封鈴
「母の声が、庭からしたんです」
少女はそう言って、膝の上の鞄を抱え直した。制服の袖口から覗く手には、折り畳んだ紙が握られている。何度も開いたのか、折り目の端が白く擦れていた。
ルファは紅茶を置き、向かいに座った。窓から差す夕日が、少女の頬の片側だけを照らしている。
「お母さんは、庭にいたの?」
「いいえ。私の隣で寝ていました」
カウンターで硝子を磨いていたライトが、手を止めた。
「それに、母は三日前から声が出ないんです。朝、起きたら急に。喉を痛めたんだろうって、最初は思っていました」
少女は紙を広げた。太い字で、薬の名前や、声が出なくなった日付が書かれている。その下には、違う筆跡で短い言葉が添えてあった。
庭の声は、聞こえなかった。
「これ、お母さんが?」
ルファが尋ねると、少女はうなずいた。
「昨夜のことを、今朝、母に聞いたんです。でも、私たちが何に驚いていたのか、わからなかったって」
昨夜、家族は同じ寝室で休んでいた。声の出ない母を心配して、幼い弟が一緒に寝たがったのだという。少女も寝台の脇に毛布を敷き、横になっていた。
夜中に、母の声がした。
『ねえ。ちょっと来て』
庭からだった。昼間、洗濯物を取り込むときに父を呼ぶ、いつもの声だったという。
「父が、どうした、って答えたんです」
少女は紙の角をつまんだ。
「それから起き上がって、窓へ行こうとして……母が寝ているのに気づいたんです。私も、そのとき目が覚めて」
「お父さんは?」
「口を開けたんです。でも、何も聞こえなくて」
息を吐き、喉を押さえ、もう一度口を動かした。母も起き上がり、父の背中へ手を添えた。庭の声は、それきりしなかった。
「今朝になっても、戻らないんです。父の声も」
少女は折り目に沿って紙を畳んだ。角が合わず、開いてやり直した。
「ここなら、不思議なことも相談できるって聞いて……」
ルファは紙から顔を上げた。
「昨夜、返事をしたのは、お父さんだけ?」
「はい」
「あなたも、弟さんも、何も言わなかった?」
「弟は眠っていました。私は、父が苦しそうだったから、灯りをつけて……そのときには、もう外から何も聞こえなかったんです」
ルファはしばらく黙っていた。それから席を立ち、棚の引き出しを開けた。
浅い木箱の中には、小さな硝子が色ごとに分けて入っていた。青、紫、緑。その中から一枚をつまみ、窓の光へ透かす。別の一枚と縁を合わせると、また箱へ戻した。
「今夜も、呼ばれるかもしれないわ」
少女が顔を上げた。
「今度は、お父さんの声で」
ライトは手の中の布を置いた。
「声を、持っていったの?」
「返事をした人の声を奪って、それで次の人を呼ぶものがいるの」
ルファは少女を見た。
「今夜、声が聞こえても返事をしないで。誰の声でも。戸や窓を閉めて、おうちの人と一緒にいてね」
「父も母も、声が出ません。弟に言っておきます」
「ええ。明日の朝、もう一度ここへ来て。声を取り戻すためのものを作っておくから」
少女は木箱を見た。
「……今日、持って帰れませんか」
ルファの指が止まった。
「作り置きがないの。硝子の合わせ方と、音をきちんと整えないと、閉じ込めても逃げられてしまう」
少女は鞄の口を閉じた。すぐには立ち上がらなかったが、やがて紙を胸のポケットへしまった。
「返事をしなければ、声は取られないんですね」
「ええ。聞こえても、答えないで」
ルファは同じ言葉を、もう一度、静かに繰り返した。
少女が帰ると、ライトは布を取り直した。ルファの選んだ硝子を一枚ずつ磨き、作業台の上へ並べていく。
窓の外が暗くなる前に、ルファは手元へ灯りを寄せた。
*
家へ帰ると、母が食卓で豆の筋を取っていた。父はその向かいに座り、弟の上着についた留め具を直している。いつもなら、今日の仕事や買い物の話をしている時間だった。
台所では湯が沸いていた。母の指から離れた筋が器へ落ち、父の持つ小さな工具が、ときどき金属に触れた。
少女はルファに言われたことを話した。
父は作業をやめ、弟を隣へ座らせた。少女の話が終わるまで、その肩に手を置いていた。
「誰かに呼ばれても、返事をしたらだめなんだって」
弟は少女を見た。
「お父さんでも?」
「うん。お母さんでも。私の声でも」
弟は父の顔を見上げた。父はうなずき、それから自分の口へ指を当てた。
少女は母にも尋ねた。声が出なくなる前、誰かに呼ばれなかったか。
母は豆を置き、しばらく考えていた。やがて父の使っていた鉛筆を取り、紙の余白に字を書いた。
夜、庭の戸を閉めに行ったとき。
そこで鉛筆が止まる。
塀の向こうから、女の人が。
母は顔を上げた。少女がうなずくと、続きを書いた。
どなたですか、と答えた。
食卓の下で、弟が父の袖をつかんだ。
少女は母の書いた言葉を指で追った。薬の名前の横に、小さな字が並んでいる。
「今夜は、みんな一緒にいよう」
自分の声だけが、部屋に響いた。
*
寝室の窓には、父が厚いカーテンを引いた。留め金を確かめ、戸口の前に椅子を置く。母と弟は寝台に入り、少女は昨夜と同じ場所へ毛布を広げた。
灯りを落とす前、弟は何度も家族の顔を見た。
「ほんとに、返事しないから」
少女はその頭を撫でた。
父は椅子に座ったまま、しばらく目を開けていた。けれど、夜が更けるにつれ、膝の上に置いた手から力が抜けていった。昨夜はほとんど眠れていなかった。
少女も、眠らないつもりだった。
窓の外を通る足音を数えていた。遠くで荷車が止まり、犬が一度だけ吠えた。家の中では柱時計が鳴った。
そのうち、時計の音も遠くなった。
「まだ、起きてるか」
少女は目を開けた。
父の声だった。
カーテンのすぐ向こうから聞こえた。庭を隔てた声ではない。窓ガラスへ顔を寄せ、隙間から中を覗いているような近さだった。
父は椅子にいた。顎を胸へ落とし、目を閉じている。
少女は毛布の上で指を握った。
「まだ、起きてるか」
窓の向こうで、父がもう一度言った。
寝台の上で、弟が動いた。
「……お父さん?」
少女は息を吸い、そのまま止まった。
父が顔を上げた。弟の声で目が覚めたらしい。母も身体を起こす。
弟は寝台の上に座り、椅子の父を見た。
何か言おうとした。
唇が開き、息が漏れた。
弟は口元に手を当てた。もう一度、父を呼ぼうとする。けれど、聞こえたのは短い息だけだった。
父が立ち上がり、寝台へ近づいた。弟は父の袖を引き、何度も口を動かした。母がその背を抱いたが、小さな肩は震え続けていた。
少女は立てなかった。
カーテンを見ていた。
父の声は、もうしなかった。
*
翌朝、虹色Caféの看板が表へ出される前に、少女は店の扉を叩いた。
ルファはすぐに開けてくれた。奥の作業台には細かな硝子と金属の切れ端が残り、飲みかけのカップが隅へ寄せられていた。
「弟も、声が出なくなりました」
ルファは少女の顔を見て、扉を大きく開けた。
「入って」
「寝ぼけていたんです。父の声で呼ばれて……ちゃんと言ったのに」
少女はそこで口を閉じた。
弟は約束を覚えていた。声が出なくなってからも、少女を見るたび、謝ろうとしていた。何を言いたいのかはわかった。父が紙を渡しても、まだうまく字を書けないので、鉛筆を握ったまま泣いていた。
ルファは少女を椅子へ座らせた。
「ここまで来られてよかった。できているわ」
作業台から持ってきたものを、テーブルに置く。
小さな風鈴だった。
赤や青、薄い緑の硝子が、丸みのある鐘の形に組まれていた。細い銀色の縁が、ひとつひとつの色を区切っている。裾の部分だけは透明で、中に吊られた雫形の硝子が見えた。その下へ細い糸が延び、白い短冊がついていた。
朝の光が当たると、赤い影が少女の指に落ちた。
「風鈴……?」
「封じる鈴。封鈴よ」
ルファは上の輪を持ち、下からそっと手を差し入れた。中の雫を指で押さえながら、少女の前へ吊り上げる。
「声が聞こえている間に、これを一度だけ鳴らして。中の硝子を、縁に触れさせるの」
「一度だけ?」
「ええ。鳴ったら、すぐにこの雫を握って止めて。もう一度触れさせないように」
少女は封鈴の下へ手を入れた。ルファが糸を緩め、雫形の硝子を、その掌に載せてくれる。小さく、冷たかった。
「鳴らすと、どうなるんですか」
「身体を持たないものを、硝子の中へ閉じ込めるの。それが奪った声を掴んでいられなくなれば、声はもとの身体へ帰れる」
「母も、父も……」
「弟さんも」
少女の指が、雫を包んだ。
「でも、中へ入れたあとで鳴らすと、封が開いてしまう。止めたら、この布を詰めて動かなくして。そのまま私に返してね」
ルファは柔らかな布を、折って差し出した。
少女は封鈴を支えたまま、手元を見つめていた。
「父に、鳴らしてもらってもいいですか」
「昨夜、お父さんは窓の声に気づいていた?」
少女は顔を上げた。
父が目を覚ましたのは、弟が返事をしたときだった。そのあとも、父も母も窓を見なかった。少女が指さして初めて、カーテンのほうへ顔を向けた。
「……弟が喋るまで、眠っていました。母も」
ルファは、昨日見せてもらった紙へ目を落とした。少女はポケットから取り出し、母の書いた言葉を見た。
庭の声は、聞こえなかった。
「声を取られた人には、呼びかけが聞こえなくなるのね」
戸口で足音がした。通学鞄を肩に掛けたライトが、店へ入ってきたところだった。少女の手元を見て、すぐに足を止めた。
「じゃあ、今夜、聞こえるのは……」
言いかけて、ライトは少女を見た。
「私だけ」
少女が言った。
ルファはうなずいた。
「呼ばれている間に鳴らして。返事をして声を取られたら、それはもう、あなたを呼ばなくなる。聞こえているうちに捕まえるの」
少女は唇を結んだ。
ライトが鞄を置き、テーブルの上の短冊を押さえた。少女は中の雫を離さないよう、もう片方の手へ持ち替えた。
ルファに教えられたとおり、布を少しずつ詰める。雫の周りを包み、硝子の縁との間に隙間がないことを確かめてから、ようやく指を抜いた。
風鈴は鳴らなかった。
少女は息を吐いた。
*
その日、少女は学校を休んだ。
封鈴を食卓に置き、父と母へ、聞いてきたことをひとつずつ話した。父は布の詰まった内側を覗き込み、それから少女の手を取った。掌を返し、指先を見る。まだ硝子の冷たさが残っていた。
「大丈夫。鳴らしたら、ここを握るの」
少女は、自分の指を曲げて見せた。
弟は少し離れたところから見ていた。昨夜から、家族の誰かが動くたび、そちらへ顔を向けるようになっていた。
少女が廊下へ出ると、すぐに小さな足音が追ってきた。
「どうしたの」
尋ねてから、少女は口を閉じた。
弟は答えなかった。服の裾をつかみ、上を見ていた。
少女はしゃがみ、その手を握った。
弟は昔から、暗いところが苦手だった。寝台へ入ってもすぐには眠らず、少女がまだ起きているか、何度も確かめた。
姉ちゃん、起きてる?
起きてるよ。
もう寝た?
まだ。
同じやり取りを、毎晩のようにしてきた。
少女は弟の手を握り直した。
「今夜は、手をつないでいよう」
弟は少女の口元を見ていたが、やがて小さくうなずいた。
*
夜になっても、寝室の灯りは消さなかった。
小さな灯明を机の上へ置き、家族はその近くへ集まった。窓の留め金を父が確かめ、戸も閉めた。母は寝台の壁側に座り、弟を膝へ寄りかからせていた。
少女は寝台の縁に腰を下ろした。封鈴の上の糸を左手の指に掛け、右手で弟の手を握る。内側に詰めた布は取り除き、膝に広げておいた。
短冊は寝台の上へ載せていた。動かなければ、音は出ない。
父は隣の椅子に座っていた。少女の手元と顔を、ときどき見比べている。机には紙と鉛筆が置かれていたが、誰もそれに手を伸ばさなかった。
外で風が吹いた。
軒先の金具が鳴り、窓枠が細かく震えた。少女は顔を上げたが、人の声はしなかった。
灯明の火が、硝子の内側に映っている。青の奥に小さな赤が揺れ、それが消えると、隣の紫へ移った。
弟の指から、少しずつ力が抜けていった。
少女は握る手を緩めた。母の腕に頭を預け、弟は目を閉じている。口が少し開いていた。寝息は聞こえた。頬も温かかった。
少女は窓へ目を戻した。
庭から母の声がした。
次の夜には、窓のすぐ外で父が呼んだ。
返事をするたび、家の中へ近づいている。
今夜も、窓の外にいるのだろうか。
封鈴の糸を握り直した、そのときだった。
「姉ちゃん」
耳のすぐそばで、声がした。
少女の右手が強ばった。
「起きてる?」
弟の声だった。
窓からではなかった。戸口からでもない。耳の後ろへ口を寄せ、ほかの人を起こさないように話していた。
少女は母の膝を見た。
弟は眠っていた。握っている手も、動かなかった。
いる。
すぐそばにいる。
少女はゆっくりと顔を父へ向けた。父は窓を見ていた。母は弟の髪を撫でている。どちらも、いまの声には気づいていなかった。
「もう寝た?」
いつもの聞き方だった。
まだ、と言いかけた。
喉の奥が動いた。
少女は弟の手を離し、口を押さえた。
父がこちらを向いた。少女の顔を見て、椅子から少し腰を浮かせる。
少女は首を振った。
封鈴。
鳴らさなければ。
左手の中で糸が指へ食い込んでいた。中の雫は動いていない。右手を口から離して、触れさせればいい。
けれど、手を離したら、返事をしてしまいそうだった。
「姉ちゃん、聞こえてる?」
声が耳の中へ入ってきた。
少女は目を閉じかけ、開いた。灯明が滲んでいる。母が弟の肩を抱き直した。父の手が、少女の膝へそっと触れた。
誰も、声のするほうを見ていなかった。
「いるなら、返事して」
少女は歯を食いしばった。
口を押さえた右手を、少しずつ下ろす。唇から離れた指が震えた。息を止め、封鈴の裾へ差し入れる。
冷たい雫に触れた。
指先で押す。
ちん、と鳴った。
小さく、澄んだ音だった。
耳元の弟が、息を吸った。
「ねえ――」
声が途中で細くなった。
少女の右手へ、冷たい空気が流れ込んできた。窓は閉まっているのに、封鈴の内側だけで風が巻いていた。雫が揺れ、もう一度、縁へ触れようとする。
少女はそれを握った。
硝子が掌の中へ収まった。外側の鐘には触れなかった。
音の余韻が、細く残っていた。
赤い硝子の内側に、白い曇りが広がる。曇りは青へ流れ、緑の奥で丸まった。少女の指の周りを何かが一度だけ撫で、それきり風は止まった。
声も、消えていた。
少女は動かなかった。
硝子を握り、息を止めたまま、母を見た。
「……どうしたの」
母が言った。
掠れた声だった。母自身も驚いたように、口元へ手を当てた。
父が椅子を鳴らして立ち上がった。
「大丈夫か」
その声に、少女の肩が跳ねた。
父はすぐに膝をつき、下から少女の顔を覗き込んだ。口が動いている。そのすぐ下で、喉も動いている。
寝台の上で、弟が咳をした。
少女はそちらを見た。
弟は目を開け、母の腕の中から身体を起こそうとしていた。
「姉ちゃん?」
少女の指に力が入った。
「ここにいるよ」
母が弟へ言った。
「ちゃんと、ここにいる」
母は少女の肩へ手を置いた。温かい掌だった。
少女は口を開けたが、すぐには声が出なかった。何度か息を吸い直し、ようやく、膝の上の布を見た。
「……これ」
父が布を持ち上げた。
「中に、詰めて。鳴らさないように」
父はうなずいた。少女が雫を握ったまま、母が上の輪を支え、父がその周りへ布を差し込んだ。
ひと折りずつ。
硝子が布で囲まれるまで、少女は手を抜かなかった。
*
翌朝、少女は父と一緒に虹色Caféへ来た。
封鈴は小さな箱へ収めてあった。箱の底にも周りにも布を詰め、少女が両手で抱えていた。父が代わろうとしても、首を振った。
店の扉を開けるときだけは、父に頼んだ。
ライトが顔を上げ、すぐにテーブルの上を空けた。少女は箱を置き、蓋を開けた。
「……一度だけ、鳴らしました」
ルファは箱の中を覗いた。硝子の内側を確かめ、下から詰められた布へ指を添える。
「ええ。ちゃんと止められたのね」
少女はうなずいた。
「みんな、声が戻りました」
「ありがとうございました」
父が頭を下げた。昨日まで出せなかった声を、ひとことずつ確かめるような話し方だった。
少女は父の横顔を見た。
帰り道、何を話そうかと思った。弟が朝から何度も同じことを喋っていた話でもよかった。母が、もういいから朝ごはんを食べなさいと笑ったことでも。
けれど今は、父がルファに礼を言う声を、黙って聞いていたかった。
ルファは封鈴を箱から出した。中の布を抜かず、輪へ別の紐を通して、硝子戸のある棚へ吊るした。白い短冊は持ち上げ、棚板の上へそっと寝かせる。
戸を閉めたあとで、少女はようやく空の箱から手を離した。
父と娘を見送ってから、ライトは棚の前へ戻った。
朝日が硝子戸を透かし、封鈴に当たっていた。赤、青、緑。作業台で磨いていたときよりも、色が深く見えた。
ライトは、下から覗く白い布を見た。
「ずっと、あのまま?」
「ええ。鳴らせないから美しいの」
ルファは棚の戸を指で押し、閉まっていることを確かめた。
店の外で、少女が何かを話していた。父の短い返事があり、それから二人分の足音が遠ざかっていった。
ライトは棚から手を下ろした。
七色の硝子は、光の中で澄んでいた。
中の小さな雫だけが、白い布に包まれて、見えなかった。
了




