奥さん、八月九日はハグの日なんですってよ! あらやだ! なんでも屋アールグレイ編
旗戦士先生の『なんでも屋アールグレイ-The Shadow Bullet-』より、グレイさんとシエラさんをお借りしました。
是非、本編をご覧下さい。
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「八月九日はハグの日なんですって!」
「唐突だなあ。どこがどうなったら九日がハグの日になるんだ」
グレイはよく冷えた事務所の、さらによく冷えた事務机で電卓を叩いていた。電卓の数字は、抱えている従業員への給与支払い額を表示している。
意識はすっかりその数字に向いていて、真横で何故か力説するシエラの言葉も半分ほどしか耳に入らない。
「日本語の言葉遊びなんですって。えっと、『ハチ』と『キュウ』だったっけ……」
「ああ、それでハグか。日本人ってのはそういうの好きだよな」
危うく、電卓に8と9を入力しそうになって慌てて指を止める。一度手が止まってしまうと、途中からどうのこうのと弄るより最初からやり直した方が速い。グレイは電卓の数字を全て消してしまうと、そいつをデスクの端へ放り投げた。
「あー休憩。もう休む。休むったら休むぞぉ」
凝り固まった背中を目一杯伸ばして首を左右に曲げていると、それはもう物理的に突き刺さりそうな視線を感じる。
「……どうかしたか?」
「っあー! もう! 人の話を聞きなさいよ!」
シエラは何故か知らんがすごい剣幕である。なので、大人しくそのありがたいお話を拝聴することにする。きちんと体をシエラに向けた。ただし、座ったままだが。
「はい! もう一回お願いします先生!」
「うむ、良い態度だ。では、もう一回言ってしんぜよう。本日、八月九日はハグの日である」
そうおどけて言いながら、シエラは事務椅子を回してグレイの背中を自分に向ける。次に、その背中に抱きついた。
「なので、最近お疲れ気味のグレイくんにハグをしてやろうというのである。ありがたく思い給え」
シエラは立ったままなので、自動的にそのやたら豊満な胸が後頭部に直撃するわけであって、勿論まんざらでもないグレイである。
だが、そんな感触を提供するためだけに彼女が抱きついてくるとも思えない。
「なあ、どうかしたか。何か、気になることでもあったか」
図星であったらしい。さっきのおどけた態度も何か不安をごまかそうとしている結果だ。シエラは返答をする代わりに、肩に回した腕によりいっそう力を込めた。まるで、縋り付くように。
グレイの胸の辺りで、自分の左手を全力で握る右手。離さないという強固な意思。強いその力に指先が真っ白になっている。
組み合わされた両手にそっと触れて、グレイはシエラの暖かさを知る。
「何でも良いからさ、言ってみろよ」
「……消えちゃいそうな、気がしたの」
か細い声。言葉にすることすら恐れる、その心。
「私だって、なんでそんなこと思ったのか分からない。でも……グレイ、貴方が突然、消えてしまいそうな気が、して」
シエラの暖かい手に対して、自分の手のなんと冷たいことか。
そうだ。自分はいつ消えてもいいと、思って、いる。果たすべきことを終え、そしてこの暖かい夢から醒めたら、何も残さず、朝靄の中へ。
愛しい人と、気の良い仲間と、いつも楽に済ませられるわけではないが仕事があって、城とは言い難いが事務所を構えて、これ以上何を望むのか。
こんな暖かすぎる、夢。
「消えてしまうなら、私も連れて行って」
シエラの放った言葉に思わず立ち上がった。小さく悲鳴を上げるシエラ。振り向く。目が合う。腕を掴んで己の胸へと引き寄せた。抱きしめる。強く。
腕の中の彼女は一瞬身を強張らせたが、すぐに腕を背中に回してきた。額をグレイの胸にこすりつけて、少しだけ、俯く。
「俺はここにいる。ここにいるから」
「……うん」
「分かるだろ」
「…………うん」
誰に言い聞かせているのか。
ただ、互いを抱きしめる腕の強さだけは真実だ。
「俺は、ここに、いるんだ」
シエラは余計にしがみついてきて、グレイはただ黙って、彼女を抱きしめ返すしかできない。
抱きしめていてくれ。たとえ、それがただの残響であったとしても。
副題「ECHOES」 完