1 山あるところに深き谷あり
ノル・ブロクスピア・シンギュラーには魔法の適性と家族運が塵程もなかった。
ある国に、代々魔法の実力を重んじる血筋があった。
”シンギュラー”の名を持つその一族は特異な血が流れており、生まれた者は例外なく有り余る程の才能を持っていた。火、水、風、土、それらに限らずこの世の様々な属性の実力者を生んだこの家系は、人々に『神の寵愛の象徴』とすら語られている。
現にノルの家族だってそうだった。父は風属性の、母は闇属性のあらゆる魔法を使いこなし、二歳上の兄イリオスに至っては火属性に加えて他より珍しいとされる無属性の魔法に適性があった。希少な二属性使いで無属性適性もあるイリオスのことを、両親はたいそう可愛がっていた。
しかし弟のノルだけは、彼らと同じようにはいかなかった。家族と同じものどころかどんな属性も扱えなかったのだ。火も出せない、風も吹かせられない、水や土すら出せやしない。各属性の最低級魔法すら、いくら頑張っても出そうとすれば体が耐えきれず手がズタズタになる始末。誰の目から見ても”出来損ない”であることは嫌でも明らか。そう見られ始めてからのノルが面汚しに成り下がるのは早かった。
「あんたなんか生まれなきゃ良かったのに」
「お前はまるでイリオスの残りカスだな」
「お兄さんは優秀ね。それに比べて……ノル君だっけ? あの子ときたら……」
親に失望を吐き捨てられる度に、周りにクスクス笑われる度に、無能の証の白い瞳は悲しそうに揺れていた。
だが唯一、兄だけは優しかった。
家族の分までノルを愛し、貯めた小遣いで魔導書をプレゼントしてくれたことだってあった。
「ノルにできること、一緒に探してやるからな」
そう言って、子供には少し大きい魔導書を抱きしめ喜ぶ弟に微笑んでくれた。
「その白い目、太陽みたいに綺麗で俺は好きだよ」
そう励まし、時には頭だって撫でてくれた。
優しいイリオスが、ノルは本当に好きだった。彼は兄を『イリにぃ』と呼び慕い、精一杯に兄のためにできることを探し、同じくらいに兄を愛していた。
――冷え切った世界の中のノルを温めてくれるイリオスの存在は、焚き火のようにかけがえないものになっていた。
◇ ◇ ◇
「イリにぃ、聞いて聞いて! あのね、明日ね、お母さんがおでかけに連れてってくれるの!」
ある日の夜、過去例を見ない程はしゃいでいるノルは突然兄にそう告げた。
弟曰く、魔法の特訓を人一倍頑張っているノルのご褒美として”いいところ”に連れて行ってくれるらしいのだ。だがサプライズのために場所は教えてくれなかったのだと。
”いいところ”というのがどこになるかが予想できなかったが、まぁ城下町だとかそこら辺になるだろうとイリオスは思っていた。シンギュラー一家の住処は王都にあり、街は商店が並ぶ道でさえ買い物にうってつけどころか見て歩くだけでも楽しいのを彼は知っていた。
「えへへ、楽しみ……! どこ行くんだろう、街に出れるのかな……?」
「きっとそうだろうな、もしかしたら城下町で欲しいものとか買ってくれるかも!」
「だったらいいなぁ……!! もしそうだったらカバンがいいな、イリにぃにもらった魔導書持っておでかけするのに便利なやつ!」
布団の中で未だもしょもしょと落ち着かない様子でいるノルをイリオスが嗜め、そのまま兄弟は少し狭いシングルベッドでその日を終えた。明日も大切な人が幸せでありますように、楽しい一日が訪れてくれますようにと願いながら。
……弟も兄も、少なくともこの時は「「(お)母さんがそんなこと言い出すの、珍しいな」」としか思っていなかった。
――日は上り、訪れた当日。母はノルを朝日が見え始めるくらいの時間に連れ出し、それから馬車に乗せてくれた。初めて見る景色の数々に、ノルは眠気も忘れる程心を躍らせて目まぐるしく動く外を見ていた。買い物をする民衆の話し声、子供たちが開けた場所で遊ぶ音、だんだん街から遠ざかって馬車の動く音に耳を覆われても、その落ち着いた調子さえノルにとっては心地よかった。外の音に耳を傾け、空気の暖かさと盛んに咲いた花を眺め、昼には商業街で買ってもらった甘い果物を味わい、抱えてきた魔導書を読み耽っていれば時間は忘れられた。
……何かおかしいな、とようやく思い始めたのは、夜も更けた頃に国境の街で馬車を降りたくらいだった。
そこは家どころか王都自体からも遠く離れた場所。日帰りなんてできるわけもなく、基本的には道中泊前提で遊びに行くようなところだ。『ただのおでかけであるわけがなかった』のをこの時にはもうなんとなくノルもわかっていた。
「ねぇお母さん、もう暗いのにまだ進むの? それにここ、お家からも遠いし明日になるまでに帰れないんじゃ……」
それとなく投げかけた質問に答えが返ってくることはなくて。母はノルの手が痛むのも構わず引っ張って、目的地さえも黙ったまま早歩きを続けていた。そのまま疲れも厭わず歩き続け、気付けば国境の門でお金を払って外に出ていて、草を四つの足が踏み締める音だけが響いていた。
◇ ◇ ◇
「ねぇ。あんたさ、あれから何か魔法使えるようになったの?」
そう突然言われたのは、国から少し離れた峡谷のような場所に辿り着いてからだった。あまりにいきなりすぎて戸惑うノルに、母は続けて「前イリオスにその魔導書買わせてたでしょ? そんなの読んでるなら基礎魔法の一個は使えるようになってるわよね?」と言った。
――無茶を言われていたのは、ノルには痛いほどわかった。家族である彼女なら、ノルが攻撃魔法なんて絶対に使えないのはわかっているはずなのに、それでもまだ顔の泥を拭える存在に成るのを期待してくるのだから。それでもなるべく失望させたくなくて、今も縋るようぎゅっと抱きしめている魔導書と、血反吐を吐く程に重ねた特訓のおかげで回復魔法――低級ではあるが――が使えるようになったと話したけれど。けれど……
……事実を忌々しそうに噛み締める母の目は、何よりも冷たい紫色をしていた。
まるで、「やっぱりお前は残りカスのままなんだな」とと告げているみたいに。
「――ホント残念だわ。あんたにもシンギュラーの血があるんだから何かはできると思ってたのに、使えるのが低級回復魔法一個だけなんて……やっぱり泥は泥のままか」
「お、お母さん……」
「ねぇノル、よく聞きなさい」
――出来損ないってね、名誉ある一族にとっては邪魔でしかないの。わかる?
たった一人でシンギュラー家の箔がボロボロ落ちるの。
誰にとっても迷惑で仕方ないのよ、あんたって存在は。
吐き捨てられたそれを理解した瞬間、頭がその呪詛のようにも思える言葉に飲み込まれる。体が、喉を通る空気の感覚すら忘れる程に冷たく感じた。指先まで冷えて、二人を包む微風のことすら意識の外に追い出されて、投げかけられた人格否定だけが存在する己の全てを蝕む。
たとえ何度吐いても重く残りそうなソレで、ノルは己の価値のなさを魂の底まで刻まれた気がした。
「お、おかあさッ、ごめ、なさ……」
「あーもういいわよ、謝ったってどうせ何も変えらんないでしょ?」
「で、でもッ――」
その後の言葉を遮るように告げられた母の声は、剣のようにノルを刺した。
「あんたはもういらないの。バイバイ」
残酷なお別れの口跡と同時に、背中に強い衝撃が走る。おそらく突き飛ばされたか蹴り飛ばされでもしたのだろう。目の前の空間に身を投げてしまわないように耐えようとしても、小さな体では耐えきれずに目の前の断崖絶壁の先に飛び込んでしまう。
家族に捨てられてしまったのが悲しくて、このすぐ先に見え隠れする”死”が怖くて、もはや全てが苦しくて仕方ないのに喉が詰まったみたいに声が出せない、叫べない。かろうじて伸ばした片手も何も掴めない。
哀れな少年は、音も立てずに地の底へと消えていった。
「……何か一つでも成長してたら、ブックカバーの一つくらいは買ってあげてもよかったんだけどね」
誰にも聞こえない呟きだけをそこに残して、母だった女性は急ぎ足で街へ駆けて行った。




