魔法事故
あの日から、5年が経った。
生物学の本が並んでいた博士の書棚は魔法事故の記録ファイルに取って代わっていた。その背表紙には、地名や人名が並ぶ。多くは、二度と聞くことの無い村の名だった。
魔法事故―魔法が悲劇を生んだ時、概ねそう呼ばれた。初めて使う魔法は予測不能であり、風が腕を切り裂き、人を石のドームに閉じ込め、時に村を焼いた。
僕は今も、博士の助手をしている。
「リアン、準備はいいか。」
「はい。」
「では、始める。」
僕の向かいには博士と少女が立っている。博士に促された少女は手をかざすと、自分の頭と同じ位の大きさの水の球を生成し、発射した。蒸気が漂っていることから、熱湯であることがわかる。水の球は僕の腹にぶつかろうとした部分から消滅した。服に濡れた箇所は無い。博士の目は鋭さを増し、少女は呆気にとられている。僕はもう、何も感じない。
「当たっていないな?」
「はい。」
「熱は?」
「熱くありません。」
「次は肥大化させる。もう一度だ。」
博士は少女の肩に触れながら、再度促す。生成された水の球は先ほどの3倍はある。博士の魔法について聞かされていなかったのだろう。大きさの変わった自分の魔法を少女は見開いた目で見ている。
発射された水の球はやはり、僕に当たるはずの部分は消滅し、残りは地面に散っていった。
「どうだ?」
「濡れた箇所、熱い箇所、ともにありません。」
「地面の濡れた箇所に触れてみろ。」
「…熱いはずですよね?」
「100℃を超えることは無い。ひどくとも軽い火傷程度だ。」
僕は躊躇いながらも指先で確認した。
「…熱いですね。」
「やはり純粋な魔法だけが消滅している…今回はここまでだ。」
僕は頷いた。けれど、この現象を誰より理解していないのは、博士ではなく、僕自身かもしれない。
全ての人が魔法を得た日に、僕は魔法を消せるようになった。もっと前から消せていたのかもしれないけれど。それがわかった日から、博士は僕を例外と呼んだ。博士の強弱をつける魔法が及ばないことも無関係では無いと思う。
「全ての人が魔法を調整するなんて出来るんでしょうか?」
博士は魔法事故の撲滅を目指している。責任の一端が自分にあると感じているのだろう。僕と同じように。
「現状、私以外に出力の調整が可能な魔法使いは皆無だ。しかし、可能性がある以上、私は研究を続ける。」
博士は真理に挑んでいる。しかし、時々考えてしまう。魔法を完全に制御出来たとして、事故は無くなるのだろうか。まだ世界は、崩れる気がする。
夜、研究室の外では、雪がちらついていた。窓から見る限り、まだどこも白に染まってはいない。
博士は1人、空を眺めていた。扉を開けると、静かな風が容赦なく熱を奪っていく。
「博士、今日の記録の整理、終わりました。」
「わかった。明日は別の事故を調査する。」
博士はこちらを見ずに答えた。灰色の空に月が滲んでいる。
「…リアン。」
「はい。」
「お前は、あの日をどう思う?」
僕は言葉に詰まった。
博士の声は低く、静かだった。表情は見えない。
「…偶然ではなかったのかもしれません。」
「偶然ではない、か。」
博士はこちらに視線を向けた。わずかに笑みが浮かんでいる。
「私は神話の時代の何かに触れてしまったと考えている。」
博士の目が何を捉えているのか、僕にはわからなかった。
「だが、まだ不完全だ。魔法は今、人の意思を超えている。私は"制御できる魔法"を作らなければならない。」
「…制御、ですか。」
「そうだ。人が神の領域に踏み込んだのなら、責任を取るのもまた人だ。」
博士は雪を払うように、手を軽く振った。僕は黙ってその動きを見ていた。
「…でも博士。」
「なんだ。」
「制御できたとして、それで人は満足するでしょうか。」
博士の手が止まった。風の音が聞こえる。
「…人は進歩する。それが、破滅を招くとしても。」
博士はそう言って、研究室に歩き出した。僕は扉が閉まるまで、雪の乗った背中を見つめていた。




