水面に映る彼と彼
『人取り川』
私の家の近くに流れる川の愛称だ。
名の通り、この川は昔から沢山の人を取ってきた。
戦国時代には、ここで戦が起きると必ず片側の圧勝で終わり、そちらには敵だった兵が沢山集まり味方になるという。つまり相手から人(兵)を取るのだ。
その他にも、大洪水が起きたり自殺に使われたり……。
最近の噂では、この川にかかる橋の上で告白すると必ずフられるだとか……まぁ色々。
そんなくだらない、と思う人もいるだろう。しかし、昔から『人取り』と言われるだけのことはあるのだろう。
私もこの川に人を取られたことがある。
兄だった。
まだ私がこの世に存在していなかった時、この川は私から兄を取った。
簡単に言ってしまえば流産と言うわけなのだが、それがなぜ川のせいなのか。
兄は生きていたその最期まで元気だったという。
その日母は父に送られ病院に向かっていたという。大事な日で、必ず病院に行かなければならなかったと。
ただ、その日は酷い雨で人取り川にかかる橋が封鎖されていたそうだ。……そこを通らなければ病院には行けないのに。
困り果てていたところに母の容体が急変して……
後一歩遅かったら母すらも命を落としていたという。何とも皮肉な話だ。
その後、すぐに救急隊にきて貰い、本来行くはずではない少し遠めの病院に向かったそうだ。
病院に着いた時には既に、兄はこの世にはいなかった。
それから父と母は住んでいた家から引っ越し、人取り川から離れた病院が近い場所に移り住んだという。
今の私の家だ。
「空音ー、お友達が来てるわよ」
「はーい」
下の階から母が呼んでる。行かなければ。
「お母さん、友達って誰が来て……。何でお前がここにいるんだよ!」
私が階段を駆け降り、リビングに入って目にしたものは、幼馴染みの翔と母が仲よさげにお茶を飲んでいる光景だった。
「何だとはなんだよ、迎えに来てやったんだろ」
「翔に迎えに来てと頼んだ覚えはない」
「頼まれてねぇもん。それより早く行くぞ!家の中でゴロゴロしてるより外行こうぜ」
「え……嫌よ。一人で行って」
私は一歩後退りする。すると翔が立ち上がりこちらにやって来た。
「一人で行ってもつまんねぇから迎えに来たんだ。ほら行くぞ」
ガシッと手首をつかまれていくら振っても離れない。
母に目線で訴える甲斐なくそのままズルズルと引きずられてく。
「分かった、分かったから、手を離して! 付き合ったげるからまずどこに行くかを教えて」
すると翔がニヤリとする、のが気配で分かった。
「言ったな? もう取り消すなんて言わせねぇぞ」
しまった。こいつ、私が押しに弱いの知っててこんな強引な手段を……!
「今からプール行こう。こっから自転車で30分くらい行ったところに新しく出来ただろ」
「プールってあんた。あのまま無理やり連れて行ったらどっちにしろ私入れないじゃんか」
「大丈夫、お前なら快くいいよと言ってくれると信じていたさ」
快くいいよ、とか言ってねぇ!つうかやっぱり確信犯かよ!
……たく、翔には負ける。
「じゃあ10分待って、用意してくるから」
そう言って二階の私の部屋に戻ろうとしていた時、母に呼び止められた。
「空音ちゃん、ちょっと待って」
「なに、お母さん」
「こんな時のために用意しておいたの、はい」
そう言って渡されたものは……
「新しい水着よ。空音ちゃんったら小学生が着るようなのしか持ってないでしょう? だからお母さん、内緒で買っておいたの。もう高校一年生なんだし、これくらいがいいかなって」
嫌な予感はバリバリしたけど確かに母の言う通りだったので、私は渋々受け取った。中を見ておこうかとも思ったが開ける勇気もなく、自分の部屋に着いてから包みごとプールバッグに突っ込んだ。
「水着、ゴーグル、タオル……それから財布とポーチ、自転車と家の鍵。これでよし」
私はざっと持ち物を確認してから階段を下りた。
「8分48秒。流石、しっかり10分以内を守ったな」
玄関には待ってましたと言わん許りに翔が仁王立ちしていた。
「そんな律儀に数えなくても……わっ!」
私が話しているのも構わず腕を引く。
「早く行こうぜ」
「分かった、分かったから私にサンダルを履かせて。腕を掴まれたままじゃうまく履けないでしょ」
「あ、ごめんごめん」
そう言っておとなしく腕を解放してくれるが……視線が痛い。見なくても分かる、瞳の輝き。どれだけプールが楽しみなのよ、全く。
「履けたか!」
「うん……」
「よし行こう」
ってもう玄関から出てるし。私はリビングのドアから顔を覗かせている母に声を掛けた。
「行ってくるね、遅くならないようにはするよ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
そして私は促されるままに自転車が置いてある駐車場へ向かった。
「翔ー、どうしよう。自転車壊れてる」
「まじか……」
「直らないことはないけど今は直せない」
「……仕方ない」
そう言ってまた私の腕を引く翔。まさか歩こうなんて言わないよね?
そのまま翔は家の門を出ると……
「乗れ。大丈夫だ、交通法違反だが警察なんて滅多にいないさ、こんな田舎町」
えっと……翔は今彼の自転車の荷台を指差して「乗れ」と言っているのだから乗ればいいのよね? そうだよね?
「早くしろ、行くぞ。軽く飛ばすからしっかり俺に掴まっとけよ」
私は言われるがまま荷台に腰掛けるようにして座るとペダルに足を乗せ準備満タンの翔の腰に手を回した。
「目指すはプール! 翔アンド空音、出陣」
突っ込みどころ満載のこのセリフに私は敢えて突っ込まず、彼の走らせる自転車の風を感じながら笑っていた。
「ヨッシャ着いた!」
翔はプールに着くとそう叫んだ。まだ朝の10時頃といっても、真夏の暑い日差しの中私を乗せて30分近く自転車を走らせたので翔は汗だくだ。私はというと、風を浴びていたのでそうでもない。
「あそこに駐輪場があるよ」
「おっ! ほんとだ。じゃあ停めてくるから先入り口行ってろ」
そう言いつつさっさと駐輪場に向かう翔。
……チッ。私がそんなこと出来ないと知っててそういうこと言うんだから。意地悪、翔は昔からそうだ。常に私をからかってる。
頭の中ではうだうだ考えているのに、私の手は自然と翔のTシャツの裾を掴んでいる。
そしてこれまた自然と動く口。
「待って、私も行く」
一人にしないで、とはさすがに理性が制御して言わせない。
「仕方ねぇな、行くぞ」
口調こそ乱暴だが、翔は優しく私の手を握って一緒に歩いてくれる。歩調だって、本当はもっと早く歩けるとこを、私に合わせてゆっくりだ。
本当は気付いていた。いつだって。翔は私を喜ばせよう、楽しませようとしてくれる。
今日だって、形上は翔が無理やり私を連れ出しただが、実は長い休みに入るとついてしまう私の引き籠もり癖を解消させようとしてくれているのだ。必ず、一週間に一度はやってくる。
そんな翔は、実は私にいたはずの兄と重ねていたり、大切な彼氏だったりする。
「プハァ……。翔! もっかいやろ」
ただ今プールにてエンジョイ中。
嫌々来た体裁を保っていたのも束の間、一面広が水を目の前にして、私のテンションは上がりに上がった。元々泳ぐことは嫌いじゃない。
着替える前は、母に渡された水着の露出の大さに気後れしたが、周りの女学生を見てみると皆母が買ってきたものより肌が見えていることに気付き、それならと……! 割り切った。
その間約15分。人々は思っただろう、この子、いつまで更衣室にいるんだろう。
「空音が楽しそうでよかったよ。お前、意外とスリル満点なの好きだもんな」
「だって、つい楽しくて。翔が一緒だから余計だよ、たぶん」
何言ってんの私! 後に思い返すと恥ずかしくてたまらないよ。
けど、なぜか翔にはあっさりと言えてしまう。
病気だな、これは。
「じゃあ今度は遊園地行くか。隣り町のアトラクションパーク、また新しいの出来たって」
「本当! 是非行きたい。翔も絶対に一緒だよ」
「当たり前だろ。空音一人であんなとこ行かせねぇよ」
あれ? 翔の顔、少し赤くなって……
「そうだ、今度は二人じゃなくて何人か友達誘って」
えっ……今なんて。
私のテンションは一気に氷点下にまで達した。そんな私の様子があからさまだったのだろう。翔は慌てて私の頭を撫でた。
「悪い悪い、冗談だ。二人だけで行こうな」
……ごめんね、翔。いつも迷惑かけちゃって。けどね、別に独占したいとか思ってるわけじゃないんだよ。
「翔が友達も一緒がいいなら私もそれでいいよ。私は翔と一緒ならそれでいいから」
翔は困ったように笑って首を振った。
「空音は、それで楽しめるか? 今日みたいに、はしゃげるか?俺はな、誰に一番楽しんでもらいたいと思う? 空音、お前だよ」
私は顔を半分水につけた。
時々だけど、どうしても思ってしまうんだ。私って、翔にとっての負担じゃないのかな。
だけど、私に向けてくれる笑顔は嘘じゃないって信じてるし、あの言葉だって、本当だと思ってる。
あぁそうだ、私って翔がいなくなってしまったらどうなってしまうんだろう。今まで考えたことなかったな。
「……らね、空音! 大丈夫か?」
私はハッと我に帰った。
「う、うん。全然平気だよ」
「そうか、ならよかった」
いつもと変わらない彼の笑顔、私の一番大好きな顔。
『えー今から5分間の休憩時間をとります。皆様、プールから上がってください』
その時、ちょうどそうアナウンスが入った。
「手、かしてみ」
翔はプールサイドにヒョイっと上がって私に手を差し出した。私はその手を静かにとる。
「ありがとう、いつも」
別に、人と馴れ合うのが嫌いなわけじゃない。友達だって沢山いる。ただ、そんな人達と遊んでも心から楽しめないだけ。見た目だけで笑ってる。
それに気付いてるのは翔だけ。だから翔は、私に楽しんでもらいたいんだと思う。それも、私達二人だけじゃないと、私が心から楽しめないことを知っている。
なぜこんなことになってしまったかって?
生まれた時からずっとそう。私は元々、感情の起伏が激しかった。だから色々をやり過ぎてしまっう、そんな過去がある。そうして私は人前で感情をあらわにするのが怖くなり、全て上辺だけになってしまった。
唯一人、翔を除いては。
翔だけは心を許せた。私の感情が爆発しても、いつも側にいてくれて、私を守ってくれた。見捨てないでいてくれた。
だからこそ、たまに……たまに怖くなる。いつ見捨てられるか分からない、その時どうしたらいいかも分からない。
それはもう考えるだけ無駄の、堂々巡りだった。
まるで……深い水の奥深く、沈んでいくような……いや、潜っていくような、そんな感じ。
休憩の時間中、私達はベンチに座っていた。翔は私の肩を抱き寄せて、何も言わず側にいてくれた。私も無言で、翔の温もりのみを感じていた。
楽しまなきゃ、せっかく翔が連れてきてくれたんだ。楽しまなきゃ翔に悪い。たとえいつか重荷となって捨てられても、今この時間は楽しまなきゃ。
『5分間の休憩を終わります。ではラジオ体操を始めます』
無機質なアナウンスの後にやけに明るくリズミカルな音楽が流れ出す。
音楽とともに聞こえる指示にプールサイドにいた人々は従う。私達も。
「ねぇ、翔」
「ん? どうした」
「もう1回さっきのウォータースライダー乗ろうね。あの二人乗りの」
「あぁ、何回でも乗ろうぜ」
「うん」
それから数時間、楽しい時間を送った。
純粋にスライダーは面白くて全種類乗ったし、流れるプールを逆走したりただ流されたり、波のプールの一番奥まで行ってみたり、25メートルプールで競争したり。
手で水鉄砲を作って水の掛け合いなんかもしたな。そしたら……
「わっ! ……コホッ、うぅ」
「大丈夫か! 悪い、そんな勢いよく掛けるつもりなかったんだけど人とぶつかって……」
運悪く翔の飛ばした水が私の口、しかも気管に入っちゃって、しばらく背中を擦ってもらったっけな。
「コホッ……う、ん。もう大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん、本当だよ。心配かけてごめんね」
翔は優しいから私の不注意のせいもあるのに自分が悪いって思い込んじゃって、しばらくしょんぼりしてたな。まぁそんな翔が実は可愛かったりするんだけど。
「ふう……朝からすごく遊んだ気がするよ。今何時だっけ」
どれくらい遊んだだろうか、私は翔に尋ねた。
「ここに10時には着いてるから……今ちょうど2時で、大体」
「4時間も遊んだんだ!それは達成感もあるなぁ」
「だな、って……聞いといて先に言うなよ!」
翔は私の頭に軽く曲げた人差し指をあてる。
「ごめんごめん、わざとじゃないけどついね。それより私達お昼をまだ食べてないよ、さすがにお腹空いちゃった」
「じゃあそろそろプールから出るか。外にはたしか売店があったし」
「うん! そうしよー」
私はプールサイドに向かって歩き出した。その時、潜水して泳いでいた人に気付かずにその人の足につまずいて前のめりに……
「危なっ」
特に何か掴まるものもなく反対の足も水の流れが邪魔して上手く出せずそのまま水面に倒れる!と思った時だった。
「ふぅ……ギリセーフだな」
翔が間一髪で体を支えてくれ水面に顔をぶつけるようなことにはならなかった。
「いやぁ危なかった。あのままいってたら鼻とか口に絶対水入ってたよ」
私が呑気にそんなことを言っていると翔が真剣な顔で私に話しかけた。
「確かにそれだけならいいさ。けどな、もしあのまま倒れて上手く顔を出せなかったらどうなってた?足が他人とぶつかって上手く使えなかったら?そんなことないとは思うけど、ここは水の中だ。何が起こってもおかしくないんだ。空音が悪いわけじゃないけど……まぁ、無事でよかった」
翔はその後私の手を握ってプールサイドまでいき、私を先にプールからあがらせた。
翔、本気で心配してた。あの顔は絶対に、私がいなくなることを想像した顔だった。だからこそあんなに怖い顔で、おどけた私を叱ったのだ。私には分かる。だって、私も翔が目の前で危ない目に遭ったらそんな顔するだろうから。
それに、似たような顔を私は何回も見ている。
両親に心配をかけた時、父はよかったと安堵するが、母は私をきつく叱咤する。いつ頃からか、それは母の心配が大きいほどきつくなると知った。そして、最後には必ず私をギュッと抱き締めよかったと呟くのだ。
幼いなりに気付いていたのだろう。それらは全て母の優しさなんだと。
「じゃあ更衣室出た所で待ってる。ちゃんと髪乾かしてこいよ」
「うん。クーラーよく利いてるから風邪ひかないようにしなきゃね」
そして私達は二手に分かれた。
翔はああ言ったけど、あまり時間を掛けすぎてもまた心配するだろうから、さっさと着替えて髪乾かそう。
私はうんと頷いて、女子更衣室に入っていった。
「ごめん翔、待った?」
「いや、そこまで待ってないさ」
笑顔でそう答える翔に、私は疑わしげな目を向けた。
「嘘だな。だって翔、髪がもう完全に乾いてるじゃん」
すると翔は焦ったように自分の髪を触る。
「でも空音はまだ髪が濡れてるじゃないか。もっとゆっくり乾かしてきてよかったのに」
「いいの。私は髪の量が多いから元々乾きにくいし、そんなに翔を待たせられなかったから。だってあんまり遅いと心配するでしょ?」
翔はバレてましたかと言わん許りに顔を押さえた。
「既に心配してたのに強がって……。気付いてないとでも思った?」
「顔には出してないと思ったんだけどな」
「顔には出なくても雰囲気で何となく分かるの。何年幼馴染みやってると思ってるの?数年前からは彼女でもあるんだからね」
いい終わってからしまったと思った。また私は、なんて恥ずかしいことを……! 彼女であることは強調しなくてもいいでしょうが。
「そうか、彼女にはバレるもん何だなぁ。付き合ってるんだから仕方ないよな、うん」
からかわないでよー!
あぁ、私の馬鹿。
「もうそれはいいから、早くお昼食べよ」
ここは逃げるが勝ち。私はさっさと売店のある方へ駆けて行った。そんな私を、必死に笑いを堪えながら翔が追ってきているのは、背中越しでも感じていた。
その後、私達は昼食を済ませ一息ついてから建物を出た。
時刻は3時少しすぎ。
夏の日差しは容赦なく私達を襲う。
「まだ時間あるけど、これからどっか行くか?」
翔は自転車をひきながら私に尋ねた。私は少し考えてから、行きたい場所に思い当たった。だけど少し、言いにくい。
「うーん……。無いことはないけど、ちょっとここから遠いし、どうしようかな」
「自転車で1時間くらいの距離なら空音を乗せて連れてってやれるぜ」
「う……ん」
私は考えた。私、翔に何て言って欲しかったんだろう。全然いいぜ? そっか、ならやめとく?
何か違う。
結局そこに行くかの決断が出来ず翔に委ねてしまったけど……。委ねたならその決断に従うべきだよね。問い掛けてでもやっぱり、なんて失礼だよね。
うん、行こう。
「あそこなら1時間もかかんねぇだろ。連れてってやるよ。お前一人じゃ行かせれねぇしな」
「うん、ありがとう。……え? 私まだ行き先言ってな」
「人取り川だろ。そんなもんお前の顔見れば一目で分かるさ。大丈夫、止めやしねぇよ」
「う、ん……ありがとう。私そんなに分かりやすい顔してた?」
私は少し貯めたいつつ翔の顔を伺った。
翔はいつものように笑っていた。
「さっき空音も言ってただろ? 幼馴染みであり、今は彼氏なんだから分かって当然。お互い隠し事が出来ないほど俺らは繋がってるんだよ」
そうか、そうなんだね。分かったよ翔、教えてくれてありがとう。
「さぁ行くぞ、俺の準備は満タンだぜ」
翔はいつの間にか自転車にまたがって私を待っていた。
「うん。行こう、人取り川へ」
私は行きと同じように荷台に腰掛た。
「キャーーー!!」
「そんなに怖いか?」
「そういう問題じゃなくて……ブレーキブレーキ」
「大丈夫だよ。ジェットコースター平気なのに変なの」
「それとこれは違ーう! いやぁあぁぁぁああ」
はぁはぁ、やっと平地に戻った。
「自転車で坂を勢いよく下るのとジェットコースターと何が違うんだよ」
翔は平然としてるし……。
いきなりやめてよ、もう。喉がカラカラ。
「何って……何もかもよ。一番違うのは信頼度。自転車で飛ばすこととジェットコースターがレールを走るのでは安全度が全く違うでしょ。それが信頼にも比例するの。大体、自転車は歩くより早く移動出来るってだけで飛ばすためにあるんじゃないの。競輪でもあるまいしあんなに早く坂を下るなんて、何のためのブレーキよ。兎に角危ないことはやめて、分かった?」
翔は前を見て自転車を走らせつつ渋々といった感じに頷いた。
「分かればよし」
「たく、空音ってコロコロキャラ変わるよな」
「え? 嘘、そんなに? 例えばどんなの?」
翔は少し考えたような素振りをした後、答えた。
「空音のお母さんの前で俺に対する態度と二人きりの時が一番違う」
「それは、お母さんの前で翔とベタベタしても変でしょ? まぁ二人の時だって別にベタベタしてないけど。後幼馴染みなんだからあんな感じでしょ?というかあれが普通であって、二人だけだと私の調子が狂ってるの」
本当にそうだ、翔と話してるとすごく調子が狂う。思い返すたび、あんなの私じゃない、私はあんなこと言わないって思うよ。
「それは違うんじゃないか?俺といる時が本当の空音で、お母さんの前では恥ずかしいから作ってるだけなんじゃ……」
「ちょっと、自分の都合のいいように考えないでよ。大体翔は私をからかい過ぎ!ちょっと弱み握ってるからって」
「今ここに空音を置いて一人で帰ってもいいんだぜ?」
「……本当はそんなこと、出来ないくせに」
ダメ、言葉とは裏腹に翔の体に回した腕の力が強くなっちゃう。
「まぁな。けど、空音だって腕の」
「言わないでっ! ……分かってるから、言わなくていいよ」
寂しさからか、怒りからか、腕の力がさらに強くなる。けれど翔は全然平気みたい。
これでちょっとくらい痛そうな顔してくれればいいのに。
捻くれた感情が脳をよぎると共に不意に視界が滲んだ。
「翔の馬鹿。ちょっとくらい、私に勝たせてよ」
力なくそう呟いた言葉は風を切る音に紛れ翔なは聞こえなかったかな、けどその方がよかったかも。
そう思ったが、その考えは甘かったと直ぐに分かった。
「ごめん。俺はお前よりも弱いから……。だってお前は、俺が絶対に勝てない技を持ってるから。そしてそれは、あんま使って欲しくないから、ごめん」
翔には完全に聞こえていた、そして悟らせてしまった。と同時に、傷つけてしまった。
翔は暗に、俺が悪かった、泣かないでくれと言っている。そんな気持ちは、たとえ背中しか見えなくてもひしひしと伝わってくる。
ごめん、ごめんね翔。悪いのは私、いつまで経っても強くなれない私が悪いの。いつも最後は翔に謝らせちゃって……。
私のせいなのに。
「ごめんね」
今度は本当に、風の中に消え、さすがの翔にも聞こえなかった。
その後私達はしばらく無言でいた。やがてどちらからともなく話し出して、しばらくはとりとめのない会話を楽しんだ。
「さぁ着いたぞ。人取り川だ」
翔は不意に自転車を止め、そう言った。
「そう……。案外早かったね」
私は自転車の荷台からそっと降りると、川辺まで下る階段までゆっくり歩んでいった。翔も自転車をひきながら私の隣りを歩いている。
「まだ、見えるのか?」
翔は私にそんなことを聞いた。私は笑顔で答える。
「うん、くっきりと。私が覗くとね、笑うんだ」
「そうか、それはよかった」
「……翔にも、まだ見える?」
私が翔の方を見ると、翔は静かに頷いた。
「そう……。きっと翔には心を許してるからだね。あっ、階段発見!」
私は無邪気な感じを装い階段まで駆けて行った。
「そんなにはしゃぐな、俺は自転車があるんだから」
「ごめんごめん。自転車も川辺まで下ろすよね?私も手伝おうか?」
断られるかな?
そう思っていたら意外な答えが返ってきた。
「そうだな、じゃあ籠に入ってる俺の荷物持ってくれないか?少しでも軽い方が楽だからさ」
頼ってもらえたのが自分にとってすごく嬉しいことだったらしい。自然と笑みが漏れる。
「喜んで!」
私は翔から荷物を受け取って階段を下る。2、3段下りたら後ろを振り返り翔を見る。
翔は自転車のブレーキを強く握ったり力を弱めたりしてゆっくり下っている。急な階段なのでちょっとでも気を抜くと自転車に体を持っていかれてしまうのだろう。
やっと川辺の道まで自転車を下ろしきり、翔は邪魔にならない場所に自転車を停める。
「大丈夫?」
私は翔に荷物を渡しながら尋ねた。翔はふぅと一息ついて芝生に倒れ込んでいる。
汗だくだ。それもそうか、この日差しの中体力を使う仕事をしたのだから。
「良かったら使って」
私はまだ使っていなかったスポーツタオルも手渡す。すると翔はニカッと笑って言った。
「ありがとう、助かるよ。汗かいたままだとベタベタして気持ち悪いもんな」
私はしばらく翔の隣りにしゃがみ込んで川の涼しい風を感じていたが、やがて音もたてずに立ち上がる。ふと隣りを見ると、いつの間にか翔も起き上がっていた。
「行くか?」
そう言って私を見上げる翔に、私は頷いた。一歩一歩ゆっくり川に近付く私を半歩後から追う翔。
翔はここに来るとき、必ずその位置をキープする。私にとっても一番安心する位置だ。心の中で静かにありがとうと言った。
そして、川のギリギリ手前に膝をつき水面に映る顔を見る。
「こんにちは。会いに来たよ、兄さん」
“久し振り、元気にしてたかい?”
水面に映る兄さんはいつものように笑顔で私に問い掛ける。と言っても、実際には耳から脳に声が届くわけではなく、脳に直接声が響いているような感じだ。
そしてこの声は、私と翔にしか感じることが出来ない。と同時に兄さんを見られるのも私達二人だけだ。
「うん。今日は翔とプールに行ったんだよ。すごく楽しかった」
“そうか、それはよかった。翔君もいつもありがとう。空音は君といる時に一番いい顔をするよ”
「いえ、そんなことは……」
“翔君には感謝してる。君のおかげで空音は輝いていられるんだ。これからも妹をよろしく頼むよ”
「いえいえ、こちらこそ」
この二人、どんな会話してるのよ、もう。聞いてるこっちが恥ずかしい。
「変なこと言わないでよ、兄さん。翔もまともに答えなくていいのに……」
“いいじゃないか、空音は大切な妹なんだから俺は心配なんだよ。翔君みたいに頼れる人がいて助かる。俺が直接守ってやることは出来ないからな”
「もう兄さんったら……」
兄さん。水面に映る兄さん。彼は決して側にいるわけではない。ただ、川の水面に映っているだけだ。
兄さんの隣りには翔が映っている。私は……どこにもいない。本来私が映る場所に、兄さんは存在するんだ。
水なら、川ならどこでもそうなるわけじゃない。兄さんが亡くなった原因。"人取り川"でしかこの異常現象は起きない。
ある意味理に叶っている。
“なぁ、空音”
「なに? 兄さん」
“学校は……楽しいか?”
……どうしてそんなこと聞くの?
「うん、楽しいよ。皆私と仲良くしてくれるし、翔だっている。けど、どうしてそんなことを……」
“何となくだよ。何となく……空音は俺に、学校の話をしてくるないなと思って”
あぁ確かに、ここに来ると翔との話やお母さん、お父さんの話しかしてないな。だけど……学校のことで兄さんに話すようなことなんてないし。
“兄さん……たまには学校の友達の話も聞きたいな”
「だから、翔の話を」
“翔君はほら、学校以外でも色々あるけど。それとも、学校のことは話せないような事情でもあるのか?兄さん隠しごとは悲しいな”
隠してなんかないよ。ただ話すことがないだけで……そんなことよりもっと違う話を。
“なぁ、何かあるのか?何なら相談に乗るぜ。頼りないかもしれないけど俺はお前の兄さんなんだから”
……なんで、なんでなんでなんで!?
何でそんな方向に持っていくの?
何もないって言ってるじゃない!
「兄さん、大丈夫だから。だからその話はここで終わろうよ」
いつの間にか私の肩は小刻みに震えていた。それに気付くのはもう少し後だけれど。
“何もないなら良いだろ、翔以外の話も聞かせろよ。例えば女友達とか”
やめてよ、何で急に、そんな。
“空音、何かないのか?翔も何か言ってやってくれ”
やめてってば、ねぇ!
“やっぱり言えないんだろ?なんでだ?”
やめて!!
“なぁ、空……”
「やめろ。もうやめてくれ。自分で自分を追い詰めるのは……。俺はもう、見ていられない」
ギュッ……
と抱き締められる。翔だ。
ねぇ翔、聞いてた?今日の兄さんおかしいんだ。いつもは聞かないようなことを何度も何度も。
「おかしいのはお前だよ。どうしたんだ一体。いつもはこの川を心のよりどころの一つにしていたのに。今日は自分を追い詰めて狂わしくしていくような」
………………。
「なぁ、こんなこと俺の口からは言いたくなかったけど、これからこの場所がお前にとって辛い場所になるなら言わせてくれ。お前の言う兄さんってのはな、もう死んでるんだぞ」
そんなこと知ってるよ。
「この世にはいないんだ」
だから知ってるって。
「水面に映る兄さんってのもな、本当は」
「知ってるから! 知ってるから、言わないで。お願い、もう少しだけ頑張らせて。後少しなの。翔には私、嫌われたくないから。……嫌われたくない、翔だけには」
どれだけ強く瞼を瞑ろうと、涙はとめどなく溢れてきて。どれだけ唇を噛み締めようと、嗚咽は喉からこぼれ出す。
翔は私の頭を抱えこむようにして優しく頭を撫でてくれる。
「ごめんな、追い詰めてたのは俺だったのか」
私は無言で首を振る。
「じゃあ何かあったのか?」
私は再び首を振る。
「じゃあどうして……」
「迷惑かけたから」
「迷惑? いつどこでだれがだれに」
「いつもどこでも私が翔に」
翔が首をかしげるのが見えなくても分かった。翔は本気で迷惑だなんて思っていなかったのだ。
けどいつかきっと……
「何言ってんだよ。俺はいつも俺のしたいことしかしてないぜ。逆に迷惑かけてんじゃないかって心配してるくらいさ」
「翔が?」
「あぁ。だってそうだろ? 今日も急に押しかけて空音を連れ出したし。けど結果的には空音が喜んでくれたから良かったんだけどな」
「え、あれは家に引きこもりがちな私を外に連れ出そうとしたんじゃ」
「それもある。けど俺がプールに行きたかった気持ちの方が上だな。しかもお前と一緒が良かった」
あぁ、そうだったのか。翔も私と同じ気持ちなんだ。
「空音は考えすぎなんだよ。俺は思うがまま動いてる。お前も、周りなんて気にせず思いっきり走り回ってみろ。……何かに囚われることなんてないさ」
そうか、そうなんだね。無理、しなくていいんだ。
「見えるか?」
翔は視線で水面を示す。
うん、見えるよ。
翔に抱き締められた、私が映っている。
二重人格。皆さんも良くご存じだろう。
私はそれに近いものだった。
簡単に言うと、ある条件を満たすと現れる架空の人間を作りだし、それを自分が演じるというものだ。
つまり‘兄さん’である。
昔から人を沢山取ってきた人取り川では、稀に取られた人に出会うことが出来、私の水面に映る顔はその取られた人なのだと幼い私は考えた。
小さい時から、他人を気にしすぎる性格のせいで周囲から浮いていた私は、心を許せる友達が欲しかったのだろう。
もちろん、その頃から翔とはとても仲が良かった。物心ついた時にはすでに隣りにいた翔は何でも知っていたから、気にすることなく一緒にいることが出来た。
だけど、どこか不安だった。
だから心から信じれる架空の人間Xを作り出したのだ。
最初はただの友達だった。
ある日、両親から兄がいたこと死んでしまった訳を告げられた。
両親は悲しそうに、申し訳なさそうにその事実を私に教えてくれたが、私は内心とても嬉しかた。
人取り川に映っていたあの人は、私の兄さんだったんだ。だから顔がそっくりだったのか。
もちろん、兄妹なのだから全く一緒な訳ないのだが、私はそう思い込んだ。
その日から友達は兄さんに変わった。
私は翔と‘兄さん’を心のよりどころとし、自分を支えてきた。
けれど今日、気付いてしまった。
私がこんなままだと翔に迷惑をかけてしまうと。
結果迷惑ではなかったことが分かったが、心配することに変わりはない。
私が居もしない‘兄さん’に甘えることは、翔にとって不安なことだ。なるべくならやめて欲しいと思っている。そんなことも、兄さんはもう死んでしまいこの世に現れるはずがないことも、何もかもすべて分かっていた。翔は私に、周囲と打ち解けて欲しいと思っていることも。
だけど、勇気がなかった。
‘兄さん’というよりどころを失った私はちゃんと生きていられるのか。翔にもっと迷惑だと思われるんじゃないのだろうか。翔は私を切り捨てないだろうか……。
そんな不安が渦巻く中、私は決意した。このままでも迷惑をかけているのだから、それを無くすチャンスがあるのなら頑張ってみよう、と。
けれど、殻を破ることは出来なかった。殻は中々に頑丈だった。
自分で自分を傷つける。
そうして私は変わろうとしたが、それは安易ではなく、見ている翔を余計不安にさせてしまった。
結局翔が決め手だった。
翔に、言われた゛迷惑だなんて思ってない゛の一言で、私の殻はあっさり破れた。何もかも不安だったんだ。それはすべて翔に捨てられることに繋がっていた。迷惑だと思われてなければ、大切だと思われていれば捨てられない。
ならばよりどころは一つ、翔だけでいい。
私は今日、架空から逃げ出した。現実へと戻ってきた。
大丈夫、怖くない。何かあったら翔がいる。大丈夫、変われるんだ。私は翔が心配しないような人に。
「翔……」
「なに?」
「今まで、ずっと側にいてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
「これからも、側にいてくれる?」
「もちろん、俺はそのつもり」
「良かった、私も側にいたい」
「うん」
゛ずっと一緒だ゛
「大好きだよ」
゛翔・空音゛
水面に映る私たちの顔は、そっと、重なった。
「翔、しょぉー!」
「なんだよ、二学期早々元気だなぁ」
「だって、久し振りに皆に会えるんだよ」
「出校日の日に会っただろ」
「そうだけど……」
水遊びのあの日から、私は変わった。いや、変わる努力をしてる途中だ。今日も笑顔で手を振るんだ。翔だけじゃなくクラス全員に。そしてふと、空を見上げる。兄さん、私は元気です。
「ねぇ、翔」
「ん?」
「私、変われるかな。臆病な私を、明るい私が超えられるかな」
「何言ってんだ」
ふわり……と頭に翔の手が乗る。
「空音は十分変わったよ。あの頃のお前は、どこか遠くの空に翔んでったよ」
「そうか……そうだと良いな」
「なんだよ、俺の言葉が信用出来ないのか」
「そういう意味じゃなくて。私は翔のこと信じてるよ」
「あぁ、知ってる」
「ならなんで」
「俺も信じてるから」
「……全く、うまいなぁもう」
「まぁな」
「ねぇ……翔」
「ん? 今度はなんだ」
あのね、私ね
翔と一緒にいれて良かった。
翔がいたから変われたんだよ。
翔……
「大好き」
初の投稿です。なので初心者丸出しだと思います。言い訳がましいですが書かせて頂きました。
初の投稿と書いてはみましたが、私が書いた小説の中では別に初ではありません。四、五作品目…くらいかな。
短編なので話の展開早!とか思われたかも知れませんがそこはご了承を。
まだまだ実力不足なのでこれから修行を積みたいと…イヤ失礼、何でもございません。
これは友達に水遊びというお題を頂いて書いた作品で、友達が凄く気に入っていたのであげてみようかなと思いました。水遊び要素全くないですが、そこは気にせずに。空音ちゃんにはこれからも頑張って欲しいですね。
最後に読んで下さった皆様、ありがとうございます。
平成23年12月5日