空が君に映り変わるとき
「……さむ」
開け放した窓から一人呟く。
冬の朝の空気は凍えるほどに冷たく、吐く息は瞬く間に白くなり真っ白な空へと消えた。
寝起きというのはどうしてこうも体が言うことを利かないものなのか。あと十分で授業が始まってしまうというのに、頭が未だに起きてはくれない。
起きてくれない頭をどうにかしようと、ベッド付近の窓を全開にしたところ、たちどころに部屋が寒くなってすぐに後悔した。
「寒い……うん、寒い……」
ベッドにもそもそと再び潜り込む。
何だか、このまま眠りに就いたら夢を見そうだ。嫌な夢。不幸な夢。
ああ、でも。この眠気に抗えるものなどどこにいるだろうか。
* * * * *
「だぁーっ!?」
それから私が目覚めたのが二十分後だった。もちろんのこと、授業が始まっている。
誰か起こしてよー! と心の中で行く宛の――いや、行ける宛の無い怒りを言う。
さしもの私も、既に授業が始まっているのに悠長に寝ていられる性格ではないので、いそいそと制服へと早着替えを済まし、顔を洗って歯磨きをして家を出た。
外の空気はひどく冷たく、おまけに雪まで降っていて私の心をきゅっと縮ませる。先ほど窓を開けたときよりも、ずっと寒く感じる。
もう小さくなって、毛玉もたくさん付いている薄汚れたマフラーに顔を埋め、止めてあった自転車へと跨った。
家から学校までへと行く道中、大幅に時間短縮へとなる近道を残念ながら私は今だに発見していない。諦めていつものルートを通るという選択肢しかなさそうだ。
一限目はどう頑張っても遅刻だな。頑張らないと欠席。さて、私はどうしたものか……。急いで自転車を漕ぐか、安全運転で行くか。
というか、そんなものは問うまでもない。急いで学校に行くという選択支しか、私にはないはずだ。
なぜなら、私は冬というものが苦手でこの時季既に十回は遅刻した。担任にいい加減にしろと先日どやされたばかりなので、これ以上はまずかろう。まあもう、遅刻は確定だが。
冬の風はどこまでも冷たく、身も心凍えさせられる。自転車を漕いでいると尚更、風は凶器となって襲ってくる。
この時季は嫌いだ。寒いし、空もくすんだ灰色なことが多く、なにより――。
私はぎゅっと強く自転車のハンドルを思い切り握り、ペダルへと全体重をかけて前進をした。
……のが悪かった。目の前には直角な曲がり角があった。もちろんバックミラーは付いていたが、双方ともに確認を怠ったらしい。この双方というのは、私とぶつかった相手であるのは言うまでもあるまい。
自転車と自転車がぶつかる派手な音が辺りに響き、当然の如く倒れた自転車と共に私はすっ転んだ。
「いった……」
ぶつかった瞬間は何が起きたか分からなかったが、すぐに相手が車じゃなかっただけ良かったと思った。車だったら今頃この白くなったアスファルトは赤へと染まっていたことだろう。
「いってぇ……。すみません、大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
さり気なく差し出された相手からの手を断り、自分で立ち上がる。
「怪我とかないですか?」
「大丈夫です。幸いにも」
制服についた雪をパタパタと手で掃いながら、膝などを確認する。
「よかった。すみません、気付いてすぐにブレーキをかけたんですけど、滑っちゃって……」
「いえ、平気です。こっちも確認しないで突っ込んじゃったのでごめんなさい」
「とんでもない。自転車は……大丈夫ですかね」
すぐ横に転がっているオンボロ自転車へと目を向けると、タイヤのところの軸が見事に曲がっていた。
相手もそれに気付き、やってしまったという感じの青ざめた顔になった。
「大丈夫ですよ。確認しなかった私が悪いし、それにこの自転車もう古いからしょうがないんです。どっちみち遅刻だし、歩いて行くから大丈夫ですよ」
笑顔付きでそれを言えたらパーフェクトだったが、生憎笑顔は無い。何の感情もないであろう私の顔だ。
「いやいや! 制服同じってことは、そこの南校の生徒でしょ? この自転車使ってよ。自転車置き場のところに鍵付きで放置しておいてくれたらいいから」
そんな訳にはいかないと相手は引かない。
そこでようやく、相手を良く確認してみると、確かに同じ高校の男子生徒だった。しかし私が苦手とする、髪を明るく染めた今時の若者。
ふぅっと、心の中で溜め息を吐く。ありがた迷惑もいいところだが、相手も相手で引きそうにないので、私は了承することにした。
私の自転車は自分が持って行くと言い、代わりに自分の自転車を渡して相手はなぜか「ありがとう」と言って、男子生徒は去って行った。
さて、もう完全に遅刻では済まなくなったのでどうしようかな。そう思い、私が行くべきも相手が早歩きで行った道なのだが、私は遠回りになる道を選択した。
さっきまで乗っていたのと違う自転車に跨ってペダルを漕ぐと、自分の自転車よりも軽く、鈍く軋んだ音もしなかった。
それに少しの寂しさを覚えながら、今度は安全運転での登校を再開した。
* * * * *
学校。私はあっさりと遅刻で済まない時刻に行ってしまって、担任にまたしても職員室に呼ばれた。
曰く、『いい加減にしろ。少し早く起きろ。進級にも関わるし、進学にも関わる』とのこと。正直、どうでもいいです先生。だって私、とりあえず生きてるだけだし。なんてことは口にはしないで、黙って訊いておいた。
そのうちに休み時間が終わるからということで、私はつまらない話から開放された。
教室に戻り、自分の席に着く。一年のときからずっと変わらない教室の喧騒は、密かに私の頭を痛くさせていた。
そういえば今朝ぶつかったあっちの人は怪我とか大丈夫だったのだろうか、とふと思う。特に足をかばったような歩き方などはしていなかったが、目に見えなかっただけで何かあったかもしれないと不安になる。
確認を怠ったのは私なのに、大して謝りもしないでその場を後にしてしまったことを今になって後悔する。
借りた自転車は言われた通りに、鍵付きで自転車置き場へと……はいかなかった。なぜなら、自分が借りた自転車なのに他の生徒に鍵付きのせいで盗まれてしまうという自体は避けたかった。
騒がしい教室の一角、一人静かな私は静かに席を立ち、あと五分もすれば休み時間が終わるのに教室を後にした。
スカートのポケットに入った自転車の鍵主を探す為に。
同じ南校の生徒だし、案外あっさり見つかるだろうというのが私の読みだった。
年下という感じはしなかったから、同い年か先輩だろう。二年の教室が並ぶこの辺の廊下で見た覚えはないが、人とあまり関わりたくない自分のことだから、見逃していても不思議じゃない。それに、私は休み時間はだいたい教室にいるし、会うとしたら登校時くらいなもので、その時間だけで見かけるというのもなかなか難しい話だ。
ってことで、二年の教室から探索をスタートさせた。
のはいいが、休み時間もそろそろ終わるせいか廊下にいる生徒の数は疎らで、この中にいるほうが奇跡的だ。さすがに自分のクラスじゃない教室を覗く気にもなれず、早くも私の心は挫けかけていた。
放課後までにはこの鍵主を見つけ出さなければ、あの人は自転車置き場でずっと自分の自転車を探したりするハメになるだろう。
案外にも、自分の考えが愚かだったことを探し始めて一分ほどで気付いてしまった。
しかしここでやめるわけには行かないので、二年の廊下をグルグルしたあと、急いで三年の教室があるほうに行ってこれまた廊下でウロウロしていたが、目的の人物は見つからなかった。
心の中で情けなく溜め息を吐くと、ちょうど始業のチャイムが鳴った。
しかし、私の足は自分のクラスである教室へと向かうことなく、階段を上って、屋上へと行った。
授業中はもちろんのこと、用の無いときの出入りは禁止されているが、鍵などは掛かっていないので屋上の扉はすんなりと開いた。朝よりは確かに暖かいが、暖かいとはとても言えない凍った空気が流れ込んできた。小さく「さむっ」と言葉を漏らし、私は外に出た。
誰もいない静かな空間が好きで、よく屋上に来ていたが、今日は少し風景が違った。
高い所特有の強い風はいつも通りだが、一つの影が屋上にはあった。その後姿に、私は小さく声を漏らした。
その声に気付いた影は、私のほうを振り返ると驚いた顔をしたあと笑顔になった。
「こんな所で会うなんて。どうしたの?」
「……少し、風に当たりに」
そう、と言い、その男子生徒は再び鉄格子に手を掛け、前を向いた。
私はその隣に行っていいものか少し躊躇したが、すぐに隣の位置へと移動して、本来の持ち主である人に鍵を差し出した。
「あれ? 鍵取ってきたんだ。わざわざ届けてくれてありがとう」
相手の男子生徒は鍵を受け取ると、丁寧な仕草で頭を下げた。
「自転車盗られたりしたら大変なので」
「べつに鎖しっ放しでよかったのに。もしかして、俺のこと探させちゃったかな、ごめんね」
「いえ。軽く廊下を見て周ったあと、此処に来ただけですから」
「そっか。あ、そうだ。俺もはいコレ」
ブレザーのポケットから取り出されたのは、先ほど私が返した鍵によく似ていて、自転車の鍵らしかった。
「私の自転車の……?」
「そう。ってことで、お返しします。タイヤのところ歪ませちゃってごめんね。自転車屋さん行って直してもらってきたから、許してくれる?」
「わざわざ行って来てくれたんですか。ありがとうございます」
「いやいや、壊しちゃったの俺だしね」
軽く笑いながら、私の手の平へと鍵は返された。
しばらく、私とその人との間には沈黙が続いた。
私とその人は、二人共同じようにして空を流れる雲を眺めていた。
「空見るの好きなの?」
唐突にかけられた声に少しびっくりした。
「はい。だからよく、此処に来るんです」
「へぇ。俺も空っていうかさ、雲が流れてるとこ見ると落ち着くからすごい好きでさ、時々こうやってぼーっと眺めてたくなるんだよね」
頭上を見上げながら、いや、雲を見ながら彼が答えた。
「私もです。空を見てると嫌なこと考えなくなれるから好きなんです」
言ってすぐに、自分が余計な一言を言ったのに気付いた。これじゃまるで、『嫌なこと?』と訊かれるのを期待しているみたいだ。
「いいよね、頭空っぽにして見てるの」
以外にも、その一言で終わり、私は彼の隣で密かに安堵した。
その言葉に対し、私は何の返事もしなかったけれど、彼は気にしていないようだった。
この時季は灰色っぽい、暗い色のことが多い空は、青く塗りたくったパレットに少しの白をほたりと垂らしたような綺麗な空だった。
昔よく両親と空を眺めていたことを思い出し、私は蹲って涙を流した。
彼は私に何も言うでもなく、蹲った私の隣に腰を落とした。
ただそれだけのことだが、私にはとても安心感を得られた。大丈夫だと、言ってくれているように思えた。それは私の思い違いもいい所なのかもしれないけれど、今はそう思えているのだからそれでいい。
相変わらず涙は止まらなかったが、空を見上げると私が好きな風景が広がっていて、隣から吹き荒ばない風にも、慰められた気がした。
気付くと、いつも灰色と黒しか色を映さなかった空は青く、灰色の空しか映さなかった私の視界には確かに人がいたのだ。
それは確かな私の変化で、一人でいるのは寂しいと感じたのは、久しぶりだった。
ごめんなさい。
お察しの通り、途中で飽きました……!
えーっと、補足説明をするとですね、
まずメインヒロインである女の子には両親がいないという設定です。
人と接するのが苦手で、クラスでも浮いていてお友達もいないという設定です。
住んでいるお家はおじいちゃんとの二人暮らしです。たぶん。
小さくなったマフラーは、まだ女の子が小学生の頃にお母さんが編んでくれたマフラーっていう設定です。
女の子はこれをきっかけにきっと彼にどんどん惹かれていく
とかいう感じです。きっと。