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ヌヴェル42 プルーストの記憶 バンカーズランプの場合

作者: 寺澤樹生
掲載日:2026/09/26

万年筆は、久々に彼の手の中で一仕事を終えた。

白い便箋の上を、走ったり、歩いたり、躓いたり、立ち止まったりしながら。


「ありがとうとか、会えますかとか、なんかそんなことを書いていたような気がする」

万年筆が周りの文房具や家財の仲間に聞かせている。

「多分、彼女から手紙が来たからだよ」

オレンジ色の灯りを照らして、バンカーズランプが言う。

「ええっ!?あの別れた彼女から?」

文房具や家財の仲間たちが一斉に驚く。

「この前、彼宛に封書が届いただろう?その中に二通手紙が入っていて、その内の一つを彼が開けたときに彼女の香りが漂ったんだよ」

バンカーズランプは、どこにあるのかわからない鼻で深呼吸をした。爽やかなラベンダーのような香り。

彼女の香りが甦り、みんなは彼女がいたころのことを思い出した。

あれは三年前。互いの生き方を尊重した別れだった。

そして互いに納得できる結果が得られたら、また逢いましょうと約束していた。

「それじゃ、あれは彼女宛の手紙だったのかなぁ?」

万年筆は想像を巡らす。周りのみんなは心をワクワクさせた。


  二通の手紙の内、一通は確かに彼女からのものだった。

  残る一通は、彼女の妹からのものだった。

  彼は、その妹宛に手紙を書いた。


一週間後。

「病院のようだったよ。以前、彼が病院というところへ行ってね、そこと雰囲気が似ていたから」

彼の腕時計が、今日の彼の行動をみんなに報告している。

「彼女が、そこにいたの?」

みんなが心配そうに聞く。

「御免、僕には分からない。彼の腕時計になったのは二年前だから。ただ、女性には会っていたよ。ベッドに寝ていた」

腕時計の報せはみんなを深刻にさせた。


  御推察通り、病院のベッドに寝ていたのは、彼女だった。

  あとどれだけ生きられるかという状態だった。


二カ月後。

なんとも言えない匂いが彼の部屋に漂っている。

「これは、抹香の匂いじゃな」

声の主は本棚の写真立て。そこには、子供の頃の彼と両親と祖父母が写った写真が入っている。

机の上には、黒いネクタイと数珠というものが無造作に置かれてる。

バンカーズランプの灯りの下で、そこだけが澱んでいる。

部屋の隅から、彼の嗚咽がかすかに聞こえる。

みんな黙っている。

夜の静寂。


それから、どれくらいの時間がたったのだろう。

力なく机に近づいた彼は、一冊の日記帳を置いた。

あの爽やかなラベンダーのような香りが、あたりに漂った。

ネクタイと数珠を持って、彼は部屋を出て行った。


 一冊の日記帳を残して彼女はいなくなった。

 そこには彼女の彼への思いが溢れていた。

 溢れる思いは、溢れる香りとなって彼の部屋を満たした。


バンカーズランプは、そっと灯りを消した。

暗闇の中で、彼女の香りの中で、みんなが思い出に浸れるように・・・。



プルースト効果

ある特定の香りや匂いから、それにまつわる記憶、感情が呼び戻される現象をいう。


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