ヌヴェル42 プルーストの記憶 バンカーズランプの場合
万年筆は、久々に彼の手の中で一仕事を終えた。
白い便箋の上を、走ったり、歩いたり、躓いたり、立ち止まったりしながら。
「ありがとうとか、会えますかとか、なんかそんなことを書いていたような気がする」
万年筆が周りの文房具や家財の仲間に聞かせている。
「多分、彼女から手紙が来たからだよ」
オレンジ色の灯りを照らして、バンカーズランプが言う。
「ええっ!?あの別れた彼女から?」
文房具や家財の仲間たちが一斉に驚く。
「この前、彼宛に封書が届いただろう?その中に二通手紙が入っていて、その内の一つを彼が開けたときに彼女の香りが漂ったんだよ」
バンカーズランプは、どこにあるのかわからない鼻で深呼吸をした。爽やかなラベンダーのような香り。
彼女の香りが甦り、みんなは彼女がいたころのことを思い出した。
あれは三年前。互いの生き方を尊重した別れだった。
そして互いに納得できる結果が得られたら、また逢いましょうと約束していた。
「それじゃ、あれは彼女宛の手紙だったのかなぁ?」
万年筆は想像を巡らす。周りのみんなは心をワクワクさせた。
二通の手紙の内、一通は確かに彼女からのものだった。
残る一通は、彼女の妹からのものだった。
彼は、その妹宛に手紙を書いた。
一週間後。
「病院のようだったよ。以前、彼が病院というところへ行ってね、そこと雰囲気が似ていたから」
彼の腕時計が、今日の彼の行動をみんなに報告している。
「彼女が、そこにいたの?」
みんなが心配そうに聞く。
「御免、僕には分からない。彼の腕時計になったのは二年前だから。ただ、女性には会っていたよ。ベッドに寝ていた」
腕時計の報せはみんなを深刻にさせた。
御推察通り、病院のベッドに寝ていたのは、彼女だった。
あとどれだけ生きられるかという状態だった。
二カ月後。
なんとも言えない匂いが彼の部屋に漂っている。
「これは、抹香の匂いじゃな」
声の主は本棚の写真立て。そこには、子供の頃の彼と両親と祖父母が写った写真が入っている。
机の上には、黒いネクタイと数珠というものが無造作に置かれてる。
バンカーズランプの灯りの下で、そこだけが澱んでいる。
部屋の隅から、彼の嗚咽がかすかに聞こえる。
みんな黙っている。
夜の静寂。
それから、どれくらいの時間がたったのだろう。
力なく机に近づいた彼は、一冊の日記帳を置いた。
あの爽やかなラベンダーのような香りが、あたりに漂った。
ネクタイと数珠を持って、彼は部屋を出て行った。
一冊の日記帳を残して彼女はいなくなった。
そこには彼女の彼への思いが溢れていた。
溢れる思いは、溢れる香りとなって彼の部屋を満たした。
バンカーズランプは、そっと灯りを消した。
暗闇の中で、彼女の香りの中で、みんなが思い出に浸れるように・・・。
プルースト効果
ある特定の香りや匂いから、それにまつわる記憶、感情が呼び戻される現象をいう。




