いている。


 小森は精霊を養い、この世界の森羅万象の均衡を支える要所のひとつ。番人の黒猫と、黒猫が選りすぐった『魔女』の存在が、その象徴だ。


『魔女』の次代が現れた、という噂は緩やかに、しかし確実に広がった。田舎らしく騒ぎ立てなかったのも、あの黒猫に一目置いている昔からの慣習ゆえだろう。ただそっと見守っている。

 しかし、共に歩いていれば目につく。まるで牽制のように足元にいるが、対して彼女自身は周囲の反応をどう思っているのだろう。


「ねぇリュート」

「なんだ」

「これ、あの子のかしら?」

「…なぜ俺に」

「だってアナタ、よく見てるから。確認よ」


 数日後の夕方。

 苦虫を潰したような顔になっているのを自覚しつつ、母の手にあるものを見る。髪飾りのようだ。そこの道端に転がっていたらしい。見覚えはあった。


「じゃあ、次に来た時にちゃんと渡してあげないとね。それとも、リュートが届けてみる?」


 そもそも小森は不可侵領域だろう、と言えば、あらそこは恋の力とかじゃないの?とトンチンカンなことを言う。そういえばこの人はロマンスが好きだったな。

 からかってくる母に溜息をつきながら、夕飯の準備に取り掛かった。

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