2 谷底の夜明け
魔導書と共に谷を落ちていったノルの下には深そうな湖があった。水も汚れていなさそうで、きっと飛び込みのクッションには――想像を絶しそうな高い所からの落下でなければ――申し分ないだろう。しかし下手に飛び込んで魔導書を濡らした挙句頭骨にヒビでも入れてしまったら元も子もない。悩んだ末に苦肉の策で左に見えた洞穴の入り口らしき場所に魔導書を投げ飛ばし、自由になった両手で鼻を押さえ口を覆い、その後なんとか体を回して靴の底から着水した。
幸いにも魔導書は水飛沫もかからないくらい離れた所に落ちたし、落ちた本人はどうにか腕を回して陸に上がることはできた。しかし、ずぅっと高い所からの衝撃を受け止めた小さな体……特に足は無事では済まなかったし気を失ってしまいそうな程にまで痛かった。
――両足が、滅多刺しにされたように痛い。
――光も無い中を進むのが、暗闇に包まれるのが怖くてしょうがない。
――こんなところで死にたくない。ひとりはさみしい。
……おにいちゃんに、あいたい。
苦しくて苦しくて仕方なくて、いっそ全部から逃げて、目を瞑ってしまいたいと思ったかもしれない。けれど、それでもノルはまだ死ねないから、残りの力を振り絞ってまで這って魔導書を探し当て、何度も開いた回復魔法のページに手をかける。特訓で見慣れた魔法陣と魔力式、それらで九死に得た一生を繋ぎ止めるため、喉の限界まで何度も何度も”低級回復魔法”を唱えた。
幸運故か血の影響かはわからないが、失敗作だなんだと言われていたノルにも掃いて捨てる程の魔力だけはあった。ソレを頼りに少しずつでも身体を癒せば、疲弊と共に元通りの足は彼の所有下に戻った。
――しかし、残念ながら魔法とは魔力だけを消耗するものではない。魔力と比べたら微々たるものではあるが、多少ながら体力を使う。そんなものを莫大な回数繰り返せば、降らせ続けて積もった塵が山を作るように身体への負担もどんどん膨らむ。少なくとも、長時間体力を使った小さな子供には耐えられない程にまで大きくなるのは想像には難くないだろう。
そうして酷使に次ぐ酷使でクタクタになった体が求めるまま、ノルの意識は彼方に吸い込まれた。
◇ ◇ ◇
濡れた服を絞ることさえ忘れて眠り続けたノルは、翌朝と言うには少し遅く感じる時間に地面の揺れによって目を覚ました。それは本来ならあるはずのない、地震のように地中を蠢くどころか篩を使うように地表を揺らしたものだった。
――もしかしたら何かが起きているのかもしれない、場合によっては今いる洞窟も危ないかもしれない。
そう不安がるノルは確かに怯えていた。……が、しかし中身がそこまで知のない子供なのも事実だからなのか、確かに心の中には好奇心も微かにあった。
「もし何かあったら怖いけど……でも、何もしないでここにいるより、ちょっとでも使えるものとか探した方が良いかもだよね……? 果物とか、生えてるかもしれないし……おなかすいたし……」
そう己に言い聞かせた向こう見ずな少年は揺れの正体を探るため、取りきれなかった疲労と乾ききっていない服で重い体を引きずるように、洞穴の奥に向かって歩き始めた。
一方同じ谷の底にある洞窟では、俗に言う”冒険者”のパーティーのような集団がゾロゾロと中に響き渡る轟音の元へと向かっていた。
彼ら彼女らは近場の国々のギルドからとある緊急依頼によって派遣されたメンバーで、高級素材の装備に身を包んだ誰も彼もが有数の実力者である。その中でも特に戦闘力や判断力に優れたリーダーの面々を先頭に、なるべく目的地到達前に欠員の出ないよう固まって動いていた。全員の纏う雰囲気はこれ以上ない程ピリついていて、それが各々の緊張や警戒を表しているとわかる。
そんな十何人を引き連れたリーダー達は、歩を進める傍でこう話している……
「……いやまさか、こんなヤバいの国から回されるとは……」
「強制出動を言い渡された時は命日来たかと思ったぜ……」
「縁起でもないことを言うのはおよし、マイトリー!!」
「まぁまぁ、こう言いたくなるのも仕方ないですよ……」
――『トゥイライト洞窟で暴れている原因の調査及び沈静化』なんて言われてるんですから。
そう、何を隠そう彼らの今回の仕事は谷底から轟音と揺れを何度も響かせる元凶の対処なのだ。だが対象はただでさえ地表から遠く離れた谷底から地を揺らせるのに、大型モンスターの唸り声のような音も幾度となく立てられる『正体不明の何か』。しかもソイツは一体とは限らない。
余程頭の欠けた駆け出しでもなければ誰もが怯えて依頼書を見て見ぬふりをする、そんな案件を強制参加令によってぶん投げられた高ランク冒険者は、ため息混じりで神経を研ぎ澄ませていた。
……目的の生物に気を取られるあまり、足跡に釣られた小さな子供に気づくことのないまま。
◇ ◇ ◇
目的地である谷の洞窟の奥深く。
まず目に入るのは離れていてもわかる荘厳なダークパープルとブラックの塊。それが取っ組み合い、離れたと思えば巨大な火の玉や魔力の籠った斬撃を飛ばし合う。発される唸り声や鳴き声は波紋の如く広がり、目の前の生命体のあらゆる感情が乗ったようにビリビリとした感覚に心臓を掴まれた気さえした。
そして、それらを抜いて一等戦意を削ぐのはその塊達のいでたちにもあった。立派なツノ、鋭い牙を包むマズル、ヒト数人は余裕で包めそうな大きい翼――
リーダー四人は揃ってこう思った。
「「「「コレを鎮めさせようとしたギルドは正気なのか……???」」」」
……と。今この目で見るまでは正体を誰も知らなかったとはいえ、ドラゴンブレスと斬撃飛び交う現場を見てしまえばそう思って絶句してしまう他なかった。実際に、ある者は顔を真っ青にして、またある者は体の肌という肌から脂汗を流し、ある者は家族への遺言を唱え出す始末……到底仕事にはならない状態だろう。
”ドラゴン”というものはそもそも大体がデカい・強い・知能も高い・それが理由で歯が立たないの最悪揃いの生物なのだ。そこそこのランクの一体でも生半可なパーティーでは逆にすぐ狩られてしまうのに、ソレが二体。もう会話のできない弱い種族の個体であることに賭けるしかなくなっている。リーダーをしていた冒険者の一人、ゲインは諍いに割り込むようにこう話しかけてみた。
「あの、ちょっといいすか? アンタらの喧嘩で谷がめっちゃ危険になってんすけど――」
『あ゛ぁ!? 人間風情が我らの問題に口を出すのか?!』
――はい終わった。言葉通じた。高ランク確定です。
ゲインの声はダークパープルの方のドラゴンに遮られ、放心している間にまた二体は暴を振るい合い初めてしまった。なんなら妨害が入って余計にイライラしているせいか声をかける前より攻撃は激化している。硬直するゲイン、頭を抱えたり遺言を唱え始める仲間達。空気はどんどん絶望に染まっていった。
……しかし、その空気は少し離れた場所から駆け寄ってきた、思いもよらない存在によってちょっぴりだけ変えられた。
◇ ◇ ◇
「ねぇお兄さん達、こんなとこでどうしたの? ここ谷の底なんだよ、おでかけで来るにはあんまり良くないよ?」
「……こど、も?」
ノルはようやく見つけた自分以外の人間に声をかけてみた。彼は冒険者どうこうの話なんぞさっぱりわからないため、話しかけた斧使いやそれに近しい格好の人間の正体、それから彼らがなぜこんな辺境にいるのかもわからなかったが正直そんなものなんでもよかった。揺れや視界の端の塊のことについてが何かしら聞けたらそれでよかった。斧使いのお兄さんは、丁寧にしゃがんでこう答えてくれた。
「俺らはこの谷から聞こえる音を鳴らしてるものを調べに来てるんだ、だからおでかけじゃねえんだよ。それよりお前はなんでまたこんな危険なとこにいるんだ、ガキ一人で遊ぶような場所じゃねぇってのに」
「えっと、ぼくは昨日……」
――ノルが説明しようとした時のこと。斬撃で目を負傷したらしいダークパープルのドラゴンが大声をあげ、話し声をかき消した。思わず耳を覆ってしまいたくなるような金切り声に意識を向けたノルも、ようやくソレを頭まで完全に認識した。
血を流して、傷付け合う、大きな生命体を見た。ノルは声にするはずだった言葉を失くして、ただそれを凝視する。そして……
「ッおい坊主、戻れ!! そっちは危険だ、お前なんかすぐに取って食われちまうぞ?!」
気付けばそんな制止も振り切って、小さな足で駆け出していた。
きっとそれは衝動が理性を置き去って体を操っただけ、それでも彼はたとえ理性があっても同じ選択をしただろう。
『いたい』は『くるしい』のを、ノルは知っていたから。




