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持つべきは婚約者ではなく親友でしょう!?

作者: 入多麗夜

 親友は気弱だった。

 マリア・ベルクは、幼い頃からそうだった。


 争いを嫌い、強く言われればすぐに謝り、場の空気が悪くなることを恐れて自分を引っ込めてしまう――そういう性格だった。


 そのせいで、彼女はいつも損をしていた。


 そして、まさにその性格につけ込まれた出来事が、昨夜起きたのだ。


 今朝、エリーゼはマリアをお茶会に誘った。

 というより、半ば強引に引きずり出したと言っていい。


 ――結果、正解だった。


 席に着いたマリアの目は真っ赤で、まぶたは腫れ、どう見ても一晩泣き通した顔をしていた。


「……マリア?」


 声をかけた瞬間、彼女はびくっと肩を跳ねさせた。


「ど、どうしたのマリア!? 目……その、腫れて……」


「あ……いえ……その……」


 マリアはカップを持つ指をきゅっと握りしめ、視線を落とした。


「ちょっと、眠れなくて……」


 嘘だ。どう見ても泣いた後の顔だった。


「ちょっとじゃないでしょ。それ」


「……」


 そして、マリアの目からぽろりと涙がこぼれた。


「ごめんなさい」


 エリーゼは、何も言わずに席を立ち、そっとマリアの隣に移動した。テーブル越しではなく、同じ側のソファに腰を下ろす。距離を詰めると、マリアの肩が小さく震えた。


「……ほら」


 ハンカチを差し出すと、マリアはしばらくそれを見つめてから、ようやく受け取った。


「……ごめんなさい……」


 声はかすれていた。


「謝る必要、ないでしょう」


 エリーゼは静かに言った。


「何があったの」


 マリアは、しばらく黙っていた。

 カップに視線を落としたまま、何度も唇を開いては閉じる。


 そして、ぽつりとこぼした。


「……エドワード様が……」


 その名を聞いた瞬間、エリーゼの指がわずかに止まった。


「……昨夜の晩餐会で……」


 マリアは、途切れ途切れに話した。


 エドワード・ハインリヒ伯爵令息。

 彼は、マリアの婚約者だった。


 それも、社交界ではよく知られた話だ。

 気弱で優しい子爵令嬢マリアと、将来有望な伯爵家嫡男エドワード。

 二人の婚約は「微笑ましい」「お似合いだ」と評され、多くの貴族たちに祝福されていた。


 エリーゼも、その一人だった。


 誰に対しても分け隔てなく接し、困っている人を見れば必ず手を差し伸べるマリア。

 そんな彼女に、去年、ようやく訪れた初めての婚約。


 報告を受けたときのマリアの照れた笑顔を、エリーゼは今でもはっきり覚えている。


 だからこそ、エリーゼはマリアのことを誇らしく思っていた。

 この子は、きっと幸せになるのだと、何の疑いもなく信じていた。


「……エドワード様が……リネット様と……ずっと……」


 マリアの声が震える。


「……わたしに何も言わずに……皆の前で……」


 喉が詰まったように言葉が途切れ、マリアはハンカチで口元を押さえた。


「……退屈な女だって……婚約を……解消するって……」


「……浮気、してたの?」


 マリアは、こくりと頷いた。


「……前から……だったみたいで……」


 マリアはそう言って、視線を落としたまま動かなくなった。

 カップの中の紅茶はすっかり冷めているのに、湯気のない水面を見つめたまま、ただ肩を小さく揺らしている。


 エリーゼは、マリアの横顔を見つめながら、何も言わなかった。

 慰めの言葉など、今は何の役にも立たない。

 ただ、マリアの指先がかすかに震えているのを、静かに見守っていた。


 やがて、マリアが小さく息を吸う。


「……わたし……ずっと……気づいてたの」


 声は、ほとんど聞き取れないほど小さい。


「……エドワード様が……目を合わせなくなって……話も……減って……」


 マリアはハンカチを強く握りしめた。


「……でも……聞けなかった……怖くて……」


 もともと彼女は、あまり多くを話す人ではない。感情を言葉にするより、胸の内にしまい込む方が楽な性格だった。今こうして親友のエリーゼに打ち明けていること自体、相当に追い詰められている証拠だった。


 エドワードは誰とでも話す人間だ。場を盛り上げるタイプであった。そういう彼と寡黙なマリアが噛み合っていなかったとしても不思議ではない。

 それでもマリアは、自分が合わせればいいと思ってきた。その結果が、これだった。


 マリアの肩が小さく震え、紅茶の水面に静かに涙が落ちた。


 彼女にとっては、相当のトラウマだったのだろう。

 皆の視線が集まるあの場で、婚約者に切り捨てられたという事実は、失恋では済まされない。これから社交界に立つたび、あの光景を思い出さずにいられないほどの傷だ。


 マリアはそのことを、言葉にしなくてもわかっていた。だからこそ、こうして声を殺して泣くしかなかったのだ。


 エリーゼは、マリアの揺れる背中を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。


 親友として何かしてあげないと。


 慰めの言葉だけでは足りない。寄り添うだけでは終われない。マリアが受けた屈辱も、恐怖も、これから先も背負わされるはずだった傷も全てなかったことにはならない。


 ならば、せめて。その原因となった相手には、相応の責任を取らせなければならない。


 エリーゼは、そっとマリアの肩に手を置いた。


「私に任せて頂戴。貴方の思いは全て晴らすわ」


 エドワード・ハインリヒ。


 彼が何を失うべきか、どうして失うべきか。

 その答えは、マリアの涙の重さが、すべて教えてくれる。


 エリーゼはマリアの背中にそっと手を添えながら、窓の外へ視線を向けた。



 ◇



 翌日から、彼女は動き始めた。


 エドワード・ハインリヒという男は、表向きは社交的で誠実な伯爵令息として知られていた。だが、裏ではまるで違った。


 内気だから、黙っている。

 内気だから、抵抗しない。

 内気だから、何をしても大丈夫だと思ったのだろう、と。


 そう思っている外道のそれだった。


 おそらくエドワードの歴代の恋人も、そして今回もそうだったのだろう。


「あの人? 前にも同じことをしてるわ。相手はいつも、おとなしい子だった」


 そう答えたのは、その令嬢だけではなかった。


 別の婦人に尋ねても、返ってきた言葉はほとんど同じだった。


「ええ。強い子は選ばないのよ。文句を言わない子ばかり」


 さらに別の人物も、同じように首を縦に振った。


「いつもそうよ。優しくして、期待させて」


 大抵の人間が、同じ答えを返した。


 聞くところによれば、エドワードは最初こそ丁寧で、気遣い深く、相手の話をよく聞く。悩みがあれば寄り添い、孤独を感じていれば言葉をかけ、まるで唯一の理解者であるかのように振る舞うという。


 だが、相手が心を許し、本気になったと分かった瞬間、態度は一変する。


 連絡は減り、視線も合わなくなり、やがて何事もなかったかのように距離を取る。

 何が目的なのかは知るところではないが、そうやって相手の気持ちを弄んでいたのだ。


 しかも厄介なのは、その後だ。周囲には必ず、こんな悪評が流れる。


 ――あの子のほうが重かった。


 そんな空気が作られるのだ。

 内気で、強く出られない相手にはたまったものではない。


 エリーゼはその話を聞きながら、マリアの顔を思い出していた。


 泣き腫らした目。震える指先。それでも周囲に迷惑をかけまいとして、我慢する姿。


 エリーゼは確信した。これは恋愛のもつれではない。弱い立場の人間だけを選び、踏みつけていく、悪質な常習犯の手口だ。


 だからこそ、見過ごすわけにはいかなかった。



 ◇



 その日の夜、王宮の大広間は、いつもと変わらぬ華やかさに満ちていた。


 天井から吊るされた無数の燭台が金色の光を落とし、磨き上げられた床に反射し輝いていた。

 楽団の音は高く澄み、笑い声と衣擦れの音が絶え間なく流れていた。


 だが、その場に――マリアはいなかった。


 当然であった。

 あの夜の出来事のあと、彼女がこの場に立てるはずがない。その記憶がまだ生々しい今、再び同じ空気を吸えというほうが残酷だ。


 だから、ここに立つのはエリーゼ一人だった。


 彼女はゆっくりと歩きながら、ホールの中央を見据えた。


 そこに、エドワード・ハインリヒがいた。


 相変わらず人に囲まれ、社交的な笑みを浮かべ、まるで何事もなかったかのように振る舞っている。その隣には、リネット・ヴァルシュタインが控えめに立っていた。伏し目がちで、慎ましく、少し怯えたように見える仕草は、誰の目にも「内気な令嬢」に映るだろう。


 エリーゼは、その光景を一瞬だけ見据え、静かに息を整えた。

 そして、楽団が一曲を終えた瞬間を待って、前へ出た。


「皆さま」


 その声は大きくはなかったが、不思議とよく通った。

 自然と会話が止み、視線が集まる。


「本日は、エドワード・ハインリヒ伯爵令息について、皆さまにお伝えしたいことがございます」


 空気が、ぴたりと凍りついた。


 エドワードが、ようやくこちらを見た。

 その表情に浮かんだのは、わずかな警戒と、わずかな苛立ち。


「エリーゼ……あぁ、確かマリアの友達だったね。何の用だい?」


 エリーゼは一礼し、話を続けた。


「先日、マリア・ベルク子爵令嬢との婚約が破棄されました。理由は――『退屈な女だから』。そうおっしゃいましたね」


「……感情的な言葉だよ。あの場の空気もあったし――」


 エドワードは言いかけて、言葉を切った。

 すでに周囲の視線が集まっている。


「……要するに、合わなかっただけだ。婚約というのは、そういうものだろう?」


「合わなかった?」


 エリーゼの声は低く、静かだった。


「では、お聞きします。あなたはこれまでにも、同じ理由で何度、婚約を解消なさっていますか?」


 エドワードの表情が、わずかに歪んだ。


「……それが、何だというんだ」


 エリーゼは、手にしていた書類を一枚、静かに掲げた。


「三年前。地方伯爵家の次女との縁談。理由――『性格が合わない』」


 一枚、めくられる。


「二年前。子爵家の三女。理由――『静かすぎて話が弾まない』」


 さらに一枚。


「半年前。準男爵家の令嬢。理由――『重すぎる』」


 会場の空気が、少しずつ冷えていく。


「そして今回。マリア・ベルク子爵令嬢。理由――『退屈な女だから』」


 エリーゼは紙を下ろし、まっすぐに彼を見据えた。


「これが偶然だとお思いですか?」


 エドワードの視線が揺れた。


「……ただの相性の問題だ」


「では、なぜ全員“内気で、反論しない”令嬢ばかりなのですか?」


 その問いに、エドワードは言葉を失った。


 ほんの一瞬、口を開きかけたが、音にならない。

 周囲の視線が集まり、逃げ場が消えていくのが、はっきりと分かる。


 エリーゼは彼の沈黙を見届けてから、さらに一枚、書類を取り出した。


「そして――こちらは、リネット・ヴァルシュタイン男爵令嬢と関係を持っていた最中の不貞の記録です」


 ざわめきが走る。


「あなたはリネット様と親密な関係にありながら、同時期に別の令嬢とも関係を持っていました。馬車の手配、屋敷裏口への出入りを見た使用人の証言、密会の日時。すべて一致しています」


 エドワードの顔から、血の気が引いた。


「……そんなもの、でっちあげだ」


「では、この証言も嘘だと?」


 エリーゼの合図で、数名の使用人が一歩前へ出た。


 視線が彼らに集まり、再びエドワードへ戻る。

 言い逃れは、もうできなかった。


 そのとき、リネットが、静かに口を開いた。


「……あら」


 その声は、ひどく落ち着いていた。


 エドワードが振り返る。


「リネット……?」


 リネットは、ゆっくりと顔を上げた。


 そこにあったのは、先ほどまでの“内気な令嬢”の表情ではない。


 口元に浮かんだのは、はっきりとした笑みだった。


 次の瞬間、乾いた音が、大広間に響いた。


 リネットの平手がエドワードの頬を打ったのだ。


 エドワードは衝撃でよろめき、信じられないものを見るように彼女を見つめた。


「……な、なにを……」


  「勘違いしないで頂戴! 私は貴方が別れたから、付き合って“あげた”のよ!」


 彼女は続けて話す。


「内気そうな女が相手なら、どうせ何も言わないだろうって?私がそんな人間に見えたのなら、あなたの目は節穴ね」


 リネットは唇の端をつり上げた。


「あなたがマリアと別れたから、私は“次”になった。それだけのこと。最初から、あなたを信用してなんかいなかったわ」


 エドワードの喉が、ひくりと鳴った。


「……リネット、待ってくれ……違う、誤解だ……」


「誤解?」


 リネットは鼻で笑った。


「二股の証拠が並んでいるのに、よくそんな言葉が出るわね」


 そして、きっぱりと言い切る。

 リネットは背を向け、ドレスの裾を翻した。


 その姿は、先ほどまでの“控えめで内気な令嬢”とは、まるで別人だった。


 そう彼女は――超強気の女だった。


 欲しいものを得るためなら、どんな顔でも使い分ける。相手が油断すれば利用し、価値がなくなれば切り捨てる。


 それが、リネット・ヴァルシュタインという人間だった。


 その夜を境に、エドワード・ハインリヒの名は、「内気な令嬢を狙い、踏みにじり続けた外道」として語られるようになった。そして、マリアは無事、エドワードによる悪評を晴らす事ができた。



 マリアはその場にはいなかった。だが、彼女の涙が、この劇的な生んだのだ。

 これくらいの仕返しをしておかなくては、どう考えても、帳尻が合わないだろう。


 エリーゼは静かに息を吐き、心の中でつぶやいた。


 ――やっぱりね。持つべきは、婚約者じゃない。親友よ。

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