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白い魔力を持てなかった令嬢セレス

作者: 風谷 華
掲載日:2026/03/12

 世界には、正しい色というものがある。


 少なくとも、そう信じている人たちがいる。


 白が正しい。白が美しい。白が、生きてよい証だ。


 でも、灰色に生まれた者は、どうすればいい。


 白になれないなら、せめて白に見せるしかない。


 それが、どれほどの痛みを伴うとしても。


 これは、自分を偽ることに疲れ果てた一人の少女が、それでも――自分の色で生きることを選ぶまでのお話。


      




    *   *   *



 夜明け前の空は、灰色だ。


 カーテンの隙間から差し込む光は青みがかっていて、部屋の隅にまだ夜の名残りを押し込めている。セレスはその光の中で目を覚ます。いつもそうだ。鳥が鳴く前に、太陽が昇る前に、世界が白くなる前に。


 起き上がると、膝まである長い髪がざあっと広がった。


 セレスの髪は、変わっている。根元に近い部分は深い灰色で、毛先に向かうにつれて少しずつ色が薄れ、銀白色へと移ろっていく。まるで夜明けの空そのものを切り取ったような、グラデーションの髪。普通ではない色だと、物心ついた頃から言われ続けてきた。


 鏡の中の自分は、頬骨のあたりが少し尖っていて、唇は淡い桃色をしている。目は灰みがかった緑色で、光の加減によっては煙のような色に見える。公爵令嬢にしては地味すぎると、侍女たちがこっそり言い合っているのをセレスは知っている。


 でも、今はそんなことより。


 棚の前に立ち、引き出しを開ける。小さなガラス瓶が一列に並んでいた。どれも無色透明で、見た目は化粧水と変わらない。光にかざすと、ほんの少しだけとろみがあることがわかる。


 これは魔法だ。


 「漂白の魔法薬」――魔力の色を一時的に白く覆い隠す術式。


 この薬を、母が最初に持ってきたのはセレスが八歳の時だった。


 「ある商人から手に入れたの」と母は囁くように言った。「表では売っていないけれど、わかる人にはわかる場所で流通している薬よ。あなたの魔力を……白く見せてくれるの」


 当時のセレスには、その言葉の意味が半分しかわからなかった。ただ、母の目が怖かった。いつも穏やかな母が、その時だけは追い詰められたような目をしていたから。


 瓶の蓋を開ける。無臭だ。何の匂いもしない。それなのに、鼻の奥が痛くなるような気がする。


 セレスは目を閉じ、両手のひらに薬液を垂らした。


 そして、自分の魔力に向けて、塗りつける。


 白い霧のようなものが、魔力を外側からゆっくりと包み込んでいく。灰色の光が膜に覆われ、見えなくなっていく。包まれるたびに、皮膚の下を焼くような感覚が走る。骨の内側から圧迫されるような、鈍くてしつこい痛み。灰色の魔力が白い膜に抵抗するように震えて、やがて静かになる。


 両手の指先が一瞬だけ震えて、止まった。


 鏡の前に立ち、魔力感知の術式を自分にかける。


 全身から白い光が滲み出た。純白。汚れのない、正しい色。


 「……よし」


 セレスは小さく息を吐いた。今日も、ちゃんと白い鳥になれた。


   *   *   *



 ラヴィナ王国では、魔力は「色」で示される。


 白が、最も高貴な色だ。


 白の魔力を持つ者は聖なる血の証、天から選ばれた存在とされ、貴族社会の頂点に立つ。純白の光を放つ者は生まれながらに正しく、美しく、信頼に値する。逆に黒や赤などの「色つき魔力」は庶民的とされ、灰色や茶色に至っては「濁り」「不浄」と呼ばれて蔑まれる。


 セレスの魔力は、灰色だった。


 公爵令嬢として生まれ、第二王子の婚約者として育ちながら、セレスはその事実を一日も忘れたことがない。物心ついた頃には既に、父の視線が自分を素通りすることを知っていた。食卓で向かい合っても、父はセレスの少し右側を見ていた。いるのに、いないように扱われる感覚。


 しかし母だけは違った。


 エルメラ夫人は、セレスが生まれたその日から娘の魔力の色を知っていた。そして父に隠し続けた。娘を守るために。


 「セレス、これは秘密よ」と母は囁いた。窓から差し込む午後の光の中で、母の栗色の髪がきらきらしていた。「あなたの色は、特別なの。世界がまだその価値を知らないだけ」


 幼いセレスはその言葉を信じた。でも年を重ねるごとに気づいていった。母の言葉は愛情だったけれど、同時に――逃げ場のない檻でもあった。


 だから八歳のとき、セレスは決めた。


 白くなれないなら、白く見せればいい。


 その決意に、十年分の痛みが積み重なっている。




    *   *   *



 今日は重要な日だった。


 年に一度の「魔力奉納の儀」――王族と上位貴族が広場に集い、王国守護の結界を更新する儀式。全員が魔力を同時に解放し、結界石に注ぎ込む。


 つまり、全員に魔力が「見える」。


 だからセレスは今朝、いつもより多めに漂白の魔法薬を使った。白い霧が魔力をしっかりと包み込んだことを何度も確かめた。痛みが引くまで、鏡の前でじっと立っていた。


 儀式まで、まだ時間があった。セレスは侍女のマリアに案内され、王城の小広間へと向かった。レオナルド王子からの呼び出しが来ていたのだ。


 回廊の窓から、午後の庭が見えた。白薔薇が満開で、遠くまで白い海のように広がっている。この国では庭師が白以外の薔薇を植えることを禁じられている。白だけが正しい、白だけが美しい、とされているから。


 小広間の扉を開けると、レオナルドが窓辺に立っていた。


 二十四歳の第二王子。


 背が高く、肩幅がある。光の中に立つと、短く整えられた金髪が燃えるように見える。目は深い琥珀色で、笑うと目尻に細かな皺が寄る。白金の魔力光は、彼が部屋にいるだけで空気をわずかに明るくした。この国で最も「正しい」男の一人。


 テーブルには、見慣れない菓子が置かれていた。白い生クリームをたっぷりのせた苺のタルト。


 「来たか、セレス」


 「食べてみろ」レオナルドはフォークを手に取り、一口分切り分けた。「目を閉じて」


 「……殿下、自分で食べられます」


 「いいから」


 観念して目を閉じると、空気の甘い匂いが濃くなった。口を開けると、ふわりと甘さが広がった。苺の酸味が最初に来て、続いてバニラの丸い香り。それからクリームの奥にほんのわずかな塩気があって、全部が溶け合って消えていく。


 「どうだ」


 目を開けると、レオナルドが顔を近づけてこちらを見ていた。答えを待つ子どものような、少し得意げな目で。


 「……美味しいです」


 「だろう? 先月、君が『苺が好き』と言っていたのを覚えていてな。料理長に頼んでおいた」


 (ああ、この人が好きだ)


 毎朝の痛みも、鏡の前での「よし」という言葉も――この笑顔のためなら耐えられると、思えてしまう自分がいた。


 「今日の儀式が終わったら、来年の婚約発表の準備を始めよう。再来年には式を挙げる。君との未来を、正式に形にしたい」


 セレスは微笑んだ。完璧な、しかし今日だけは本物の微笑みで。


 「はい、殿下」


 その幸福が、どれほど脆い砂の上に立っていたか。この時のセレスはまだ知らなかった。




    *   *   *



 儀式は夕暮れに執り行われる。


 西の空が朱に染まり、広場の石畳がその色を受けて赤みを帯びていた。白薔薇の並木道に、橙色の光が満ちてくる。どこかで鐘が鳴った。荘厳な、低い音が空気を揺らした。


 並木道の入り口で、レオナルドがセレスの手を取った。


 「緊張しているのか?」「少し……」


 正直に答えると、彼は小さく笑って、セレスの手の甲に唇を落とした。温かかった。白薔薇の香りが風に乗って来た。


 「大丈夫だ。君はいつも美しい。今日も、俺の隣に相応しい」


 こういう瞬間だけは、偽りの自分でいることを忘れられた。


 司祭の詠唱とともに、全員が魔力を解放し始めた。白い光が広場を埋め尽くす。百の魔力が開花する。石畳が輝き、白薔薇の花びらが舞い上がった。


 セレスも目を閉じた。魔力を白い膜がきちんと包み込んでいるか確かめながら、慎重に外へ解放する――


 その瞬間、感じた。おかしい。朝包んだ白い膜が、薄れかけている。


 (なぜ? 今日はいつもより多めに使ったのに)


 心臓が跳ね上がった。出力を絞ろうとする。でも儀式の流れに引っ張られて、魔力が止まらない――


 その時、風が吹いた。嵐のような突風だった。


 横殴りの風が広場を薙ぎ払い、白薔薇の花びらが一斉に舞い上がった。誰かが悲鳴をあげる。結界石が揺れ、儀式の光が乱れた。非常事態に、全員の魔力制御が瓦解した。


 白い膜が、完全に剥がれた。


 セレスの胸から、溢れた。白ではない光が。


 灰色の、しかしただの灰色ではない何かが。黒と白が混じり合い、煙のように揺らめき、夕暮れの空気の中でひどく異質な色彩を放ちながら、セレスの周囲に広がっていく。


 風が止んだ。


 「……灰色?」隣に立っていた令嬢が息を呑んだ。


 「灰色の魔力……?」「公爵令嬢が……?」「ずっと偽っていたの?」


 囁きが、波のように広がっていく。セレスは動けなかった。


 「セレス」レオナルドの声は、冷たかった。


 振り返ると、彼は二歩後ろに下がっていた。さっきまで温かかった琥珀色の目に、嫌悪と失望が浮かんでいた。そして――隠しきれない安堵。


 「君は……ずっと、私を騙していたのか」


 「違います、私は――」


 「濁った魔力の持ち主が、王家と婚姻など。そんなことが許されるはずがない」


 群衆の中から、父の声がした。「恥を知れ、セレス」


 父は知らなかったのだ、とセレスはその瞬間に理解した。十年間、母と自分だけの秘密だった。父の怒りは本物だった――それが却って、刃のように刺さった。


 「お前など、我が娘ではない」


 その隣に、母が立っていた。


 エルメラ夫人は――何も言わなかった。


 セレスと目が合った、一瞬だけ。母の栗色の髪が風に揺れた。唇が微かに震えて、でもすぐに伏せられた。扇で口元を隠し、父の一歩後ろに下がる。いつもの、完璧な公爵夫人の立ち振る舞いで。


 (お母様……)


 知っていたはずなのに。十年間、一緒に隠してきたはずなのに。公の場では、母もまた「白い国の住人」だった。


 「追放を申し渡す」国王の声が広場に響いた。「今夜中に王都を出よ。二度と、この白き国に戻るな」


 ――ずっと、知っていた。いつかバレると。どんなに白く覆っても、本当の色は消せないと。


 それでも十年、塗り続けた。痛みに耐えながら、毎朝鏡の前で「よし」と言い続けた。


 それが今夜、終わった。


 嵐の名残りの風が、セレスの長い髪を乱す。灰色から銀白色へと流れるグラデーションの髪が、夕暮れの光の中で揺れた。白薔薇の花びらが一枚、彼女の足元に落ちた。


 純白の花びら。セレスには、似合わない色だ。




    *   *   *



 王都を出たセレスの手には、小さな革鞄一つしかなかった。


 石畳が土道に変わり、街灯が消え、やがて木々が空を覆い始めた。どこへ行けばいいかもわからないまま、ただ足だけが動いた。


 雨が降り始めた。冷たい雨がドレスに染みていく。やがて足がもつれ、革鞄が泥の中に落ちた。しばらく、そのままでいた。


 泣こうとしたけれど、涙が出なかった。心が麻痺していた。


 「まあまあ、ひどい格好ね」


 顔を上げると、木の根元に老女が座っていた。六十代ほどに見えるが、頬は艶やかで、皺の刻まれ方が深く美しかった。白髪に近い銀色の髪を束ねもせず肩に流し、深緑色の外套を羽織っている。


 目だけが、異様に若い。漆黒の目に、星の粒のような光が瞬いている。まるで夜空をそのまま閉じ込めたような目だった。ずぶ濡れのセレスと違い、彼女だけが雨に濡れていなかった。


 「ロゼッタよ。森に住んでるただのおばあちゃん。ただのおばあちゃんにしては、魔力が多すぎるけどね」


 「……大魔女、ですか」


 「そういう大げさな呼び方は好きじゃないわ。とりあえず立って。スープを作るから」


 ロゼッタの小屋は、外見は古い木造の小屋だが、中に入ると広かった。天井から乾燥したハーブが吊るされ、ラベンダーとローズマリーの匂いが混ざって甘く青い空気を作っていた。壁一面に本棚が並び、暖炉の前には丸いテーブルと椅子が二つ。暖炉の中で、火が穏やかに揺れていた。


 ロゼッタが鍋を火にかけ、玉ねぎと人参を刻み始める。しばらくして、スープの甘い匂いが部屋に満ちた。


 「追放されたの?」「……どうしてわかるんですか」


 「深夜に一人で荷物一つで森に入ってくる令嬢なんて、そういうものでしょ。それに、あなたの魔力。面白い色ね」


 今は白い膜が剥がれて、素の魔力が漏れている。灰色の、揺らめく光。


 「……醜い色です」


 「そんなことないわよ。最高のニュアンスカラーじゃない。白と黒が混ざってる、全部持ってるってことよ」


 「全部?」


 「白は光の魔力、黒は闇の魔力。この国じゃ白しか認めないけど、本来どちらも必要なものなの。光だけじゃ影ができない。影がなきゃ形も見えない。あなたの灰色はね、どちらにも染まれる原石なのよ。磨けば、白でも黒でもない――黄金になる」


 「信じられません」


 「まあ、今日信じなくてもいいわ。まず食べなさい。空腹のまま絶望するのは効率が悪い」


 セレスは思わず、小さく笑っていた。(笑えた。こんな夜なのに)


 スープを一口飲んだ。塩加減が丁度よくて、体の奥から温かくなった。




    *   *   *



 最初の一週間は、ただ眠った。起きればスープがあり、また眠った。ロゼッタは何も訊かなかった。ただ毎朝「おはよう」と言い、毎晩「おやすみ」と言った。


 八日目の朝、セレスは自分から起き上がった。朝の光が窓から差し込んでいた。鳥の声がした。葉の揺れる音がした。


 ロゼッタは暖炉の前に座って、古びた本を読んでいた。


 「ロゼッタさん。なぜ、私を助けてくれたんですか」


 ロゼッタは本から目を上げなかった。「昔、似たような子がいたから」


 「似たような……?」「私よ」


 ロゼッタはゆっくりと本を閉じた。漆黒の目が、遠いところを見た。


 「私の魔力はね、黒だった。この国では「穢れの色」とされる色よ。生まれた時から、私は穢れていた。薬なんてなかったから、ただ追われるだけだった。十二歳の時、真冬の夜に村を追われたの」


 淡々とした声だった。怒りも悲しみも、時間の中で溶けてしまったような声。


 「森の中で倒れているところを、先代の大魔女に拾われた。今の私、ロゼッタみたいな人にね。その人は私の黒い魔力を見て、こう言ったのよ」


 ロゼッタは微かに笑った。


 「『闇があってこそ、星は輝く。あなたの色は夜空の色だ』って」


 しばらく沈黙があった。暖炉の火が一際大きく揺れた。


 「それからよ。七十年かけて、黒い魔力で何ができるかを研究してきた。今の私は、若い頃の私とはまるで別の魔力師よ」


 「七十年……では、本当のお年は……」


 「聞かない聞かない。デリカシーのない子ね。まあ、百は超えてるわ」


 セレスは呆然とした。


 「あなたに薬のことを聞いた時ね」ロゼッタは続けた。「怒りよりも悲しかった。母親がわが子のために手に入れた薬。その気持ちはわかる。でも、その薬を売っていた商人のことは……知ってるの」


 ロゼッタの目が、一瞬だけ鋭くなった。星の光が、冷たく瞬いた。


 「あの薬はね、魔力の色を隠すだけじゃない。長く使い続けると、魔力そのものを少しずつ蝕んでいく。色を隠すことへの依存を高めながら、魔力を弱らせていく。商人にとっては上客が増えるほど儲かる仕組みよ」


 セレスは自分の手のひらを見た。十年間、毎朝塗り続けた。


 「……だから、痛かったんですか」


 「そう。本来は痛みなんてないはずの薬なの。あなたの魔力が、ずっと抵抗し続けていたのよ。消されたくないって」


 抵抗していた。消されたくないと。


 セレスは目を閉じた。十年分の、毎朝の痛みが走馬灯のように蘇った。あれは薬への恐怖ではなく、自分の魔力が発していた声だったのだ。


 「……修行を、させてください」


 「なんで?」


 「強くなりたいんじゃない」セレスは言った。「自分の色を、恥じないでいられるくらいに、なりたい」


 ロゼッタはしばらくセレスを見つめ、それからにっこり笑った。


 「よろしい。ただし約束して。白い薬は、もう使わないこと」


 「はい」セレスは顔を上げた。「もう、使いません」




    *   *   *



 修行が始まった。夜明け前に叩き起こされ、森の中を走らされた。魔力の制御を一から学び直した。白い膜に頼ってきた十年間で、本来の魔力の扱い方をすっかり忘れていた。しかし今度の痛みは、自分を消す痛みではなかった。


 一ヶ月後、魔力に銀の筋が入り始めた。朝の光の中で見ると、霧の中に光の糸が走っているようだった。


 「いい兆候ね。白と黒が混ざり合い始めてる」ロゼッタは言った。


 「まだ不安定で……」「当たり前よ。十年分の歪みを直すんだから」


 セレスは笑った。最近、よく笑えるようになっていた。


 三ヶ月が経つ頃、隣国イルヴァの使節団が森を訪れた。先頭に立つのは漆黒の外套を纏った青年。外套の肩に銀の刺繍が入っている。


 「ロゼッタ殿。陛下より書状を預かってまいりました」


 青年はロゼッタに一礼した後、セレスに視線を向けた。


 二十代前半。切れ長の目は透明な青灰色で、光の加減によっては氷のように見えた。顎のラインが鋭く、口元は固く結ばれている。黒髪は短く整えられ、前髪が少しだけ額にかかっていた。鋭いのに、どこか孤独な顔をしていた。


 「魔力が珍しい色だ。灰色に銀が混じっている」


 批判でも嘲りでもなく、ただ純粋な観察として言われた言葉だった。


 「……変な色ですよね」


 「いや。これは黄金になる前の色だ。俺が知っている中で、最も希少な魔力だ」


 後でロゼッタに訊くと、あの青年はアルヴィス――イルヴァ帝国の若き皇帝だと教えてくれた。「氷の皇帝」と呼ばれる、強すぎる力ゆえに孤独な王。


 「複雑な子よ」ロゼッタはスープをかき混ぜながら言った。「強い。信念もある。でも……自分を傷つけることに慣れすぎてる。あの子が皇帝になったのは十六歳の時。父親が急死してね。その死には、色々と噂があるの。アルヴィスは今も、それを背負って生きてる」


 「あの子が求めてるのはね」ロゼッタは続けた。「自分の理想を認めてくれる誰かじゃないのよ。自分のままで、それでも前に進んでいいと――そう思わせてくれる誰かなの」


   *   *   *



 アルヴィスが再び森を訪れたのは二週間後だった。今度は一人だった。ロゼッタが「ちょっと待ってて」と出かけてしまい、小屋にはセレスとアルヴィスだけが残された。


 「修行は順調か」しばらくしてアルヴィスが口を開いた。


 「はい。少しずつ」


 「灰色に銀が混じっていた。あれから変わったか」


 セレスは手のひらを広げた。陽射しの中で、銀の筋がよく見えた。


 「少し……増えました」


 アルヴィスはじっとその手を見た。それから、ぽつりと言った。


 「俺の魔力は、青だ。イルヴァでは皇族の色とされるが……氷を内包してる。触れたものを凍らせる力がある。人を傷つけることしかできない魔力だと、子どもの頃から言われてきた」


 静かな声だった。感情を押し込めているのではなく、すでに何度も反芻して乾いてしまったような声。


 「父が死んだのは……俺の魔力が暴走したからだ。十五歳の時。感情が高ぶると制御できなくなることがあって、その時も――」


 アルヴィスは言葉を切った。


 「事故だったと、周囲は言う。俺もそう思っている。でも、それで許されるわけじゃない。だから俺は、この力で誰かを守ることを決めた。傷つける力しか持てないなら、せめて守るために使う。それが俺の贖罪だ」


 セレスはしばらく黙っていた。


 「……私は、十年間、自分の色を消し続けた。傷つくのが怖くて。でも、消すことの方がずっと痛かった」


 「そうだな」


 「あなたは傷つける力を守る力に変えた。それは……すごいことだと思う。でも」


 セレスはアルヴィスを見た。透明な青灰色の目。孤独な色をした目。


 「贖罪のためじゃなくて、ただ守りたいから守る、ってなれる日が来たらいいなと思います。その方が、あなたらしい気がする」


 アルヴィスはしばらく無言だった。窓の外を見た。木漏れ日の中で、彼の横顔は少しだけ柔らかかった。


 「あなたの灰色は、消えなかったんだな」


 「消えませんでした。十年間、毎朝覆い続けたのに。消えなかった」


 「そうか」それだけ言って、アルヴィスはまた窓の外を見た。




    *   *   *



 四ヶ月が経った頃、王都から使者が来た。


 しかしその使者は、王族の名ではなく来た。「私は貴族議会の一員です」と男は言った。五十代ほど、白い魔力光を持つ、いかにも上流貴族然とした男。しかし顔色が青ざめていた。


 「あの夜、儀式で起きた「嵐」は……自然現象ではありませんでした」


 セレスは息を呑んだ。


 「風を操る魔力を持つ貴族が、意図的に起こしたものです。目的は――白い膜を剥がすため。セレス様のものだけでなく、その場にいた全員の」


 「全員の……?」


 男は深く息を吸った。


 「あの夜、セレス様の魔力が露わになった時……他にも、複数の貴族の魔力が乱れました。風が止んですぐ、彼らは素早く立て直しましたが、一瞬だけ本来の色が見えた。赤、緑、茶、橙……白ではない、様々な色が」


 「つまり……」


 「この国の上位貴族の多くが、魔力を白く偽っているのです」男は俯いた。「あの漂白の薬は、闇商人が貴族社会に広めたものです。誰もが怖かった。白でなければ生きていけない国で、白でない自分を。だから皆、買い続けた。私も……その一人です」


 沈黙が落ちた。暖炉の火が揺れていた。


 「あの夜、あなただけが追放された」男は続けた。「他の者たちは素早く立て直せた。でも……心のどこかで、罪悪感があった。本当に不浄なのは誰か、ということに気づいてしまったから」


 セレスはしばらく、何も言えなかった。


 十年間、自分だけが偽っていると思っていた。十年間、自分だけが「白くない」と思っていた。


 違った。


 「なぜ今頃それを」ロゼッタが静かに言った。


 「黒い厄災が迫っているからです」男は顔を上げた。「白の魔力では対処できない厄災が。そして……この国の「白」がどれほど脆い幻だったかを、皆が知り始めているからです」




   *   *   *



 王都に黒い霧が現れ始めたのは、その翌週だった。郊外から始まり、じわじわと広がっている。白い魔力では弾くことができず、聖女の浄化魔法も効かない。随一の魔力師たちが対処しようとしたが、逆に霧に飲まれて正気を失ったと続報が来た。


 「黒い厄災ね」ロゼッタは静かに言った。「百年に一度、大地の歪みが溢れ出す現象。白い魔力が最も苦手とするやつ」


 セレスは立ち上がっていた。


 「私が行きます」


 「……なぜ?」


 「追放した国です。助ける義理はないかもしれない」セレスは言った。「でも、そこに生きている人がいる。普通の人が、霧に飲まれている。それを見過ごせない。それに――私の色が役に立てるなら、使いたい。それだけ」


 ロゼッタはしばらくセレスを見つめた。


 「……わかった。ただし条件がある」


 「なんですか」


 「私も行く」


 セレスは目を瞬いた。


 「一人で行かせるわけないでしょ」ロゼッタは立ち上がり、棚から黒い外套を取り出した。「七十年分の黒い魔力、久しぶりに使いましょうか」


 漆黒の目に、星の光が瞬いた。ただの優しいおばあちゃんではない、伝説の大魔女の目が。




    *   *   *



 王都は、黒い靄に沈んでいた。


 城門の前に立つと、空気の質が違うとわかった。重い。湿っている。喉の奥に苦い何かが貼りついてくるような感覚がある。空は薄暗く、太陽が霧越しに滲んでいた。通りには誰もいない。閉め切られた窓の向こうに、息を潜める人々の気配があった。


 広場に着くと、霧は一段と濃かった。白薔薇は枯れ果て、石畳は黒く変色している。結界石は霧に飲まれ、周囲に倒れた魔力師たちが横たわっていた。


 そして広場の中央に、一人の少女が立っていた。


 白い髪を長く垂らし、白い礼服を着ている。十六歳ほどだろうか。小柄な体から白い魔力を放ち続けていたが、霧は少しも退かず、むしろ白い光を食らうように濃くなっていく。唇は蒼白で、足が細かく震えていた。


 「……もうやめて」セレスは声をかけた。少女が振り返った。目が赤かった。


 「でも……私が止まったら……私しかいないから……」


 「今は、私もいるから」


 セレスは少女の前に立った。胸の奥から、魔力を引き出す。白い膜を使うことなく。ありのまま、自分の色で。


 灰色に銀の混じった魔力が溢れ出した。それは霧に触れた瞬間、変化した。


 白が黒を包む。黒が白を受け入れる。相反する二つの力が螺旋を描いて絡み合い、融合し、昇華していく。


 金色の光が、セレスの体から放たれた。


 純白でも漆黒でもない。その中間を超えた先の色。もっと深く、もっと静かな、揺るぎない色。生まれて初めて、セレスは自分の魔力が美しいと思った。


 そこへ、ロゼッタが前に出た。


 深緑の外套をさっと払い、両手を広げる。その手から溢れ出したのは、深く深い黒の魔力だった。七十年かけて磨き上げた、夜空の色。黒の魔力が霧の根を捕らえ、引きずり出す。黄金の光がその根を包み込み、融かしていく。


 そこへアルヴィスが現れた。漆黒の外套が、透明な青灰色の目を美しく引き立たせている。


 「遅くなった」


 「来てくれたんですか」


 「約束した。見届けると」


 彼の氷の魔力が、黄金の光とロゼッタの黒をつなぐように流れ込んだ。三つの力が絡み合い、増幅していく。霧が収縮し始めた。結界石が姿を現した。


 セレスの黄金の光が霧の核を貫いた瞬間、広場の霧は一斉に晴れた。


 静寂。夜明けの光が、枯れた白薔薇に差した。




    *   *   *



 王族と貴族たちが広場に集まってきた頃には、霧は消えていた。


 セレスは立っていた。長い髪が風に揺れていた。灰色から銀白色へと流れるグラデーションの髪に、黄金の光の余韻が滲んでいた。


 「セレス……君は、黄金の魔力師だったのか」レオナルドが言った。後悔と懇願の混じった声で。


 「……追放は取り消す」国王が言った。「王国の守護魔力師として、改めて――」


 「必要ありません」


 セレスの声は、静かだった。震えていなかった。


 「私が来たのは、助けが必要な人がいたからです。この国に認められたいからではない」


 レオナルドが一歩前に出た。「待ってくれ。俺は間違っていた。君を手放すべきではなかった」


 セレスは彼を見た。整った顔。琥珀色の目。苺のタルトをくれた、優しい人。


 でも。


 「殿下は、白いセレスを好きでいてくれた。灰色のセレスを、一度も見たことがなかった。私はもう、白い膜を使いません」


 その時、群衆の中から怒声が上がった。


 「ふざけるな!」


 初老の貴族が顔を赤くして前に出てきた。


 「灰色の魔力など認めん! たとえ厄災を退けたとしても、穢れた色は穢れた色だ! こんな茶番で、この国の秩序を乱すつもりか!」


 広場にざわめきが広がった。反論する声も上がったが、同調する声も少なくなかった。「そうだ」「白でない者を英雄扱いするなど」という言葉が、確かに存在した。


 セレスは、その貴族を見た。


 怒っている。本気で。長年信じてきた世界が崩れそうになっているから。


 「あなたの怒りは、わかります」セレスは言った。「私の色は、あなたの信じる正しさとは違う。それは変わらない。私はあなたに認めてもらいたくてここに来たんじゃない。ただ、この国に生きる人たちを助けたかった。それだけです」


 貴族は何か言おうとして、言葉が出なかった。


 広場に静寂が戻った。


   *   *   *



 その後に起きたことは、セレスが予想していなかったことだった。


 貴族議会の男が、広場の中央に進み出た。


 「私から申し上げたいことがある」


 「あの夜の儀式で……私の魔力は乱れました。白ではない、本来の色が一瞬だけ露わになった。橙色の魔力です。私は二十年間、漂白の薬を使い続けてきた」


 広場がざわめいた。続いて別の貴族が声を上げた。「私も……緑の魔力だ」。また別の者が「私は赤だ」と言った。一人が口を開くと、堰を切ったように声が続いた。


 全員ではなかった。本当に白い魔力を持つ者もいた。「認めん」と叫んだ貴族のように、沈黙したまま去っていく者もいた。


 でも、確かに変化が起きていた。


 夜明けの光の中で、様々な色の魔力が、おずおずと姿を現し始めていた。橙、緑、赤、青、紫。白薔薇の広場が、初めて色づいていく。


 セレスはその光景を、ただ見ていた。


 これは勝利ではない。始まりですらないかもしれない。去っていった貴族がいる限り、この国は変わらない部分を持ち続けるだろう。


 でも。隠していた色を、初めて見せた人がいた。それだけは、確かなことだった。


   *   *   *



 広場の隅で、セレスは聖女の少女の手を取った。白くて冷たい、細い手だった。


 「一人で背負わなくていい。あなたはまだ十六歳なんだから」


 少女の目から、涙が落ちた。




    *   *   *



 「セレス」


 アルヴィスの声がした。振り返ると、朝の光が黒髪に当たって、青みがかった光沢を作っている。透明な青灰色の目が、まっすぐにセレスを見ていた。


 「俺は、あなたの魔力を初めて見た時から、ずっと気になっていた。俺の氷の力は人を凍らせる。それでも守るために使うと決めた。でも……あなたの灰色を見た時、初めて思った。傷つける力と守る力は、本当は同じものなのかもしれないと」


 「同じ……?」


 「力そのものに色はない。使う者の意志で変わる。あなたがそれを教えてくれた」


 「……あなたの色も、きれいですよ」セレスは言った。「氷みたいで」


 アルヴィスはわずかに目を瞬いた。それから、ほんの少し笑った。普段の「氷の皇帝」とはまるで違う、ただの青年の顔だった。


 「……ロゼッタのところに帰ります。まだ修行が途中なので」セレスは言った。「あなたは?」


 「俺も……少し、やり直したいことがある。力の使い方を。贖罪のためではなく、自分の意志で守るために」


 「なら、ロゼッタに相談してみたらどうですか。あの人、厳しいけど、ちゃんと見てくれるから」


 アルヴィスは少し考えてから、言った。「……ついていってもいいか」


 セレスは少し笑った。「仕方ありませんね」


   *   *   *



 城門の外に出ると、森へと続く道が朝日に照らされていた。土の匂いがした。草の匂いがした。遠くで鳥が鳴いた。


 少し後ろでロゼッタが、アルヴィスに何かを話しかけていた。アルヴィスは困った顔をして、ロゼッタはけらけら笑っていた。


 セレスは前を向いたまま、その声を聞いていた。


 広場では、色とりどりの魔力を持つ人たちが、まだ話し合っていた。全員が変わるわけではない。去っていった貴族もいる。この国はこれからも、白を正しいと信じる人が多数派であり続けるかもしれない。


 でも。


 今日、橙色の魔力を初めて見せた貴族がいた。緑の光を恥ずかしそうに出した令嬢がいた。


 それでいい、とセレスは思った。全員に認めてもらう必要はない。全員を変える必要もない。ただ、自分の色で立っていられればいい。


 風が吹いた。道端の草が揺れた。白薔薇の花びらが一枚、どこからか飛んできてセレスの長い髪に絡まった。灰色から銀白色へと流れるグラデーションの中に、純白の花びらが一枚。


 セレスはそっと取り除こうとして、やめた。


 白もそんなに悪くない。ただ、それだけ(・・)が正しいわけじゃないだけで。


 手のひらから、黄金の光が静かに漏れていた。


 白くなくていい。灰色のままでもいい。


 それがわかった今、世界が少しだけ、違う色に見えた。



                          


 おしまい

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― 新着の感想 ―
その力を使って何が出来るのかが大事で、色や属性で優劣を決めるのは愚か者のする事。 後、王都だけで災厄が起きて居たのは、白に偏り過ぎたからなのかもね。
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