第一章~希望の日~
「……綺麗だ」
黒の目の前には、白く咲き乱れた雪の花が、一面に広がっておりました。
「……そうか、俺は死んだのか」
どこまでも幻想的なその光景は、この世の物とは思えぬ程でした。
「これで、ようやく楽になれる……」
黒は歩み出そうと立ち上がったところで、何者かの気配を感じ、振り返りました。
「誰だ」
現れたのは、白い少女。その少女は、雪のように、淡く、儚げに微笑みました。
「お前は……」
黒は少女に見覚えがある、ような気がしました。
「お前が楽園の案内人か」
少女はきょとんとしました。そして、しばし見つめ合った後、少女が口を開きました。
「楽園…?ここは、ただの宿屋ですけど……」
「宿屋、だと……?」
黒が見渡すと、そこは確かに宿屋の一室でした。
「……また、死に損ねたか」
黒は自嘲しました。
少女はそれを困ったような顔で見つめていました。
「それで、お前は何者だ」
「私は、真白といいます」
真白という名の少女。おそらく十五、六歳くらいの外見。
背中まで真っ直ぐ下ろした白い髪。瞳の色は、澄んだ水色。
その姿は、雪と氷を思い起こすようでした。
「……お前、雪女か」
「そうです。この"雪風荘"という宿を経営しています。よろしくお願いいたします」
真白は再び微笑みかけました。しかし黒は警戒していました。
「お前も…俺を喰うつもりか」
黒は、もけに喰われかけ羅刹化した際に、自我を失いましたが、記憶までは奪われませんでした。
そして、もけや千鶴の事を思い出し、真白に対しても敵意を込めて睨みつけました。
しかし真白はというと、
「喰うつもり……じゃあその腕も、もしかして……?」
怯えるどころか、黒の心配をしました。
「いや……、この腕は斬られて………っ!!」
右腕の斬り落とされた痕が、痛み出しました。
「だ、大丈夫ですか!?」
真白が黒に駆け寄り、痕に手を当てました。すると……
「な…何をする……」
淡い光が、真白の手からぽうっと溢れ、
「痛みが…引いていく……?」
その温かな光は、黒の痛みを癒していったのです。
黒は自分の身体を見ると、千鶴の羽根で切り刻まれた傷や、もけに貫かれた腹の穴は、すでに消えていました。
「治癒の力…だと」
右腕があった痕も、傷口自体は消えておりました。
「お前は一体……?」
「……ごめんなさい。腕の再生までは出来なくて…。この力は、傷口を治したり、痛みを和らげたりするだけなんです……」
真白は泣き出しそうになりながら、黒の治療を続けました。
「……わかった、もういい。もう大丈夫だ」
黒は戸惑いました。
「…本当に、ごめんなさい。」
真白は、真っ直ぐに黒を見つめて言いました。
「何故謝るのだ……」
黒は不思議と、目を合わせられませんでした。
(こいつといると調子が狂う……早く出て行かなければ…)
黒は急ぎ足で部屋を出ようとしました。
「あっ……待ってください」
「何だ。悪いが金は持ってない」
「あの…お代は結構です。でも、せめて名前を教えてもらっても……」
「……黒。黒い鬼の、黒だ」
黒は振り向かずに答えました。
「黒…さん。もう少し休んでいった方が……」
「断る。どれくらい眠っていたか知らぬが、もう十分だ……。世話になった」
しかし黒は、足元がふらつきました。そして……
ばたり。
「く…黒さん!?大丈夫ですか!?」
「…………………腹が、減った」
真白は急いで厨房へと向かいました。
「食事をお持ちしました…食べられますか?」
「余計な世話だ……だが頂く」
黒は、真白の料理を手に取りました。
「何だ…この物体は……」
「それは"だまっこ"です。お米を丸く握っただけの物です……ごめんなさい、今はこれくらいしか無くて…」
「構わぬ…、今は腹に入れば何でもいい……。肉を喰う気は当分起きないが」
黒はだまっこを一口かじりました。
「……美味い」
特別な具など何も入っていない、ただご飯を丸めただけ。
黒はそれが、たまらなく美味しいと感じました。
「良かった…でも鬼は、肉を食べないと生きていけない、と聞いたことがあります……。肉を食べる気にならない、とは一体……?」
黒はだまっこを次々たいらげていましたが、真白の疑問に食べる手を止めました。
「あの……話したくなかったら、無理にとは言いませんが、出来れば聞かせてもらえませんか?何があったのか……」
「…………………」
しばらく沈黙が続いた後、黒は口を開きました。
「………いいだろう、話そう」
黒はこれまでのことを全て話しました。
記憶のない状態で牢獄にいたこと……
桃太郎に助けられ、裏切られ、殺されかけたこと……
千鶴に鬼の肉を喰わせられ、腕を落とされたこと……
子供の肉を喰らう子供を殺したこと……
そして、そのまま羅刹と化したこと……
「喋り過ぎたな……、つまらない話だっただろう」
それを聞いていた真白はというと……、
ぽろぽろと、涙をこぼしていました。
「な……泣く奴があるか」
「そんなの……………悲しすぎるよ」
「……兎に角、これだけ絶望にまみれた俺には、これ以上関わらない方がいい」
「でも、放っておけません……」
「……お前も真実の絶望を知ることになるぞ……。いや、この世界には、最初から絶望しかないのかもしれぬ」
「そんなことない!!」
真白が大きな声を上げました。
「いえ……そんなことありません。確かに生きていれば、楽しいことより辛いことの方が、ずっと多いです」
黒の瞳を真っ直ぐ見て、真白は続けます。
「それでも、この世は決して絶望なんかじゃありません。希望も必ずあるんです」
「………下らんな、俺はもう行くぞ」
「でも…行く宛てはあるのですか……?」
「どうせ希望などありはしない、死に場所を探すだけだ……」
黒は足早に宿の外へと歩き出しました。
そして扉を開くと、そこには……
「ここは……」
少し肌寒い風に、眩しい陽射し。
青く澄み渡った空と、地平の彼方まで続く、雪の花。
「ま……待ってください……」
真白がぱたぱたと走ってきました。
「俺は、また幻影を見ているのか……」
「?この雪の花なら、ちゃんとそこに咲いていますよ?」
「……そうか。こんな光景が、世の中にあったのだな……」
黒は少し顔が綻びました。
「……綺麗だな」
「ふふっ、綺麗ですよね」
真白も微笑みました。
「可笑しいな……"希望"など何処にも無いはずなのに……」
黒が誰にともなく言いました。
「今、希望が見えた気がした」
「それじゃあ……」
「もっと生きてみよう、と思う」
___何も、見えなかった。
暗い、暗い牢獄を抜け出してからも、ずっと闇に覆われたまま。
闇は深くなるばかり。闇とは人間の黒い部分。
いつしか人間が犇めく、この世界そのものが闇であると考えるようになった。世界は闇だ。暗闇だ。
たとえ妖怪でも、己と同じ鬼であろうとも。
もう期待しない。光を与えてはくれない。
だから羅刹と化したあの時、いっそ全て忘れられたならば……
しかし不思議な事に、記憶は残ったまま。多少、混濁してはいるが。
さらに、何故あんな言葉を口走ったのか。
"俺はまだ生きている"
と。
死ぬべきだった。忘られぬなら、死ぬ他はなかった。
なのに何故?
(嗚呼、そうだ……)
答えは単純、希望があると信じていたから。
希望など捨てた、捨てたつもりでいた。
だけど違った。
扉を閉ざしていただけ、希望の扉を。
果てしなく、雪色の花々が続く光景。
それよりも白い、真白という少女。
何よりも白い少女。
その小さな笑顔を見た、それだけで……
「いや、今のは間違いだ」
「?」
「生きたい……生きていたい!!」
それだけで、扉は開かれました………!