潜入計画
「じゃあ皆さん、今回はここまで。次回は資料を使うので、必ず忘れないようにして下さい」
教授の講義が終わり、生徒達は三々五々テキストを片付け席を立つ。
1コマ90分の授業というのは、まだ馴染みがないので苦痛に感じてしまう。
つい眠気に負けて舟を漕ぎかけては頭を振るのを繰り返す。
―― やっぱり昨日の酒がまだ残っているのかもな。
あの後地図を頼りに家まで辿り着き、身支度を整えて登校した。
間に合って本当によかった…。新学期始まって初めての講義に遅れるなんて縁起でもない。
まぁ、高校とは違って自由に教科を選択するのだし、クラスという単位もないのだからそれほど関係はないのかも知れないけど。
自分も本日最後の授業テキストを鞄に詰め込み立ち上がると、そこに一人の女生徒が近付いて来る。
「渡辺くんお疲れ様。昨日は大丈夫だった?」
そこに居たのは、昨日浴びるほど飲んだ原因となった彼女 ――溝口 理恵―― だった。
まだ全くと言っていいほど、心の傷は癒えていない。勝手にトキメいてしまう自分の胸を抑え、内心の動揺を顔には出すまいとやせ我慢で作った笑顔は、果たして成功したのだろうか?
「心配してくれてありがとう。なんとか、ね。そっちはどう?」
努めて平静な声が出たようでほっとした。
よし、これなら僕の気持ちには気付かれていないはず。 …ていうか、何故僕と同じ講義に出ていたのだ?昨日の様子では、先輩だと思っていたのだが。
履修科目によって教室を移動するんだから、クラスや学年が違っていても不思議はないのか、と思い直す。
「もう、終電に乗り遅れちゃって大変だったのよ~。だから責任持って車で送ってもらったんだけどね」
ね、と可愛くウインクされたくらいで脈打つ心臓。自分の純情さが憎い。
昨日ずっと隣に居た、例のカレに送ってもらったのだね。むしろ、朝まで一緒だったとか?
などと勝手な想像をして一人で落ち込んでしまった。
「この後予定あるの?良かったら一緒にサークル行かない?まだ説明とか色々あるからさっ」
この笑顔が人のモノでさえなければ、一も二もなく付いて行くというのに…。
「悪い。この後寄るとこがあって、一緒に行けないんだ」
「そっか~、なら仕方ないね。明日は一緒に行ける?」
なおも誘い続ける彼女に、心が鷲掴まれてしまう。こんなモロどストライクの子に、ここまで熱心に誘われるなどついぞあり得ない事なのに、昨日の今日で簡単に気持ちを振り切る事が出来ない僕を許して下さい。
正直このまま毎日のように、仲良さげな二人を見続けるなどという拷問は勘弁願いたいのだ。
なにか、参加しなくても済むような、不自然でない言い訳は……う~ん。
―― そうだ!
「この後バイトの面接があってさ。もし通ったら明日からそこで働きたいんだよ。だからしばらく忙しくなるからなかなかサークルには顔出せないと思うんだ」
おおっ!我ながらなんという完璧なディフェンス!
これできっと明日からも誘われることはないはず…。
「ふぅん。どこでバイトするの?」
え? そこ聞くの? えっと、えっと…。
「……カ、カフェっていうか、喫茶店なんだ。僕珈琲好きだから」
「そうなんだ! 私もカフェ大好きなの! そこのバイト通ったら教えて? 絶対行くからさ!」
なんとか絞り出した言い逃れが、あれよあれよと言う間に引けないところまで来てしまった…。
僕の返事は、ここまで来てしまえば「もちろん」の一択しか用意されていない。下手な考え休むに似たり。これからどうやって彼女に恥ずかしくないカフェに潜り込むか、という課題が出来てしまったようだ。
僕はご機嫌になった彼女に手を振り途方に暮れる。
―― そうだ、昨日お世話になった【あ~る珈琲】 まずはお詫びがてら、あそこにお願いしてみようか。
優しそうな微笑みの店長と、素晴らしい珈琲の風味を思い出し、一人にやける。
これは不可抗力だ。自分があの珈琲を毎日飲めるから、だなんて考えて選んだわけではないのだ。
改めて自分の心にそう言い聞かせながら、手土産に持参するものを考えつつ駅へ向かう。
********** 理恵 side **********
渡辺の後ろ姿を面白そうに見遣り、数冊のテキストを抱え直し、足取りも軽く友人に合流する。
「理恵、今のって誰?」高校の時からの親友、伊藤美鈴が興味津々の様子で顔を覗き込んで来た。
「ん、りんちゃんか。あのね、昨日知り合った同じサークルの子なの」
「早速新しい男を捕まえて来るとか、ほんと理恵ってば……」
「もう! 変な言い方しないでよね! さーやがびっくりしてるでしょ! ……そんなんじゃないから、誤解しちゃダメだよ?」りんちゃんの言葉に目を丸くする 前山沙也加。
さーやとは入試の実技で知り合ったばかりなので、まだそれほどお互いの事を知っているわけではない。しっかり者のりんちゃんと、のんびり屋のさーや。付き合いは始まったばかりだが、結構いい感じなのだ。出来れば変な誤解の目で見られたくないところである。
「理恵ちゃんは可愛いから、男の子が寄って来るでしょ~」
「そりゃあ、もう、いい男から変なのまでよりどりみどり!」
「ちょっと! りんちゃんてば変なのって何よ!」
「あはははははっ!! ごめんごめん。」
明らかに面白がってからかわれているのが分かりふくれてみるが、まぁりんちゃんのいつもの調子なので、あまり怒る気にもならない。
「でも理恵のフェロモンはすごいなって思うよ。嫉妬するのもバカバカしくなってくるぐらい」
「へぇ~やっぱりね~」
「渡辺くんは、ほんとそんなんじゃないからね! 結構話が合うんだよ。あんまり男の子って意識せずにしゃべれるっていうか……」昨日の渡辺くんの様子を思い出しながら話す。
ほんとに、昨日初めて会ったにしては、全然構える事なく自然に話せる相手だった。何気なくサークルに誘ってはみたものの、正直新歓コンパはあんまり行きたくなかったのだ。いとこの泉雄介(ゆう兄)に頼まれて、新入生を何人か誘って参加しなければならなかった。サークルには、ゆう兄に誘われて何度も足を運んだ事があったので、顔見知りは何人も居たのだが、理恵自身あまり酒が好きではない。実はお酒がかなり強いので、なかなか場の空気に馴染めず、置いてきぼりな気持ちになってしまうのだ。
まぁ、それでも新しい友達も出来たし、色んな事を話し親睦を深める事が出来たのでよしとする。
「それにしても、みんなコロッと騙されるよね~。面白いぐらい」
「えっ? なぁに?」
「あのね、理恵ってばこんな可愛い顔して……」
「うんうん! 」
「っや!! ちょっと! まださーやには言ってないんだから、勝手に言っちゃダメーーーっ!! 」
三人の楽し気な笑い声が、春の日差しの降り注ぐ中庭を通り過ぎて行った。
※2017年 01月18日追記
理恵視点の部分を追加しました。